第五十一話 家を増やす前に、水を数える
ここまで読んでくれている読者様本当にありがとうございます。
「第三部 町を育てる」スタートです。
町を対象にした建築を主に、また成長したレオやミラの物語をお楽しみください。
家を一軒建てるだけなら、屋根と壁と床を考えればいい。
けれど、家が十軒、二十軒となり、そこへさらに人が来るなら、先に数えなければならないものがある。
眠る場所でも、柱の本数でもない。
明日の朝、全員が使う水だ。
◇
俺がこの世界で最初の家を建ててから、三年が過ぎ、春が来ていた。
八歳ほどだった身体は、十一歳になった。
最初は頭より大きく見えたガルドの木槌も、今では両手なら安定して扱える。鋸を十回引いただけで息を切らすこともなくなった。
もちろん。
「遅い」
ガルドには、まだ毎朝そう言われる。
「鐘が鳴る前に来た」
「俺は、その前からいる」
「太陽より早く来いって言うの、三年たっても変わらないんだな」
「お前の口が減らねえのもな」
工房の扉を開ける。
朝の冷たい空気に、木の匂いが混じった。
壁際には、乾燥中の梁材。
窓の下には、昨日削った板。
作業台の上には、一枚の紙が置かれている。
紙には、俺の字で数字と短い言葉が書いてあった。
――南列三番。
――屋根板二枚交換。
――雨のあと、柱脚確認。
以前なら、リゼに読んでもらわなければ何も分からなかった。
今では、仕事板や簡単な記録なら自分で書ける。
長い契約書や古い帳簿になると、まだ途中で止まる。
それでも、読めない文字の横へ絵だけを描いていたころとは違う。
「今日は南列の屋根からだろ」
俺が紙を持ち上げる。
「その前に、外を見ろ」
ガルドが顎で扉を示した。
「外?」
「朝から、お前を探してる奴がいる」
工房を出る。
町の西へ延びる道には、すでに荷車が二台並んでいた。
三年前、俺たちが試験区間として始めた道。
旧木場道を避け。
沈む地面を曲がり。
水路と古い石橋を一つずつ確かめながら延ばした道。
最初の冬を越えたあと、第二試験区間へ進み。
翌年には境見街道へ接続した。
今では。
森から来る木材。
川港へ向かう布。
北から運ばれる石灰。
西の領境を越える旅人。
以前より多くの人と荷物が、この町の西端を通る。
そして。
「レオ!」
道の向こうから、ミラが走ってきた。
三年前より背が伸びている。
十二歳になったミラは、俺より少しだけ高い。
赤茶色の髪は肩より下まで伸び、仕事をするときは後ろで一つに結んでいた。
今朝は、その髪が半分ほど解けている。
「走ると転ぶぞ」
「転んでない」
「髪、ほどけてる」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺?」
「朝、勝手に部屋へ入ってきたから!」
ガルドが工房の入口で鼻を鳴らした。
「何した」
「仕事板を取りに行っただけだ」
「一声かけなさいよ」
ミラが睨む。
「扉は開いてた」
「布は閉まってた!」
「あれ、扉じゃないだろ」
「仕切りなの!」
三年前。
俺たちは、一部屋だけの小さな家で三人並んで眠っていた。
その後、少しずつ増築した。
エナの寝室。
食事をする場所。
俺が図や道具を置く小さな作業部屋。
そして去年。
ミラが使う寝場所との間へ、布の仕切りをつけた。
壁を作るほど材料は要らない。
必要なときだけ閉じられる。
普段は開けておけば、風も通る。
そう説明して作った。
今朝。
仕切りの向こうに仕事板があるのを思い出し、いつものように入った。
ミラが服を着替えていた。
姿を見る前に布を閉じられたが。
「前は気にしてなかっただろ」
「前と今は違うの!」
「何が?」
「聞かないで!」
ミラの顔が赤い。
俺も、なぜかそれ以上は聞けなかった。
「次から声をかける」
「絶対だからね」
「ああ」
「二回」
「何で二回?」
「一回だと、聞こえなかったふりをするかもしれない」
「しない」
「前にもそう言った」
「いつ?」
「去年、勝手に私の棚を直したとき」
「あれは棚が傾いてたから」
「中に入ってた物を全部、床に並べたでしょ!」
「戻した」
「順番が違った!」
三年たっても。
俺たちは、よく同じことで言い合う。
ただ。
以前とは違う理由で、同じ場所へ入れないことが増えた。
「喧嘩しに来たのか」
ガルドが言う。
「違う」
ミラがすぐ答えた。
「人が来たの」
「客なら集合所へ連れていけ」
「住みたい人」
ガルドの顔から、わずかに眠気が消えた。
◇
帰り火の第二集合所には、見知らぬ家族が座っていた。
大人が二人。
子どもが三人。
一番小さい子は、母親らしい女性の膝で眠っている。
荷物は布袋が四つ。
木箱が一つ。
鍋。
巻かれた寝具。
それだけだった。
第二集合所の壁には、二枚の地図が並んでいる。
一枚は、三年前に住人たちが石や布で作った暮らしの地図を、木板へ写したもの。
もう一枚は、役所の土地管理図と照合した新しい地図。
家。
共同井戸。
排水路。
防火空地。
木場。
荷車道。
避難場所。
道路。
そして。
登録された地名。
――帰り火。
正式名の西部仮設居住管理区も、下へ小さく残っている。
通称だった名前は、三年の間に町の地図へ定着した。
「この人たち、南の川沿いから来たんだって」
ルナが地図の前に立っていた。
八歳になったルナは、もう病気で寝台へ伏せていたころの面影が少ない。
小柄ではあるが、よく走り、よく話す。
壁へ掛けた名札を指で追いながら、来客の名前を確認していた。
「名前は?」
「父親がテオ。母親がマルナ。子どもが、ユリ、ハル、コナ」
ルナは一人ずつ指す。
読み書きを覚えた速さは、俺よりずっと早かった。
今では帰り火の記録係を手伝っている。
「どこから?」
俺が尋ねると、父親のテオが立ち上がった。
「灰河沿いのロサという集落です」
言葉は通じる。
ただし、語尾に少し違う響きがある。
「灰河諸市同盟?」
「その北端です」
俺は地図の外を見るような気持ちで、男の顔を見た。
この町があるのは、アルネア王国の西部。
王国の南を流れる大河には、港町がいくつも連なり、灰河諸市同盟と呼ばれている。
三年前まで。
俺にとって国とは、領主の土地や役所の紙に出てくる、遠い仕組みだった。
道がつながると。
国は、人の服と。
言葉の違いと。
荷物の印として、帰り火へ入ってきた。
「どうして、ここへ?」
「川が変わりました」
テオが言った。
「変わった?」
「春の増水で堤が切れた。集落の半分が水へ入ったんです」
家が流された。
畑も。
共同の窯も。
同盟の町へ行けば仮宿はある。
だが、仕事を得られる保証はない。
「川港で、ここに家を造る仕事があると聞きました」
「誰から?」
「灰川隊商の荷主です。帰り火なら、働ける者を受け入れることがあると」
働ける者。
その言葉に、ベルンが眉を寄せた。
集合所の奥には。
サラ。
カイ。
ベルン。
リゼ。
それにハーレンもいた。
住みたい人が来たと聞き、朝の仕事を止めて集まったらしい。
「子ども三人も働くのか」
ベルンが尋ねる。
「上の子は手伝えます」
テオが答えた。
「そういう意味じゃねえ」
ベルンの声が低くなる。
「働ける奴だけ置く場所じゃない」
以前。
自分の家を動かされることへ一番強く反対していた男。
今では、新しく来た人へ先に言う。
帰り火は、仕事の役に立つ者だけの場所ではないと。
「空いてる土地はある」
ミラが地図を指した。
第二集合所の近く。
三年前、まだ誰のものでもなかった空き地。
三年前、帰り火の名前が地図へ載った夜。
ミラが、ここへ家の印を描きたいと言った場所だ。
今も。
建物の印はない。
「ここなら、防火空地からも離れてる」
「排水もつなげられる」
カイが地図へ近づいた。
十五歳になったカイは、ドムの工房で石工見習いとして働いている。
背丈は大人に近づき、肩にも筋肉がついた。
ただし。
「先に地面を見る」
ドムの言葉まで、よく似るようになった。
「空き地に見えても、下に古い支線があるかもしれない」
「三年前に調べた」
俺が答える。
「三年前の調査だろ」
「変わってるかもしれない?」
「地面は待ってくれない」
正しい。
「じゃあ、今日測る」
俺は地図の空白へ指を置いた。
「家の大きさは、荷物と人数を見て決める。最初は一部屋。あとで増やせるように――」
「待って」
ミラが遮った。
「何?」
「水は?」
「井戸がある」
「何人分?」
共同井戸を見る。
帰り火の登録住人は、三年前の二十七人から五十九人へ増えていた。
そこへ、この家族が五人。
昼間だけ働きに来る人。
道を通る旅人。
木場の作業員。
集合所で食事をする人。
井戸を使う人数は、登録札の数より多い。
「井戸の水位は?」
ミラがルナへ尋ねる。
「昨日の朝は、基準石から四つ半」
「去年の同じ時期は?」
「五つと少し」
「減ってる」
ルナが記録板をめくる。
「一昨年は、五つ半」
三年続けて。
春の水位が下がっている。
「雨が少なかったから?」
俺が言う。
「それもある」
ハーレンが答えた。
「道ができて、西門側の利用者が増えた。木場も新しい洗い場を使っている」
「洗い場の水は別にする話だっただろ」
ベルンがヴァルクを見る。
ヴァルクは、ドーレン商会の現地管理担当として帰り火に常駐していた。
「木場は規定量を越えていません」
「規定量が、三年前の人数で決めた数字なら?」
ミラが尋ねる。
ヴァルクはすぐには答えなかった。
「見直しが必要です」
「家を建てる前に?」
「その可能性があります」
俺は空き地を見る。
家は建てられる。
材料も、三年前よりある。
腕も。
手伝ってくれる人も。
それでも。
屋根があれば、暮らせるわけではない。
「水を数える」
俺は言った。
「今日使ってる量。井戸へ戻る量。雨の日に集められる量」
「その間、この人たちは?」
サラが尋ねる。
家族の一番小さな子が目を覚まし、不安そうに周囲を見ていた。
「集合所の奥を仮の寝場所にする」
「何日?」
「三日」
ハーレンが俺を見る。
「根拠は?」
「一日目に水位を朝と夜で測る。二日目に井戸以外の水を調べる。三日目に、何人まで増やせるか決める」
「三日で分からなかったら?」
「延ばす」
「仮の寝場所の期限も延ばす?」
「そのとき決める」
「最初に、延長の条件を書け」
ガルドが集合所の入口から言った。
いつの間に来たのか。
腕を組み、地図を見ている。
「仮の場所は、いつまでも仮のままにするな」
三年前。
地下水路の仮塞ぎを外したとき。
何度も覚えたことだ。
「分かった」
「お前の分かったは」
「前より信用できる」
ガルドは鼻を鳴らした。
「自分で言うな」
◇
調査を始める前に、テオたちへ井戸の決まりを説明した。
朝と夕方の混む時間。
飲み水を先にすること。
洗濯は、測定が終わるまで一日待ってもらうこと。
木場も、桶の数を記録すること。
「俺たちが来たせいで、今いる人の水が減るんですね」
マルナが言った。
責める声ではなかった。
だから余計に、簡単には答えられない。
「来たから、分かったこともあります」
ミラが先に答えた。
「井戸の水が、前から少しずつ減っていたこと。木場の洗い水が増えていたこと。旅人が使う分を、誰も数えていなかったこと」
「でも、私たちがいなければ、今すぐ調べなくても済んだ」
「調べないまま夏になったら、もっと困った」
マルナは、自分の膝で眠るコナの背中を撫でた。
「待つのはできます。ただ、待っている間に、追い出されるのかどうかだけは教えてください」
仮の寝場所は三日。
その期限だけを聞けば、三日後に出ていけと言われるようにも見える。
「三日で決めるのは、追い出すかどうかじゃない」
俺は、集合所の板へ三つの印を描いた。
家を建てる。
仮宿を延ばす。
別の場所を探す。
「どれになっても、理由を一緒に書く。分からないまま、朝になって荷物を外へ出すことはしない」
「本当に?」
「そのために、延長の条件も先に書く」
ガルドに言われたことを、そのまま使う。
測定が終わらない。
井戸の水位が危険線を下回る。
別の水源が見つからない。
そのどれかなら、仮宿を七日まで延ばす。
ただし。
七日の間に、次の判断日を決める。
「仮って、いつまでか分からないのが一番怖いんです」
テオが小さく言った。
川が堤を越えたあと。
彼らは三つの町で、仮の寝場所を移ったらしい。
朝には空けろと言われ。
次の場所では、荷物を置くなと言われ。
働き口が見つからなければ、また別の町へ行く。
「帰り火も、前は仮の場所だった」
ベルンが壁際から言った。
「今も正式名には仮設って残ってる」
「それでも住めるんですか」
「住めるように、決まりを直してきた」
ベルンは、自分でも少し驚いたような顔をした。
三年前。
決まりを作る側の言葉を、いちばん信用していなかった男が。
今は、仮のまま放っておかない仕組みを、新しく来た人へ説明している。
調査の板の下へ。
延長条件。
次の判断日。
仮宿を閉じるときの確認者。
ルナが、一つずつ書き足した。
「これで、三日後に急に追い出されない?」
ユリが尋ねる。
「急には」
俺は答えた。
「でも、水が足りなければ、この空き地へは建てられない」
「そのときは?」
「別の場所を、一緒に探す」
「一緒に?」
「ああ」
家を建てると言うより。
確かな約束ではない。
それでも。
分からないことを、分からないまま一人へ背負わせない。
今できる約束は、それだった。
◇
井戸の測定を始める前に、ネッサが集合所へ来た。
肩に、三本の白い杭を担いでいる。
「北の見回りは終わった。大きな足跡はない」
壁の端にある森番の板へ、白い丸を一つ足す。
三年前に見た、森の門の板と同じ印。
今では帰り火にも、朝と夕方の確認が届く。
「それ、毎日つけてるの?」
ユリが尋ねた。
「毎日だ」
「何もいなくても?」
「何もいないと確かめた日ほど、記録が要る」
テオたちの荷物を整理していたマルナが、鍋の底に残った骨を布へ包もうとした。
「それは、どこへ?」
ネッサがすぐに気づく。
「外へ埋めます。水場からは離します」
「森側はやめろ」
「なぜです?」
「鳥だけが掘るとは限らない」
マルナの表情が固くなった。
「灰河では、川へ流していました」
「ここで川へ流せば、地下水路の入口へ集まる」
俺が答えた。
「森へ置けば、匂いが残る。骨と肉の残りは、共同の蓋壺へ。あとで灰と一緒に処理する」
「決まりを知らなくて、すみません」
「知らない人へ先に説明してなかった、こっちの不足だ」
俺が言うと、ネッサが頷いた。
「人が増えれば、食べ物の匂いも増える。町が森へ近づかなくても、匂いの方が近づくことがある」
ユリが北の窓から、森の端を見た。
「魔物が来るの?」
「来る理由を作らなければ、多くは来ない」
「今まで来なかった?」
「帰り火の中まではな」
ネッサは白い杭を壁へ立てかけた。
「森の奥で足跡が出た日は、薪拾いを止めた。街道側で血のついた荷車が通った日は、門前を洗った。見張りが何も言わなかった日も、見ていなかったわけじゃない」
三年間。
角笛の音を遠くで聞いたことはある。
森の門が一日閉じたことも。
木材が届かず、仕事を延ばした日もあった。
けれど、帰り火の家の間を大型の魔物が歩いたことはない。
運がよかっただけではない。
毎朝、誰かが境目を見ていた。
「この家族が増えるなら」
ネッサが地図の北側を指した。
「井戸だけでなく、食べ残しと家畜の場所も数えろ」
「家畜はいません」
テオが答える。
「今はいない。仕事ができれば鶏を飼いたくなるかもしれん。町は、今ある物だけで決めるな」
水。
人。
匂い。
道。
家を一軒増やすことは、屋根の印を一つ足すだけではなかった。
◇
その日の昼。
俺とミラは、共同井戸の横へ測量棒を下ろした。
井戸の縁から身を乗り出さない。
棒の先へ浮きを結び。
水面へ触れた位置を、ルナが記録する。
「四つと、指三本」
「朝より下がってる」
「みんな使ったから」
水を汲む人へ。
桶の数を聞く。
セナのパン屋。
共同炊事場。
木場。
サラの洗い場。
家ごとの水。
記録していない水もある。
道を通る旅人が、勝手に一杯だけ汲むこともある。
一杯なら小さい。
けれど。
人が増えれば、積み重なる。
「最初の家を建てたとき」
ミラが井戸の影へ座る。
「水のこと、あとで考えたよね」
「あのときは共同井戸を使えるって条件だった」
「使えるかどうかしか見てなかった」
「ああ」
「今は?」
「全員が使い続けられるかを見る」
ミラは、記録板へ水の印を描いた。
「町を育てるって、家を増やすことじゃないのかもね」
「家は増える」
「でも、水は勝手に増えない」
「道も傷む」
「ごみも増える」
「仕事も」
「喧嘩も」
「最後だけ増やさなくていい」
「もう増えてる」
集合所の方から、ベルンとヴァルクの言い争う声が聞こえる。
確かに。
三年前より、直すものは増えた。
けれど。
帰り火へ住みたいと言う人も増えた。
ここを、帰る場所として選ぶ人がいる。
「空き地に、家の印を描ける?」
ミラが尋ねる。
「まだだ」
「三年前と同じこと言ってる」
「水が足りると分かってから」
「今度は理由がある?」
「前もあった」
「前は、分からないから描かなかっただけ」
「それも理由だ」
「じゃあ、決まったら一緒に描く?」
ミラが笑う。
三年前と同じ言葉。
ただ。
俺たちは、もう同じ場所で眠ってはいない。
同じ仕事を、いつも一緒にしているわけでもない。
ミラは火と炊事場の管理を学び。
俺はガルドやハーレンと道や家を見て回る。
朝、別々の時間に家を出ることも増えた。
それでも。
「一緒に描く」
答えると。
ミラは、少しだけ安心したように頷いた。
井戸の底で。
水面が小さく揺れている。
家を増やす前に、水を数える。
新しい人へ、すぐ屋根を渡せないのは苦しい。
けれど。
今夜だけ眠れる場所を作ることと。
来年も水を汲める町を作ることは。
同じ仕事の、違う順番だった。
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