第六十七話 合図は、届いて初めて意味がある
合図を出すことと、知らせが届くことは同じではない。
火を上げても霧で見えない。板を叩いても風の音に消える。旗を振っても、誰も見ていない。
正しく出した合図が正しい相手へ届かなければ、何も知らせていないのと同じになる。
◇
見張り台を作ってから。
六日目。
朝から。
深い霧が出ていた。
家の向こうが。
白い。
北の柵も。
第二集合所の屋根も。
輪郭しか見えない。
「火、見える?」
ミラが北台の火窓を開く。
帰り火から。
赤い点が。
ぼんやり見える。
「一つ目は」
俺が答える。
「西門は?」
「見えない」
板を叩く。
コン。
間を空け。
コン。
西門側から。
返事はない。
「風は?」
ネッサが耳を澄ます。
「南から。音が北へ流れる」
北台から西門へ。
届きにくい。
「今日は、走る人を置く」
ハーレンが言った。
「合図の意味がない」
ベルンが言う。
「届かない日に、合図だけへ頼る方が悪い」
正しい。
仕組みは。
天気で使えない日がある。
使えないと分かったなら。
別の方法へ切り替える。
◇
昼前。
石橋の台から。
予定の確認札が来なかった。
「一刻遅れ」
ルナが記録を見る。
道番は。
朝。
石橋へ向かった。
橋の下。
水位。
欄干。
路面。
確認し。
昼前に。
白い旗を上げる決まり。
「霧で見えないだけ?」
ミラが尋ねる。
「旗が見えなくても、走者が戻る」
ハーレンが答えた。
「戻ってない」
「誰が行く?」
「衛兵二人。森番一人」
俺が一歩出る。
「俺も」
「行かない」
ミラが先に言った。
「橋の状態が分かる」
「道番も分かる」
「足場が壊れてたら」
「ドムさんを呼ぶ」
「図は俺が――」
「レオ」
ミラが。
俺の腕をつかんだ。
「町で見る仕事がある」
三年前なら。
一緒に行こうと言ったかもしれない。
今は。
残る役割を言う。
「合図を直す?」
「帰ってくる道を空ける」
待避所。
西門。
けが人が来た場合の場所。
馬。
荷車。
人が戻る前に。
入口を作る。
「分かった」
俺は。
外へ向かう衛兵へ。
道の図を渡した。
「石橋の手前。左の旧荷道は地面が弱い。霧でも入らないで」
「分かった」
返事を聞く。
今度は。
前だけを見ない。
◇
衛兵たちを送り出したあと。
町の中でも。
決めていた確認を始めた。
北列。
人数。
山羊。
火。
第二集合所の寝具。
霧で見えないため。
家ごとに、戸を叩く。
「全員いる?」
「いる」
「子どもは?」
「二人」
「靴を履かせて」
何が来たか分からない段階で。
全員を外へ出せば。
霧の中で人が迷う。
だから。
家の中で、出られる準備だけする。
集合所では。
ルナとユリが名札を並べる。
来た人。
まだの人。
外で働いている人。
「ベルンさんがいない」
ユリが言う。
「木場」
「木場の人は?」
「三人」
「名札は二つ」
一人。
今日だけ手伝いに来た男の名がない。
登録住人ではない。
でも。
町の中にいる。
「仮札」
ルナが無地の木片へ、男の顔の印を描く。
「名前はあと。人数を先」
名簿へ載っていない人も。
危険のときには数える。
木場へ走者を出す。
戻った板には。
四人。
全員、作業小屋。
火を消した。
そう書かれていた。
「一人多い」
「仮札の人」
「合った」
目で見えない霧の中でも。
数が合うだけで。
残された人がいない可能性を高くできる。
昼前。
石橋からの予定札が来ない。
その時点で。
町の中の準備は、半分終わっていた。
だから。
三回の板音が響いたとき。
誰も、寝具を探しに戻らなかった。
◇
半刻後。
霧の中から。
板を叩く音が聞こえた。
コン。
コン。
コン。
三回。
町へ近づく危険。
「三回!」
ルナが叫ぶ。
北台。
西門。
集合所。
同じ音を返す。
コン。
コン。
コン。
「人を第二集合所へ!」
ミラが声を上げる。
「北列と西列! 山羊は内柵! 火は覆う!」
「何が来る?」
ユリが尋ねる。
「まだ分からない」
「魔物?」
「三回は、町へ近づく危険」
種類を知らなくても。
動ける。
子ども。
歩けない人。
先に。
待避所は。
空ける。
門前へ。
けが人用の寝台。
水。
布。
馬を落ち着かせる囲い。
「道を閉じる?」
ベルンが尋ねる。
「全部は閉じない」
俺は答えた。
「戻ってくる人の入口を残す」
門の右。
人。
左。
馬と荷車。
中央。
空ける。
「魔物も入る」
「柵で曲げる」
西門前へ。
仮の斜め柵。
町へまっすぐ入れない。
森側へ。
大きく開く。
北柵と同じ。
◇
最初に。
霧の中から出てきたのは。
道番だった。
左腕を押さえ。
衛兵に支えられている。
「後ろ!」
息を切らし。
それだけ言う。
次に。
馬。
手綱が切れ。
鞍の横から血が流れている。
その後ろ。
角狼が二頭。
牛ほどではない。
若い個体。
頭に。
短い黒い角。
馬の血を追っている。
「門を閉じろ!」
衛兵が叫ぶ。
「馬が先!」
ミラが答えた。
一つ目の想定外は、馬を入れる側の門が狭かったことだった。
傷ついた馬は人の声に驚き、左の囲いへ寄らず、中央の空間へ入ろうとする。
「案内縄を外して!」
ミラが叫び、入口を区切っていた縄を一本外した。
道が広がり、馬がどうにか門を通る。ネッサが長い鉤で鞍の横に絡んだ血の布を取り、棒の先へ掛けた。
「何をしてる!」
「匂いを馬から離す!」
人が手に持てば、角狼も人を追う。ネッサは棒を使い、布を森側へ開いた誘導路へ引いた。
その後ろから、角狼が一頭、まっすぐ門へ向く。
斜め柵へ当たり、森側へ曲がるはずだった。
だが、霧で濡れた横木が地面を滑り、町側へ半分倒れている。出口を作るはずの柵が、逆に道を塞いでいた。
「柵が閉じてる!」
俺が走ろうとすると、ガルドに襟をつかまれた。
「行くな!」
「でも、出口が」
「人が入れば、狼も人を見る。壊れたまま使え!」
「森側の木栓!」
俺は門前から近い北台へ向け、板を三回叩いた。石橋まで届かなかった音でも、ここから北台までなら聞こえる。
見張りが長い縄を引く。
弱く作った木栓が抜け、横木が森側へ落ちた。閉じていた出口が開く。
角狼は一度、町側へ顔を向けた。
集合所の中で、子どもが泣く。
ミラは火を大きくしなかった。町側の火皿へ蓋をし、森側だけ、ネッサが動かす血の布が見える程度の小さな光を残す。
「火へ寄る?」
「角狼は灯蛾じゃない」
ネッサが言った。
「だが、暗い霧の中では、動くものを先に見る」
血の布を長い棒で引き、町から遠ざける。
一頭目の鼻が布へ向き、もう一頭もそちらへ曲がった。
二頭の角狼が出口を抜けた、その瞬間。
北台の火が消えた。
「何で?」
「灯蛾よけの蓋が、風で閉じた!」
血の布を照らしていた光がなくなる。
ネッサはすぐに音へ切り替え、木を低く、不規則に叩いた。さらに先にいた衛兵も、合図と間違えない不揃いな音を返す。
角狼は音を避けるように、森の薄い方へ走った。
見えなくなるまで、誰も追わない。
霧の中から足音が消え、しばらくしてネッサが片手を上げた。
「終わりではない。残った個体がいないか確かめるまで、門は開けるな」
森番が柵の外の血と足跡を調べる。
集合所でも、仮札を含めて人数を数え直した。
全員いた。
◇
ネッサが戻ったのは。
霧が少し明るくなってからだった。
手には。
血のついた土。
灰色の毛。
折れた草。
「森から町を襲いに来たんじゃない」
ネッサは、門前の地図へ指を置いた。
「橋の先で馬が傷ついた。血を流したまま、ここまで走った」
石橋。
待避所。
西門。
血の跡が。
道の上へ一本の線を作っている。
「角狼は、その線を追った」
「町の匂いを怖がらなかった?」
ユリが尋ねる。
「若い個体だ。群れから離れ、腹も減っていた。煙や鐘より、目の前の血を選んだ」
「帰り火まで来なかったのは?」
「来る理由がなかった」
ネッサは、はっきり答えた。
「北の峠から帰り火までは遠い。間に宿場、見張り、畑、人の煙がある。普段なら、角狼は山の獲物を追う。足跡が街道へ下りれば、山守が道を閉じる」
「今日は、道が開いてた」
ハーレンが言う。
「峠の報告は?」
「昨日までは、北側に一群。境見宿から外れていた」
「じゃあ、この二頭は?」
「岩背猪を追って南へずれたか。採石場の魔素変化で群れが割れたか。まだ分からない」
「窯のせい?」
ベルンが聞く。
「窯の匂いだけなら、ここまで一直線には来ない」
ネッサは。
門前の血を指す。
「今日は、こちらが道を作った」
人が造った石の道。
傷ついた馬が残した血の道。
二つが重なり。
山にいた魔物を、帰り火の入口までつないだ。
「道を閉じる?」
ルナが不安そうに尋ねる。
「ずっとは閉じない」
俺は答えた。
「血を運ぶ車。傷ついた家畜。魔物の足跡が出た日。条件で止める」
「毎回、荷車を洗う?」
「血があるときは」
「見えない血は?」
「犬を使う」
ネッサが言った。
「森番の追跡犬なら、古い血も分かる。ただし、全部の車を見る数はいない」
「じゃあ、御者の申告」
ミラが記録板へ書く。
道中で襲われた。
家畜が傷ついた。
血のついた荷を運んでいる。
町へ入る前に。
西門へ知らせる。
「隠したら?」
「門前で見つかったとき、洗浄と見張りの費用を隊商へ出してもらう」
ハーレンが答えた。
「でも、正直に言った隊まで罰みたいに止めたら、次から隠す」
ミラが言う。
「申告した車には、待つ場所と水を先に用意する」
「止めるだけじゃなく?」
「安全に入れる道を作る」
角狼を近づけないために。
道をなくすのではない。
危険を隠さず、途中で止め。
匂いを落とし。
人と家畜を先に守る場所がいる。
◇
門前の土は。
血のついた表面だけを削った。
そのまま水で流せば。
排水路の先へ匂いを運ぶ。
削った土は。
蓋のできる桶へ。
洗い水も。
森とは反対の処理穴へ入れる。
「全部掘る?」
カイが尋ねる。
「深くは染みてない」
ネッサが土の色を見る。
「表面を取り。灰樹の煙で匂いを散らす。ただし、火を大きくするな」
馬を入れた囲い。
案内縄。
ネッサが引いた血の布。
一つずつ。
触った人と。
置いた場所を確かめる。
避難が終わったあと。
元へ戻す仕事の方が長い。
「魔物がいなくなったのに、まだ外へ出られないの?」
コナが集合所の窓から尋ねた。
「森番が二回見るまで」
ミラが答えた。
「一回じゃ駄目?」
「一人が見落とすかもしれない」
「いつ終わる?」
「夕方に一度見直す。大人の道は安全が確認できたら開ける。でも、子どもの森側の道は明日の朝まで閉じる」
期限を伝える。
理由を伝える。
危険だから待て、だけでは。
人はいつか勝手に外へ出る。
午後の見回りで。
戻った足跡は見つからなかった。
森側へ走った二頭は。
北西の谷へ抜けている。
それでも。
翌朝まで、子どもの森側の道は閉じた。
帰り火ができてから、一度も居住区まで来なかった。
だからといって、次も来ないとは言えない。
けれど。
今日来たからといって。
明日から毎日、町を襲うわけでもない。
原因と。
足跡と。
戻った方向を分けて残す。
怖さだけを町へ残さないために。
◇
「石橋は?」
道番の手当てをしながら。
ハーレンが尋ねる。
「壊れていません」
「なぜ遅れた」
「橋の先で、隊商の馬が倒れていた。角狼に追われたらしい」
「隊商は?」
「荷車を置き、高台へ避難しています」
「人数」
「九人。確認しました」
「けが人」
「二人。歩ける」
「まだ外にいる」
町の危険は。
いったん離れた。
でも。
仕事は終わっていない。
「救援は?」
「霧が薄くなるまで待つ」
ネッサが答えた。
「角狼が戻る可能性がある」
「人は高台」
「水は?」
「一刻分しかない」
「袋を送る」
見張り台から。
合図は届かなかった。
なら。
人が。
安全な区間まで水を運び。
途中で。
衛兵へ渡す。
全員が。
危険な場所へ行かない。
◇
隊商へ水を送り、門前の安全確認が済んでから、俺たちは角狼が来たときの動きを一つずつ確かめた。
仮札を含めた人数は一致していた。避難の準備と、森側へ倒れる木栓も役に立った。
その一方で、馬を入れる門は狭く、斜め柵は霧で濡れて滑り、火窓の蓋は風で勝手に閉じた。
うまくいったことと、失敗したことを分けず、同じ板へ残す。
ただ、道番の左腕の傷は深かった。
角狼の爪ではない。
逃げる途中。
石橋の欄干から落ちた板へ当たったらしい。
「合図を出すために、台へ上った」
道番が言う。
「霧で見えないのに?」
「決まりだった」
決まりを守り。
怪我をした。
合図は届かなかった。
誰かを責めるだけでは、次も同じになる。
「霧の日は、台へ上らない条件もいる」
ミラが言った。
「地上の板音へ切り替える」
「遠くへ届かない」
「走者を早く出す」
「危険へ近づく」
「二人で、短い区間だけ」
届かなかった仕組みを。
全部捨てない。
使えない天気と。
使えない場所を足す。
見張り台の火窓には。
風で勝手に閉じない留め具も必要になった。
成功したのは。
斜め柵の壊れる場所。
先に準備した避難。
人数札。
失敗したのは。
霧の合図。
門の幅。
火窓の蓋。
全部を同じ板へ書く。
うまくいった話だけを残せば。
次の人は。
同じ霧の中で、また迷う。
◇
角狼を見たあと。
町の中には。
道を閉じた方がよいという声が出た。
「隊商が来なければ、血のついた馬も来ない」
「北の柵を全部高くするべきだ」
「森側へ罠を置く」
第二集合所で。
意見が続く。
ユリと弟たちは。
窓から北側を見なくなっていた。
夜。
犬が吠えただけで。
集合所へ走ろうとした家族もいる。
「道を閉じれば、角狼はいなくなる?」
ミラが尋ねる。
誰も答えない。
「山にはいる」
ネッサが言った。
「町へ来た二頭を討っても、峠の群れは残る。罠を置けば、鹿や人がかかる」
「じゃあ、何もしない?」
「したことを続ける」
血の申告。
門前の洗い場。
足跡の見回り。
霧の日の道番。
斜め柵。
避難札。
「今度は、もっと早く閉じられる?」
コナが尋ねる。
「道を?」
「家の扉」
「三回の音が来たら、すぐ閉じる」
ミラが答えた。
「でも、外にいる人が戻る入口は残す」
「狼も来る」
「だから、柵と森番がいる」
「怖くない?」
ミラは。
すぐに大丈夫とは言わなかった。
「怖いよ」
「火番なのに?」
「怖いから、止める順番を決める」
子どもたちへ。
角狼の絵を見せた。
鋭い牙を大きく描くのではない。
足跡。
角。
近づかない距離。
見つけたら、走らず戻る。
血のついた布へ触らない。
「倒し方は?」
ハルが尋ねる。
「教えない」
ネッサが答えた。
「お前たちの仕事は、見つけたら知らせることだ」
強い人が戦う話だけを残せば。
子どもは。
近くで見ようとする。
町が魔物へ勝ったのではない。
人を中へ入れ。
魔物が森へ戻れる道を開けた。
その話を。
失敗した火窓や柵と一緒に残した。
「道は開ける」
ハーレンが決めた。
「ただし、三日間は昼だけ。境見宿から足跡なしの確認が届くまで、大型隊商は一台ずつ」
「怖くなくなったから?」
ルナが尋ねる。
「怖さを、条件へ変えたからだ」
ハーレンが答えた。
閉じる条件。
開ける条件。
どちらも。
声の大きさではなく、記録で決める。
◇
夕方。
霧が薄れ。
隊商の九人は。
町へ入った。
荷車は。
橋の先へ残す。
角狼に襲われた馬は。
助からなかった。
「合図は出した」
道番が言う。
「石橋の台で、火も。板も」
「見えなかった」
俺が答えた。
「叩いた」
「風が反対だった」
「じゃあ、俺は何をすればよかった」
責めるためではない。
次を決めるため。
「霧の日は、予定時刻を短くする」
ミラが言った。
「合図が届く前に、戻る?」
「遠くまで行かない」
「橋の確認ができない」
「二人で行く。片方が途中の台へ戻る」
「人が増える」
「霧の日だけ」
さらに。
板の音。
高い音と。
低い音。
風に流されにくい大きな鐘。
「高い台より、途中の人」
俺が言う。
「見えない日に、見えることを前提にしない」
合図は。
出せば終わりではない。
受け取った印。
返事。
返事がないときの時間。
そこまで。
一つの仕組み。
「私たち、三回の合図は受け取った」
ルナが言う。
「音だけ」
「届いたものもある」
「ああ」
全部を捨てる必要はない。
届かなかった場所を。
直す。
道も。
合図も。
使って初めて。
傷が見える。
合図は。
届いて初めて意味がある。
そして。
届かなかったことを記録することにも。
次の命を守る意味がある。




