第五十話 地図には、帰る場所を書く
第二部「町をつなぐ」最終話です。
帰り火を避けるだけでは、良い道にはなりません。
誰が計画へ参加し、どこで止められ、完成したあとに誰が直し続けるのか。
家の外へ伸び始めたレオたちの仕事を、最後まで見届けていただければ幸いです。
地図には、地面の形が描かれる。
山。
川。
道。
土地の境界。
けれど、その場所で暮らしている人の名前は、すべての地図に書かれるわけではない。
名前を書かなければ、地面の形は見やすくなる。
線も引きやすい。
数字も数えやすい。
その代わり。
線の下にある暮らしまで、見えなくなる。
以前の評議会で作った整備計画図には、帰り火の家と道が描かれていた。今日扱うのは、それを町の土地管理図、地名台帳、歴史記録へつなぐための手続きだ。
◇
協議が始まる前。
ハーレンは、大会議室の扉へ一枚の紙を貼った。
「何て書いたの?」
ミラが尋ねる。
「本日の協議で決める範囲だ」
リゼが読み上げた。
「つなぎ道案、第一試験区間の実施可否。西部仮設居住管理区の現在使用記録。西外仮宿の歴史記録。以上三点」
「それ以外は決めない?」
「ああ」
「道路全部を造るかは?」
「決めない」
「土地の持ち主は?」
「決めない」
「マーゼンたちをどうするかは?」
「裁定所の仕事だ」
協議の途中で、話の範囲が勝手に広がらないようにする。
決めること。
決めないこと。
扉へ入る前に、全員が確認する。
「紙一枚で止まるか?」
ベルンが言った。
「止まらなければ、お前が止めるだろう」
ハーレンが答える。
「当然だ」
ベルンは紙の下へ、自分の丸印を描いた。
今日の協議範囲を確認した印。
計画への賛成印ではない。
それも横へ書き添えられた。
大会議室の奥には、町の執行官アルノーが座っていた。町側の行政決定を担う人物で、商会の長期使用地担当であるヴァルクとは所属も役目も違う。
灰色の上着。
短く整えた髭。
机の上には、俺たちが作った二枚の確認書と、道路案の地図が置かれている。
その左右に、土地管理官と記録官。
後ろには、町の会計を担当する役人が二人。
イルザと衛兵たちは壁際に立っていた。
ヴァルクはドーレン商会の現地管理担当として、商会側の契約記録を説明するため、会計役人の後ろへ席を置いていた。
今回、町の決裁印を押す立場ではない。
ガルド。
ドム。
ネッサ。
オーデン。
サラ。
ベルン。
エナ。
帰り火の住人たち。
木場で仕事をしていた者たち。
会議室の椅子は足りず、後ろに立っている人も多い。
「子どもまで協議へ出すのか」
土地管理官が俺とミラを見た。
「測量と現地調査へ参加しています」
ハーレンが答える。
「参加したことと、決定権があることは別だ」
「そのとおりです」
「なら、なぜ前へ座らせる」
「質問されたとき、見たことを答えるためです」
ミラが俺の袖を引く。
「怒ってる?」
「まだ質問してるだけだ」
「顔が怖い」
「聞こえているぞ」
土地管理官が言った。
ミラは口を押さえた。
「申し訳ありません」
言いながらも、目は逸らさなかった。
アルノー執行官が小さく息を吐く。
「始めよう。まず、道路試験区間からだ」
◇
「この案を、町の第四案として採用せよという申請か」
アルノー執行官が尋ねた。
「違います」
ハーレンが答える。
「既存道接続調査案。通称、つなぎ道案について、第一試験区間の施工を求めます」
「施工するなら、採用したのと同じではないか」
「試験区間が使えなければ、次へ進みません」
「使えた場合は?」
「自動的には進みません」
アルノー執行官が確認書を開く。
「路面の沈下。排水。待避所。合図板。荷車の通行試験。春の雪解けと冬の吹き溜まり」
「はい」
「すべて確認するなら、一年以上かかる」
「一年は必要です」
会計役人が顔をしかめた。
「試験だけで一年だと?」
「道路を完成させるまで、一年何もしないという意味ではありません」
俺は地図を見る。
西門から最初の待避所まで。
そこだけなら、帰り火から旧石置き場へ荷を運ぶ道としても使える。
「第一試験区間は、完成後すぐに日常利用を始めます」
「道として使いながら試験するのか」
「はい。ただし、通せる荷の重さと台数を決めます」
「壊れたら?」
会計役人が尋ねた。
「停止条件に従って閉鎖します」
「閉鎖した道の費用は、無駄になる」
「壊れるまで全区間を造るより少ないです」
「壊れないよう、最初から丈夫に造ればよい」
「どれだけ丈夫にすればいいか、まだ分かっていません」
「道路規則に必要な厚さがあるだろう」
「地面が全部同じなら」
旧石置き場の固い地盤。
丘からにじむ水。
大木の根。
古い排水溝。
同じ区間でも、必要な路盤の厚さは違う。
「規則どおり、全区間を同じ深さまで掘れば、使える古い路盤まで壊します」
「規則を守らないのか」
「必要な強さは守ります」
「それを誰が証明する」
ドムが腕を組んだ。
「石工組合と木工組合が、載荷試験へ立ち会う」
「組合が自分の工事を認めるのか」
「役所と住人側も見る」
ベルンが答えた。
「役所と職人だけで勝手に丈夫だと言わせねえ」
「住人に道路の強度が分かるのか」
「分からねえから、数字を読ませる」
測る場所。
荷の重さ。
沈んだ幅。
試験前と試験後。
それを全員の前で記録する。
「判断するのは職人だ」
ベルンは続ける。
「だが、何を見て判断したかは俺たちも見る」
「住人の同意がなければ、試験を止めるのか?」
「危険を見つけたら、誰でも止める」
ガルドが答えた。
「再開するかは、担当者が確認する」
アルノー執行官が、停止条件の欄を指でなぞる。
「止める権限を広げすぎれば、工事が進まない」
「止められなかった結果が、中央案です」
ハーレンの声が低くなる。
偽の基準点。
沈下した地面。
帰り火の家。
地下水路。
安いという数字だけが先へ進み、疑問を出した人間は黙った。
「止めた理由は記録します」
ハーレンは続ける。
「故意の妨害でなければ、止めた者を罰しません。同じ理由が続く場合、人ではなく計画を見直します」
「工期は延びる」
「延びます」
「費用も増える」
「増える可能性があります」
「それで、安い道路になるのか」
「安いかどうかを調べるための試験です」
アルノー執行官が目を細める。
「中央案より高ければ、却下するのか」
「中央案の費用を、正しく計算し直してから比べます」
移転。
仮住居。
仕事を止める損失。
地下水路の補修。
沈下した土地の改良。
完成後の維持費。
今までの中央案には入っていなかった費用だ。
「住人が失うものまで、町がすべて金で払うのか」
会計役人が尋ねる。
「払えるかどうかを決める前に、失うものを記録する」
サラが言った。
「書かなきゃ、最初からゼロにされる」
「金額にできないものもある」
「だからって、ないことにはならないよ」
アルノー執行官は少し黙り、確認書の最後を見た。
「停止後の安全作業費」
「はい」
「工事を止めたあとにも、賃金を払う」
「掘った溝を戻し、材料を片づけ、危険な場所を塞ぐためです」
「途中で中止が決まれば、作業員が故意に停止を引き延ばす可能性は?」
木場の若い男が身じろぎする。
働く者が、賃金を得るために危険を利用すると疑われている。
「停止後に行う作業と日数は、区間ごとに先に決めます」
オーデンが答えた。
「止めれば仕事が増える仕組みにはしません」
「二日で終わらなければ?」
「予定外の作業は、改めて確認する」
「その間、危険な場所を放置するのか」
「緊急の安全作業は続けます。ただし、理由と人数をその日のうちに記録する」
「誰が確認する」
「役所、施工組合、住人側」
三者。
どれか一つだけで決めない。
アルノー執行官は、しばらく確認書を見ていた。
「第一試験区間に限る」
会議室の空気が変わった。
「それは――」
「最後まで聞け」
ベルンが口を開く前に、アルノー執行官が止める。
「期間は一年。第二区間への自動継続は認めない。月ごとの記録を提出する。重大な沈下、排水異常、事故があった場合、即時停止」
「冬の試験は?」
ネッサが尋ねる。
「含める。春の雪解けまでを一年目の確認期間とする」
「一年を超える」
リゼが言った。
「正確には、次の春の雪解けが終わるまでだ」
「賃金と維持費は?」
オーデンが尋ねる。
「試験区間の予算へ含める。ただし、雇用を将来の本工事まで保証するものではない」
木場の若い男が小さく頷いた。
約束できないことは、約束しない。
だが、今日決まった仕事まで曖昧にはしない。
「住人側の確認者は、誰にする」
アルノー執行官が尋ねた。
「一人ではなく、三人」
ベルンが答える。
「多すぎる」
「一人が病気になったら止まる」
「三人全員の印が必要か?」
「確認へ出るのは一人でもいい。記録は三人が順番に見る」
「名前は?」
「ベルン。サラ。カイ」
「カイは十二歳だろう」
土地管理官が言った。
「記録を学ばせる」
サラが答える。
「子どもへ公共事業の責任を負わせるのか」
「最終責任者じゃないよ。次に記録を引き継ぐ人間として見るんだ」
「未成年者の印に効力はない」
「効力を持たせろとは言ってない」
ベルンが口を挟む。
「見たことを残させる。俺たちがいなくなったあとも、読める奴がいるようにな」
アルノー執行官は土地管理官を見る。
「見習い記録者としてなら問題は?」
「正式確認印とは別にする必要があります」
「なら、分ける」
カイの名前の横へ、見習いを示す小さな印が追加された。
現在の作業だけではなく。
次に引き継ぐ人まで、計画へ入れる。
「第一試験区間を認める」
アルノー執行官が、確認書へ印を押した。
重い音ではない。
木の印が紙へ当たる、小さな音だった。
けれど。
その横には、何を認めた印かが書かれている。
つなぎ道案全体ではない。
第一試験区間。
期間。
停止条件。
確認者。
停止後の作業。
「印の範囲を、読み上げろ」
ベルンが言った。
「今、読んだばかりだろう」
土地管理官が呆れた顔をする。
「押したあとにも聞く」
リゼが最初から読み上げた。
押す前と。
押したあと。
内容が変わっていないことを確かめる。
◇
以前の評議会で認められたのは、十年間の居住区用途と、一年間の試験整備だった。
役所の整備計画図にも「帰り火」は載っている。
けれど、土地台帳そのものはドーレン商会の長期使用権を記したまま。
現在の使用者を必ず参照する仕組みも、通称を町の地名台帳へ登録する手続きも、まだ終わっていなかった。
「次は、西部仮設居住管理区の現在使用記録」
土地管理官の声が、先ほどより硬くなった。
壁へ三枚の地図が掲げられる。
土地管理図。
帰り火の生活図。
西外仮宿の歴史記録図。
「土地管理図へ、現在使用ありの印を加えることには反対だ」
土地管理官は最初にはっきり言った。
「なぜ?」
ミラが尋ねる。
「所有者と使用者を混同する者が出る」
「所有者じゃないって書くよ」
「文字を読まない者もいる」
「印を変える」
「どんな印でも、土地の上へ人の記録を置けば、権利の主張に使われる」
「使っているのに、空き地と書く方が間違いだろ」
ベルンが言った。
「土地台帳は、現在の生活を記録する帳面ではない」
「だから、俺たちの家がないことになった」
「建物台帳は別にある」
「そこにも全部は載ってねえ」
「許可なく建てられた建物だからだ」
「許可を取る場所も、読める紙もなかった」
「規則を知らなかったことは、規則を破ってよい理由にはならない」
「なら、規則を知らせなかった側は何も悪くねえのか」
二人の声が強くなる。
エナが、小さく咳をした。
ミラが背中を支える。
「わたしたちは」
エナがゆっくり話し始めた。
「土地をくれと言ってるんじゃないよ」
土地管理官がエナを見る。
「四十一年前に住んでいたから、今も全部が自分の土地だなんて言う気はない」
「では、何を求める」
「いたことを書いておくれ」
「歴史記録には残す」
「今いる人もだよ」
「現在の居住者は、生活図へ記録する」
「その生活図を、道を引く人が見なかったら?」
「確認を義務づける案が出ている」
「土地の地図には、何も書かないままかい」
「地図ごとに役割がある」
土地管理官の言うことも、間違いではない。
一枚の地図へ別々の意味を重ねれば、誤解が生まれる。
所有。
使用。
居住。
管理。
過去の記録。
全部を同じ線で描くことはできない。
「印ではなく、参照番号にする」
俺は言った。
「何?」
土地管理官がこちらを見る。
「土地管理図へ人の名前や手の印を直接載せない」
「それでは、今と同じだ」
ベルンが言う。
「区画番号の横へ、生活記録があることを示す番号をつける」
たとえば。
現在使用記録一。
共同施設記録二。
位置不明の歴史記録三。
それぞれ別の帳面や地図へつながる。
「番号だけなら、何の記録か分からない」
ミラが言う。
「横に印を置く」
「やっぱり印?」
「所有とは違う形にする」
手の形ではなく。
開いた帳面の形。
土地の横に、別の記録があることを示す印。
「帳面の印なら、土地を持ってるようには見えない?」
「少なくとも、家や手の形よりは」
土地管理官が地図を見る。
「参照記録の存在だけを示すなら、所有権の表示とは分けられる」
「道路を引く人は、その帳面を見る?」
サラが尋ねる。
「計画の事前確認項目へ入れる」
ハーレンが答えた。
「見なかったら?」
「調査完了の印を押せない」
「押さずに進めたら?」
「計画を停止できる」
「誰が止める」
「記録官。土地管理官。住人側記録管理者」
「誰か一人でも?」
「参照記録を見ていないことが確認できれば」
「見たと言って、見なかったら?」
「閲覧した日と、確認した者の名前を残す」
土地管理官は、まだ納得しきっていない。
「生活図を帰り火だけで管理すれば、住人が都合よく書き換える可能性がある」
ベルンが机を叩きかける。
ガルドが腕をつかんだ。
「最後まで聞け」
「役所は書き換えねえのか」
「役所も書き換えられた」
土地管理官は否定しなかった。
「だから、どちらか一方だけには置かない」
記録官が初めて口を開く。
年配の女性だった。
会議の間、ずっと三枚の地図を見比べている。
「生活図の原本は帰り火。写しを役所の記録庫。変更記録を木工組合へ置く」
「また三か所?」
ミラが尋ねる。
「三つが同じなら、変更が正しいと確認できる」
「違ったら?」
「いつから違うかを調べる」
「変更するときは?」
「住人側二名、役所側一名の立会い。新しい家や仕事場を緊急に記録する場合は、住人側だけで仮記載し、七日以内に役所へ写しを届ける」
「七日を過ぎたら、消す?」
「消さない」
記録官が答えた。
「未確認の印をつける」
「確認されるまで?」
「そうだ」
分からないもの。
確認できていないもの。
それを空白に戻さない。
「土地管理図へ、参照記録ありの印を載せることを認める」
土地管理官が言った。
「ただし、所有権・長期使用権を示すものではないと、地図の上部へ明記する」
「下じゃ駄目?」
ミラが尋ねる。
「どうしてだ」
「下だと、地図を広げたときに隠れるかもしれない」
机の上に物を置けば。
紙を半分だけ開けば。
下に書かれた説明は見えなくなる。
「上と、印の横」
記録官が言った。
「二か所へ書く」
「同じことを二回?」
「大事な誤解を防ぐなら、二回でいい」
アルノー執行官が頷く。
「現在使用記録の参照印を認める。試行期間は一年」
「試行?」
ベルンの声が険しくなる。
「一年後に消すのか」
「一年間、運用上の問題を確認する」
「問題があったら?」
「印の形や記録方法を見直す」
「記録そのものは?」
「消さない」
記録官が答えた。
「制度を見直しても、使用者の記録は残す」
「なら、いい」
ベルンは完全には信用していない。
それでも、今の答えを紙へ書かせた。
◇
最後は、西外仮宿の名前板だった。
六十三枚。
役所へは原物を持ち込まず、写しと図だけを置いてある。
「正式な登録簿ではない」
土地管理官が言った。
「食料配給のための木札です」
記録官が答える。
「だが、当時その場所に人がいた証拠にはなる」
「家の位置が分からないものも多い」
「位置不明として残す」
「同じ名前の者が複数いる」
「家番号と人数を併記する」
「木札が偽造された可能性は?」
ベルンが睨む。
「四十一年前から、俺たちが地下へ隠してたとでも言うのか」
「記録として扱うなら、可能性を確認しなければならない」
「全部疑ってたら、何も残せねえ」
「疑わず残せば、誤ったものも歴史になる」
どちらも必要だった。
残すこと。
確かめること。
「木の種類を調べた」
ガルドが言った。
「全部、四十年以上前に町の西側で使われてた白樫だ。新しく作った板じゃねえ」
「焦げ跡は?」
ドムが続ける。
「複数の板で同じ方向についている。まとまって壁へ掛けられた状態で火を受けた可能性が高い」
「文字の刻み方は?」
「当時の配給記録に残る書体と一致するものが多い」
記録官が答えた。
「すべてが同じ人物の手ではない。だが、複数の配給係が書いたという当時の記録と矛盾しない」
確かめられることを、一つずつ確かめた。
それでも、すべてが分かるわけではない。
「名前板を、西外仮宿の居住記録として登録する」
記録官が言った。
「ただし、現在の土地所有権を直接証明するものではない」
「その言葉ばかりだな」
ベルンが呟く。
「必要だからです」
エナが答えた。
ベルンが振り返る。
「土地を返せと言いたい人もいるだろうさ」
エナは名前板の写しへ目を落とす。
「返せないと言う人もいる。別の人が今使ってる場所もある」
「それでいいのか」
「よくはないよ」
エナは小さく笑った。
「でも、分からないことを、今ここで全部分かったふりはできない」
自分の家がどこだったのか。
家族の使用権が今も続くのか。
誰が受け継ぐのか。
今そこに住んでいる人と、どう分けるのか。
すぐには決められない。
「いたことを残しておくれ」
エナが言った。
「次に調べる人が、最初から探さなくて済むように」
記録官が深く頷いた。
「残します」
「あなた一人で決められる?」
「歴史記録への登録は、私の責任でできます」
「消すときは?」
「私一人では消せない規則にします」
記録の削除や変更には。
記録官。
土地管理官。
住人側代表。
三者の確認を必要とする。
「住人側が反対したら、間違っていても直せない?」
土地管理官が尋ねる。
「反対理由を添えて、裁定を求める」
記録官が答えた。
「勝手には消さない」
アルノー執行官が、最後の確認書へ印を押す。
「西外仮宿の居住記録を、町の歴史記録へ登録する」
エナは目を閉じた。
泣いてはいなかった。
ただ、肩から長い間載っていた何かが、少しだけ下りたように見えた。
◇
「まだ一つ残っている」
ミラが言った。
全員が、ミラを見る。
「何だ」
アルノー執行官が尋ねる。
「名前」
「名前板の登録は認めた」
「昔の名前じゃなくて、今の場所」
ミラは、空白のまま置かれていた新しい地図板を指した。
「帰り火って書く話」
土地管理官が眉間を押さえる。
「正式名称は、西部仮設居住管理区だ」
「それも書く」
「通称を土地管理図へ載せる必要はない」
「どうして?」
「正式な場所を特定できればよいからだ」
「みんな、帰り火って呼んでる」
「役所の地図は、呼び名を集めるものではない」
「境見宿は?」
ミラが壁の地図を指した。
「正式な名前?」
土地管理官が答えに詰まる。
ハーレンが地図を見る。
「正式には、西境街道第二宿駅」
「でも、地図には境見宿って書いてある」
「長く使われ、町の外でも通じる名称だからだ」
「帰り火は、まだ長くないから駄目?」
「そういう意味では――」
「何年呼べばいいの?」
会議室の後ろで、誰かが笑いをこらえた。
土地管理官は、ますます険しい顔になる。
「規則に年数はない」
「じゃあ、誰が決める?」
アルノー執行官が、記録官を見る。
「通称の併記に規則上の問題は?」
「地名台帳へ登録されていれば、可能です」
「登録されていない」
「今日、申請できます」
「誰が申請者になる」
「現在の使用者代表と、地区管理者」
地区管理者。
今までは、誰なのか曖昧だった。
帰り火の人たちが共同で掃除し。
井戸を直し。
火を見張り。
家の位置を記録してきた。
「一人の管理者は置かない」
ベルンが言った。
「では、代表者が必要だ」
「代表なら三人」
「また三人か」
「一人にしたら、そいつがいなくなったときに止まる」
土地管理官が大きく息を吐く。
「代表者は、ベルン、サラ、オーデン」
「俺?」
オーデンが自分を指す。
「木場の人間だぞ」
「帰り火の仕事も見てる」
サラが言った。
「それに、道の仕事と暮らしをつなぐ人が必要だよ」
オーデンはしばらく考え、頷いた。
「通称の理由は?」
記録官が尋ねる。
ミラがエナを見る。
エナは、答えをミラへ譲るように目を細めた。
「火が消えないから」
ミラが言った。
「追い出されても。名前が消されても。戻ってきた人が、また火をつけたから」
「帰る目印の火でもある」
サラが付け加える。
「仕事で遅くなっても、あそこに火が見えれば戻れる」
「最初から正式名称として使う意図はあったか」
「なかった」
ベルンが答える。
「勝手に呼んでただけだ」
「だから、残すんだよ」
ミラが言った。
「誰かに決められた名前じゃないから」
記録官が申請書へ言葉を書き込む。
「通称・帰り火。住人間で継続使用。帰還と共同火の意味を持つ」
「継続使用って、どれくらい?」
「確認できる範囲で、現在の居住区形成以降」
あの小さな家を建てる前から。
そこに暮らしていた人たちは、その場所を帰り火と呼んでいた。
「土地管理図には、正式名称を先に置く」
土地管理官が言う。
「その下に、通称を併記する」
「字を小さくしないで」
ミラがすぐに言う。
「正式名称と同じ大きさにはできない」
「どうして?」
「名称の区分が分からなくなる」
「じゃあ、枠を変える」
俺は言った。
「正式名称は四角い枠。通称は丸い枠」
「大きさは?」
「同じ」
土地管理官は反対しようとした。
記録官が先に口を開く。
「区分を枠で示すなら、文字の大きさを変える必要はありません」
「前例は?」
「境見宿の案内図があります」
「土地管理図ではない」
「今回が最初になります」
しばらく沈黙が続いた。
「試行期間一年」
土地管理官が言った。
ベルンが立ち上がりかける。
「名前を一年で消すという意味ではない」
土地管理官が先に続けた。
「表示方法を試す。正式名と通称の混同が多ければ、枠や配置を変える。通称の登録自体は残す」
「紙に書け」
「書く」
ベルンはゆっくり座った。
◇
すべての協議が終わったのは、日が傾いたあとだった。
会議室の机には、何枚もの紙が並んでいる。
第一試験区間。
停止条件。
停止後の安全作業。
現在使用記録。
西外仮宿の名前板。
通称、帰り火。
印を押した人間。
まだ確認が必要な人間。
空白の欄もある。
「全部決まった?」
ミラが尋ねた。
「今日決めることは」
ハーレンが答えた。
「道路は?」
「完成していない」
「帰り火の土地は?」
「所有権は調査が続く」
「マーゼンたちは?」
「裁定を待つ」
「オルセさんは?」
「資格の停止と調査。証言したことも記録される」
「ネルさんとロエンさんは?」
「関わった範囲を調べる」
「分からないことばかりだね」
「ああ」
「でも、前と違う?」
俺は机の上を見る。
以前は、分からないものが空白にされた。
空白は、何もないものとして使われた。
今は。
分からないことに、分からないと書いてある。
調べる人。
次に確認する日。
勝手に進めない条件。
それらが残っている。
「前より、戻る場所がある」
俺は答えた。
◇
三日後。
帰り火の第二集合所に、新しい地図が掛けられた。
最初に、役所の土地管理図。
区画番号。
境界。
町有地。
長期使用地。
所有権が調査中の場所。
そして、いくつもの区画の横に、小さな開いた帳面の印。
現在使用記録あり。
所有権を示すものではない。
その説明は、地図の上と、印の横に二度書かれている。
隣には、帰り火の生活図。
住んでいる人。
仕事場。
菜園。
井戸。
第二集合所。
地下水路。
点検口。
補修した壁。
仮塞ぎを外す順番。
文字が読めない人にも分かるよう、印が並んでいる。
さらに隣。
西外仮宿の歴史記録図。
位置が分かる名前。
位置が分からない名前。
焦げた板。
人数だけが残る板。
不明である理由も、一つずつ書かれている。
エナ・セルド。
大人二人。
子ども二人。
家番号十七。
位置は一部証言に基づく。
エナは、その名前の前へ長く立っていた。
「間違ってない?」
ミラが尋ねる。
「人数は合ってるよ」
「場所は?」
「たぶん、この辺りさ」
エナが現在の家々を見回す。
「昔とは、ずいぶん違う」
「直す?」
「分からないところは、そのままでいい」
エナは名前の横についた三角の印へ触れた。
「分からないって、ちゃんと書いてあるからね」
地図の一番上。
四角い枠に、正式名称。
西部仮設居住管理区。
そのすぐ下。
同じ大きさの文字が、丸い枠に入っている。
通称――帰り火。
整備計画図にあった呼び名が、今度は土地管理図の参照印と地名台帳、歴史記録へ同じ番号で結ばれていた。どれか一枚だけを見ても、ほかの記録の存在が分かる。
「太くなってない」
ミラが不満そうに言った。
「同じ大きさになっただろ」
「帰り火の方を太くしてって言った」
「規則で同じ太さになった」
「新しい規則を作ればいいのに」
「最初から全部は変えられない」
「次に変える?」
「必要なら」
ミラは少し離れて地図を見た。
「でも、見えるね」
「ああ」
小さくない。
端へ追いやられてもいない。
誰かが勝手につけた印でもない。
そこに暮らす人たちが呼んできた名前として、地図へ残った。
◇
試験区間の工事は、まだ始まっていない。
材料を数え。
作業班を決め。
古い排水溝の図を写し。
待避所の合図板を試作しているところだ。
道の完成は、もっと先になる。
「道ができてないのに、もう全部終わったみてえな顔してるな」
ガルドが言った。
「してない」
「地図の前で、ずっと立ってる」
「見てるだけだ」
「何を」
生活図の外側。
帰り火から西へ伸びる線。
つなぎ道案の第一試験区間。
その先に、古い石橋。
さらに先。
境見宿。
川港。
地図の端には、対岸へ渡る船の印。
北へ向かう石灰道。
峠の近くには、角のある狼を示す小さな注意印。
「この印、本当に必要?」
ミラが角狼の絵を見る。
「街道の危険情報だ」
「狼に見えない」
「犬みたいだな」
俺が言うと、描いたリゼが睨んだ。
「では、あなたが描いてください」
「角狼を見たことがない」
「私もありません」
「誰が見た?」
「北から来た荷運び人」
「なら、その人に直してもらう」
地図の外には。
俺たちがまだ見たことのない場所がある。
魔物が道を止める山。
石灰を運ぶ荷車。
大きな船が入る川港。
対岸の都市。
別の土地の家。
別の材料。
別の造り方。
「道がつながったら、川港まで行ける?」
ミラが尋ねる。
「今も行ける」
「もっと行きやすくなる?」
「ああ」
「その先は?」
「船に乗れば」
「対岸?」
「たぶん」
「家の造りも違うかな」
「川の近くなら、床を高くしてるかもしれない」
「魔法の火を使う家もある?」
「あるかもしれない」
「骨で造った家は?」
「何の骨だよ」
「魔物」
ミラが地図の角狼を見る。
「こんな小さい狼じゃ、家は無理だね」
「牛くらいあるって言ってたぞ」
「それでも柱一本くらい?」
「骨を柱にできるか分からない」
「分からないなら、見に行かないと」
ミラは、もう外へ行く気でいる。
「すぐには行かない」
「分かってる」
「道の試験がある」
「分かってる」
「帰り火の記録を引き継ぐ人も――」
「それも分かってる」
ミラが俺を見る。
「戻る道を作ってからでしょ」
「ああ」
「なら、先に作ろう」
外へ行くための道。
帰るための道。
同じ道でも、向きが違う。
けれど。
片方だけでは、道とは呼べないのかもしれない。
◇
夕方。
帰り火の家々から、煙が上がり始めた。
セナから買ったパンを焼き直す匂い。
サラの仕事場で煮た染料の匂い。
薪が少し湿っている家では、白い煙が低く流れている。
ミラが指先へ、小さな火を灯す。
木片の先へ移す。
火は大きくならない。
風に揺れながらも、消えずに残った。
「今日は使っていいのか」
ガルドが言った。
「夕方の共同火だよ」
「分かってる」
「火薬庫では使わなかった」
「それも分かってる」
「小さく保てるようになった」
「見れば分かる」
「少しくらい褒めてよ」
ガルドは火を見る。
「前よりはましだ」
「レオと同じ言い方」
「俺はちゃんと褒めた」
「前よりは、って言った」
「前より上手くなったって意味だ」
「最初からそう言って」
ミラが共同火へ木片を入れる。
赤い火が、ゆっくり広がる。
誰かが帰り火と呼び始めた場所。
名前を書かれず。
地図の空白へ置かれ。
道を通すために、また消されかけた場所。
そこに今、家がある。
仕事場がある。
井戸がある。
地下には水路がある。
地図には、暮らしている人の記録がある。
そして。
町の外へつながる、まだ途中の道がある。
「家を建てたときは」
俺は火を見ながら言った。
「ここまで考えてなかった」
「何を?」
「家の外のこと」
「道?」
「道も。仕事も。役所も。地図も」
「一軒あればよかった?」
「あのときは」
雨を避ける屋根。
眠れる床。
エナとミラが追い出されない場所。
それだけで精いっぱいだった。
「今は?」
「一軒だけじゃ足りない」
家が二軒なら、道がいる。
人が増えれば、水路がいる。
仕事場。
集合所。
地図。
記録。
町の外へ続く道。
誰かが一人で造るのではない。
それぞれの知っていることをつなぐ。
「でも、最初の家も必要だったよ」
ミラが言った。
「あれがなかったら、今ここにいない」
「ああ」
「だから、小さく始めてよかった」
「そうだな」
最初から町を造ろうとしていたら。
何も造れなかったかもしれない。
雨漏りする家を直そうとし。
間に合わないと知って。
小さな家を建てた。
そこから。
道が生まれた。
「レオ」
「何?」
「地図に、家の印が足りない」
ミラが生活図を指した。
「どこ?」
「ここ」
第二集合所の近く。
まだ何もない、小さな空き地。
「誰の家?」
「まだ誰のでもない」
「なら、描けないだろ」
「これから造るかもしれない」
「誰が住むんだ」
「分からない」
「分からないなら、描かない」
「仮の印は?」
「造ると決まってから」
「止める場所を先に決めたのに、始める場所は描かないの?」
「同じ話じゃない」
ミラが笑う。
「じゃあ、決まったら一緒に描こう」
「ああ」
地図は完成していない。
帰り火も。
道も。
俺たちも。
空白は、これから埋めてよい場所として残っている。
ただし。
誰もいないことにする空白ではない。
何があるのかを確かめ。
誰が使うのかを聞き。
分からなければ、分からないと書く。
そのうえで。
次の線を引く。
家は、帰る場所を作る。
道は、帰る場所同士をつなぐ。
地図には。
その両方を、消えないように書かなければならない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二部「町をつなぐ」は、今回で完結となります。
第一試験区間は承認されましたが、道路全体の採用や完成が決まったわけではありません。
短い区間を実際に使いながら、沈下、排水、待避所、合図、冬の吹き溜まり、春の雪解けを確認します。条件を満たさなければ、次の区間へは進みません。
また、帰り火は正式名称だけでなく、
「西部仮設居住管理区 通称――帰り火」
として町の地図へ記載されました。
土地の所有権は引き続き調査が必要ですが、現在そこを使用している人がいること、西外仮宿に人々が暮らしていたことは、空白へ戻されない記録になりました。
道路計画に関わったオルセ、レム、ロイ、マーゼン、ニルについても、助けたこと、証言したこと、制度上の問題、そして本人たちが行ったことを分けて調査と裁定が続きます。誰か一人を捕らえたことで、仕組みまで直ったことにはしません。
第一部では、レオたちは追い出されないための小さな家を建てました。
第二部では、その家の外へ出て、道、水路、仕事、記録、土地、役所と関わりながら、居場所同士をつなぐ方法を学びました。
次の第三部では、建てた家と、つながり始めた町を「維持し、育てる」段階へ進みます。
少し成長したレオとミラたちが、建てたあとの問題、新しく来る人々、町の外から届く技術や魔物の影響と向き合います。
第二部までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




