第五十九話 魔物は、町の境界を読まない
町には境界がある。
土地の線。森番の柵。役所の地図。
ここから内側は人が暮らす場所で、外側は森だ。
けれど魔物は地図を読まない。
人が引いた線を知らず、餌、水、匂い、魔素――自分に必要なものを追って来る。
◇
灰喰いの巣は。
試験窯の裏にある、古い土盛りの中で見つかった。
「窯を作る前は、いなかった?」
俺が尋ねる。
「いた」
ネッサが答える。
「眠っていたか。別の物を食っていた」
「火で起きた?」
「魔素を含む土を焼いた匂いで集まった」
土盛りを。
すぐ掘り返さない。
周囲へ。
白い石粉の線を引く。
出入りする穴。
虫の数。
どちらへ動くか。
半日見る。
「潰さないの?」
ミラが尋ねる。
「潰せば、残った虫が別の場所へ移る」
「全部捕まえる?」
「全部いるか、どうやって分かる」
見えたものだけを。
全部だと思わない。
三年前。
何度も覚えたことだった。
◇
巣の周囲を見ていると。
土盛りの北側に。
大きな鼻先で掘ったような跡が見つかった。
「灰喰いを食べる魔物?」
ユリが尋ねる。
「虫だけを食うとは限らない」
ネッサが跡へ手を入れる。
湿った土。
折れた根。
硬い毛が一本。
灰色。
針のように太い。
「岩背猪」
「もう来てた?」
「夜に、ここまで」
帰り火の家から。
歩いて半刻もない。
土盛りと町の間には。
古い切り株。
水路。
試験窯。
食べ物を捨てる穴。
「食べ物の穴を先に閉じる」
ミラが言った。
「閉じたら、別の匂いを探す」
ネッサが答える。
「じゃあ、どうする?」
「食べ物は蓋。灰は分ける。家畜は夜、内側へ。足跡を残す場所を作る」
「足跡を残す?」
土盛りから町へ向かう三つの場所へ。
細かい砂を薄く敷く。
朝。
何が通ったかを見るため。
人の靴。
山羊。
犬。
魔物。
形が違う。
「雨が降ったら消える」
「消えたことを記録する」
ネッサは。
毛を小さな布へ包んだ。
「今日の夜から、北列へ見張りを置く」
「家を空ける?」
北列に住む男が尋ねた。
「まだ」
「魔物が来てるのに?」
「一晩の跡だけで、全員を動かせば、次は誰も従わなくなる」
「来てからじゃ遅い」
「だから、動く条件を決める」
足跡が町側の砂へ入る。
家畜小屋が壊される。
見張りが岩背猪を目で確認する。
そのどれかで。
北列の人を第二集合所へ移す。
「一つで?」
「目で見たら一つ。足跡だけなら、二か所」
条件を細かくするほど。
判断は遅くなる。
少なすぎれば。
何度も人を動かす。
正しい数は、まだ分からない。
だから。
最初の夜は、安全側へ置く。
寝具をまとめる。
子どもへ靴を履かせておく。
山羊の綱を、切らずに外せる結びへ変える。
集合所の入口を空ける。
「家の中にいてもいいのに、準備だけするの?」
ルナが尋ねる。
「逃げると決めてから、袋を探さない」
俺は答えた。
最初の家が崩れた夜。
毛布を取りに戻ろうとしたミラを止めた。
今度は。
戻らなくて済むように。
持ち出す物を先へ決める。
水。
薬。
名簿。
子どもの寝具。
火消し道具。
全部ではない。
今夜を越すための物だけ。
準備が終わったころ。
森番の詰め所から。
角笛が鳴った。
◇
掘り跡が見つかったと聞くと。
帰り火の人たちは、すぐ試験窯を原因にした。
「火を入れる前には、こんな跡はなかった」
「灰喰いが出たのも窯のあとだ」
「窯を壊せば戻るんじゃないか」
第二集合所で。
声が重なる。
ラダは、壁際で腕を組んでいた。
「窯を止めても、焼いた土と灰は残る」
「じゃあ、全部町の外へ運ぶ」
「どこへ?」
「森の奥」
その言葉に。
ネッサが机を叩いた。
「森を捨て場所にするな」
誰もすぐには答えなかった。
「窯のせいじゃないと言うのか」
ベルンが尋ねる。
「一つの原因ではある」
ネッサは、森番の記録板を広げた。
三年分。
北の門。
古い石灰窯。
境見街道。
旧木場道。
足跡を見つけた日と。
向きを示す矢印。
「岩背猪の跡は、去年もあった」
「どこに?」
「帰り火から、北へ半日の谷」
「そんな近く?」
「人の足で半日だ。あいつなら、もっと早い」
さらに。
一昨年の春。
古い石灰窯の裏。
前の冬。
境見街道の北斜面。
同じ形の足跡が残っている。
「どうして、今まで来なかった?」
ミラが尋ねる。
「来る理由がなかった」
ネッサは地図へ。
三年前の帰り火を重ねた。
家は少ない。
北側は。
空地と低い草。
食べ物の匂いも。
灰も。
家畜も少ない。
次に。
今の地図。
家が増えた。
道が伸びた。
木場が広がった。
雨水溝を掘った。
窯を作った。
山羊が来た。
森の端を通る人も増えた。
「帰り火が森へ動いたわけじゃない」
ユリが言う。
「地図ではな」
ネッサが答える。
「音。匂い。土の中の水。魔素の流れ。人が動かすものは、土地の線より先へ届く」
試験窯の火が。
眠っていた灰喰いを動かした。
灰喰いを追い。
岩背猪が、いつもの谷から外れた可能性がある。
ただし。
ヴァリスの採石場で魔素の流れが変わり。
去年から群れ全体が南へずれているという情報もある。
「窯だけ壊せば、元に戻る?」
俺が尋ねる。
「分からない」
「道を閉じれば?」
「一度覚えた匂いは消えない」
「じゃあ、何をすればいい?」
「まず、町へ来た理由を一つずつ減らす」
灰を密閉する。
食べ残しを森側へ置かない。
山羊の餌を外へ散らさない。
森側の水溜まりを残さない。
そのうえで。
人がいる方ではなく。
森へ戻れる方を空ける。
「今まで無事だったのは、運?」
ルナが尋ねた。
「運もある」
ネッサは、隠さなかった。
「だが、毎朝見回りをして、足跡が出た日は門を閉じた。木場が血のついた革を運んだ日は、道を洗った。北風の日は、共同炉の煙を低く流さなかった」
「そんなことまで?」
「町で魔物を見ないための仕事は、見えない方がうまくいっている」
雨漏りしない屋根が。
雨の日に意識されないのと似ている。
水が落ちてきて初めて。
そこに屋根があったと気づく。
「今回は、その仕組みより町の変化が早かった」
ネッサが言った。
「人が増えた。道が増えた。火が増えた。見回りの線は、三年前のままだ」
「なら、線を変える」
ミラが地図へ、新しい北側の巡回路を描いた。
「窯の裏も見る。山羊小屋も。古い土盛りも」
「人は?」
「増やす」
「誰を?」
森番だけでは足りない。
かといって。
足跡を見分けられない人を、一人で森側へ出せない。
「最初は二人一組」
俺が言った。
「森番一人と、帰り火の当番一人。見つけた物は触らず、印を立てて戻る」
「魔物を追わない」
ネッサが確認する。
「追わない」
「見失ったら?」
「見失った場所を記録する」
「分からないことも?」
「分からないまま」
三年前。
森の門で教わったことと同じだった。
正体を決めつけず。
足跡の向きと。
見つけた場所を残す。
町が育てば。
境界を守る仕事も、育て直さなければならない。
◇
その日の午後。
森番の詰め所から。
角笛が鳴った。
一度。
短く二度。
森側で。
大型の魔獣を見た合図。
「何が出た!」
カイが石場から走ってくる。
「岩背猪だ」
ネッサの仲間が答えた。
「一頭。若い」
「群れは?」
「見えない」
「どこ?」
「北の緩衝地」
帰り火の家から。
歩いて半刻もない。
「近い」
ミラが言う。
以前。
大型の魔物は。
よほど餌や魔素の流れが変わらなければ、人の煙が濃い場所まで下りないと聞いた。
今。
一頭が。
町の境界近くまで来ている。
「窯の匂い?」
俺が尋ねる。
「分からん」
ネッサは。
すぐ答えを作らなかった。
「岩背猪は、土の中の魔根や虫を掘る。灰喰いの巣を追った可能性はある」
「窯を消す?」
「今は火がない」
「灰を移す?」
「動かすな」
猪の通り道に。
灰の匂いを広げれば。
町側へ誘う可能性がある。
「人を先に離す」
ミラが言った。
帰り火の北列。
子ども。
歩きにくい人。
森側の仕事場。
第二集合所へ移す。
三年前。
火事のときに決めた退避線。
今も残っている。
「家は?」
ユリが不安そうに尋ねる。
「人が先」
俺は答えた。
「でも、壊されたら」
「戻って直す」
「全部?」
「残ったものを見る」
今。
絶対に守れるとは言えない。
それでも。
家を守るために。
人を危険な場所へ残すことはできない。
◇
岩背猪は。
牛より少し小さかった。
灰色の毛。
背中に。
石の板を重ねたような硬い皮。
鼻先で地面を掘るたび。
土と小石が飛ぶ。
「本当に石みたい」
ルナが集合所の小窓から見る。
「近づくな」
カイが妹を後ろへ下げる。
魔獣は。
森の緩衝地にある古い切り株を掘り返し。
こちらへ進んでくる。
まっすぐではない。
地面の匂いを追い。
右へ。
左へ。
止まり。
また掘る。
「弓で追う?」
衛兵が尋ねる。
「外せば走る」
ネッサが答えた。
「どこへ行くか分からん」
「槍は?」
「近づきすぎる」
「罠?」
「作る時間がない」
戦えば。
倒せるかもしれない。
だが。
町の近くで傷つければ。
暴れる。
家。
人。
水路。
どこへ向かうか分からない。
「行かせたい場所を作る」
俺は言った。
「何で?」
衛兵が尋ねる。
「柵」
「今から?」
「止める柵じゃない」
岩背猪の力を。
細い木で止めることはできない。
だから。
通ってほしくない場所を狭くし。
森へ戻る方向を。
広く空ける。
「壁で押す?」
ミラが尋ねる。
「近づいたら壊される」
「匂いは?」
ネッサが言う。
「嫌う物がある?」
「強い石灰。乾いた灰樹の煙」
「火を使う?」
「風上なら」
ミラが。
風を見る。
今は。
町から森へ吹いている。
「煙を、家の前に線みたいに置く」
「全部は囲まない」
俺が言う。
「森へ戻る側は開ける」
◇
人を近づけず。
長い棒の先へ。
煙の出る枝束をつける。
町側の二か所。
水路側。
新しい家側。
岩背猪が来てほしくない場所へ。
煙を置く。
火は。
小さい。
燃やすのではなく。
匂いを流す。
ミラが。
離れた場所から。
一つずつ火を保つ。
「右、弱い!」
ネッサの合図。
ミラが。
右の火へ近づかない。
火番のオーデンへ。
板の印を見せる。
オーデンが薪を足す。
役割を分ける。
岩背猪が。
煙の手前で止まった。
鼻を鳴らす。
左へ。
そこにも煙。
右へ。
石灰を薄く撒いた地面。
足を止める。
後ろ。
森側だけ。
匂いが薄い。
「戻れ」
誰に聞かせるでもなく。
俺は呟いた。
岩背猪は。
すぐには動かない。
地面を掘り。
低い声を出す。
それから。
身体の向きを変えた。
森へ。
一歩。
また一歩。
「走らせるな」
ネッサが言う。
「追うな」
衛兵は。
弓を下げたまま。
距離を保つ。
魔獣は。
やがて木々の間へ消えた。
◇
誰も怪我をしなかった。
家も。
壊れなかった。
ただし。
岩背猪が掘った地面には。
大きな穴が残った。
切り株の下。
紫色の筋。
灰喰いが。
何匹も動いている。
「つながってる」
ミラが言う。
試験窯の巣と。
森の緩衝地。
土の中に。
魔素を含む層が続いている可能性がある。
「窯を別の場所へ移す?」
俺が尋ねる。
「一度の猪で決めるな」
ネッサが答えた。
「でも、何もなかったことにもしない」
調べる。
灰喰いの動き。
土の魔素。
岩背猪の足跡。
過去の目撃。
隊商の通行図。
翌朝。
魔素の層が続いているか。
小さな穴を三か所だけ掘った。
窯の裏。
緩衝地の中央。
森の門に近い古い切り株。
深くは掘らない。
岩背猪が開けた穴と。
同じ高さまで。
一つ目。
紫の筋がある。
二つ目。
細い。
三つ目。
途中で消える。
「窯から森へ伸びたんじゃない?」
ユリが尋ねる。
「逆かもしれない」
ネッサが古い切り株の年輪を削った。
内部に。
薄い紫の染みがある。
「この木は、窯を作る前から立っていた」
「じゃあ、土の中の流れは前から?」
「少なくとも、昨日できた物ではない」
試験窯は。
なかった流れを作ったのではなく。
もともとあった場所へ。
熱と灰を足した可能性が高い。
「場所を選ぶとき、調べなかった」
俺が言う。
「家から離す。木場から離す。煙が町へ戻らない。それは見た」
ミラが地図を振り返る。
「土の下までは」
「分からなかった」
ラダが答えた。
「ヴァリスなら、焼く前に魔針を何本も立てる。だが、それでも見落とす」
「次から、全部の建物で調べる?」
ルナが尋ねる。
「家一軒へ、窯と同じ試験は要らない」
「どう分ける?」
「強い火。深い穴。大量の水。地面へ長く力をかける物」
窯。
井戸。
大きな炉。
貯水槽。
魔素の流れへ影響しやすい設備は。
建てる前に。
地上だけでなく、土の反応も見る。
「今回の窯は?」
「すぐ壊さない」
ミラが言った。
「次の火入れは止める。層の端を調べて、灰の置き場を移す。安全が確認できたら、小さい火から」
使わない日を決める。
再開する条件も決める。
怖いから全部捨てるのでも。
せっかく作ったから続けるのでもない。
「国境は越える?」
ルナが尋ねる。
「魔物が?」
「うん」
「越える」
ネッサが言う。
「王国の線も。公国の線も。森人領の線も知らない」
「捕まえる人は?」
「国ごとに違う」
アルネア王国では。
町の衛兵と。
領主の狩猟隊。
ヴァリス公国では。
採石組合が、坑道近くの魔物を追う。
灰河同盟では。
川を渡る魔獣を、船組合が知らせる。
「別々だと、逃げた先で分からない」
ミラが言う。
「だから、隊商が図を運ぶ」
道が。
魔物を連れて来たわけではない。
だが。
道があることで。
遠くの変化を知る。
同時に。
魔物の通る場所へ。
人の家と荷物が増える。
町の境界は。
魔物を止めない。
なら。
境界の外に何があるかを見て。
入ってきたとき。
どこへ戻すかを考えなければならない。




