第二十二話 捨てたものは、なくならない
共同排水を詰まらせた灰は、籠三つ分になった。
「こんなに流したの?」
ミラが、溝からかき出された灰の山を見る。
灰だけではない。
焦げた木片。
野菜の皮。
魚の骨。
破れた布。
何かの毛。
濡れた土の中で、すべてが混ざっている。
「一度に捨てたわけじゃない」
灰を流した小屋の住人が言った。
名前はトルン。
五十歳ほどの男で、普段は町の染物工房で薪を運ぶ仕事をしている。
「前から少しずつ、あのくぼみへ捨ててた。溝ができたから、水で流しただけだ」
「あのくぼみ?」
俺たちはトルンの小屋の裏へ回った。
土壁の陰。
草で隠れた浅い穴がある。
中には古い灰と、割れた器の欠片が積もっていた。
「ここに捨ててたの?」
「ああ」
「雨が降ったら?」
「下へ染みる」
「流れた先は?」
「知らん」
トルンは悪びれずに答えた。
「今までは、誰にも迷惑をかけてない」
「見えなかっただけかもしれない」
俺は穴の底を棒で探る。
柔らかい。
灰と土が混ざり、泥のようになっている。
穴の下側には、小さな水の筋ができていた。
昨日まで溝がなかったため、雨水は地面を伝い、さらに低い場所へ流れていたらしい。
「この下に誰かの家は?」
ミラが地図を見る。
「少し離れて、布の寝床がある」
「そこ、雨の日に水が来るって言ってた」
俺たちが聞き取りをしたとき、一人暮らしの男がそう話していた。
上流から泥水が来る。
けれど、どこから流れてくるかは分からないと。
「灰の水だった?」
「全部がここからとは限らない」
ハーレンが穴の周囲を見る。
「だが、一部は流れていただろう」
「今まで何も言われなかった」
トルンが言った。
「流した水に、名前は書いてないからな」
ハーレンが答える。
自分の小屋の裏から見えなくなれば、捨てた物は消えたように思える。
だが実際には、低い場所へ動いただけだ。
「灰は燃やした木だろ」
トルンは納得していない。
「土へ戻るだけじゃないのか」
「燃やした物による」
ネッサが、灰の中から黒い木片を拾い上げた。
「これは何を燃やした」
「薪だ」
「黒い染みがある」
「染物工房の古い枠も混ざってた」
「染料が染み込んだ木?」
「ああ」
ネッサの表情が変わる。
「灰を素手で触るな」
サラが籠へ手を伸ばしかけて止まる。
「毒なの?」
「分からない。染料に使った鉱石や植物が残っている可能性がある」
「燃やせば、なくなるんじゃないの?」
カイが尋ねる。
「燃えてなくなるものもある。灰に残るものもある」
ネッサは黒い木片を別の器へ入れた。
「工房へ確認する」
「全部危ない?」
「普通の薪の灰と混ざったから、見分けられない」
混ぜる前なら、使える灰と危険な灰を分けられた。
混ざったあとは、全部を同じように扱うしかない。
「ごみって、混ぜると増える?」
ミラが言った。
「量は同じだろ」
ベルンが答える。
「使えた物まで、捨てないといけなくなる」
「なら、捨てる物が増える」
ミラの言う通りだった。
◇
「灰は、ごみじゃない」
サラが言った。
共同地図の前へ住人たちを集め、何をどこへ捨てるか話し合っている。
「きれいな木の灰なら、布を洗うのに使える」
「どうやって?」
ミラが尋ねる。
「水へ灰を入れて、しばらく置く。上の水を使うと、油汚れが落ちやすい」
「手で触っていいの?」
「強すぎる水は駄目だよ。肌が荒れる」
「それ、危なくない?」
「使い方を知らなければね」
サラは針仕事だけでなく、以前働いていた仕立屋で洗濯もしていたらしい。
「畑へ使う奴もいる」
別の住人が言う。
「灰をまけば、土がよくなるって」
「何にでも使えるわけじゃない」
ネッサが止める。
「植物によっては合わない。多すぎれば枯れる」
「じゃあ、結局捨てる?」
「使える人が持っていけばいい」
ベルンが言った。
「冷えた灰を集めて、欲しい奴が取る」
「染物工房の木を燃やした灰は?」
「別」
「薪の灰と、どう見分ける」
「燃やす前から分ける」
炉へ入れる段階で、普通の薪と、何かが塗られた木を分けなければならない。
「でも、寒い夜に燃える木がなかったら、何でも燃やすだろ」
トルンが言う。
「使うなと言われても、凍えるよりはましだ」
誰もすぐには答えなかった。
危険な木を燃やすな。
言うのは簡単だ。
だが、薪を買えない人もいる。
「燃やしていい解体材を、最初に分ける」
俺は言った。
「家の修理で外した木も、薪にできる物とできない物を分けた」
「誰が見る?」
「ガルドさんとネッサさん」
「毎回呼ぶのか?」
ガルドが嫌そうに言う。
「最初だけ、見分け方を教える」
「表面に色がついている木。油の匂いがする木。魔染みのある木は別にする」
ネッサが指を折る。
「腐った木は、屋外で乾かしてから。虫の跡がある場合は、勝手に家の近くへ置かない」
「覚えられない」
住人の一人が言った。
「絵にする」
共同地図の空白へ、燃やしてよい木と、確認が必要な木の印を描く。
何も塗られていない木は、一本の薪。
色や油がついた木は、薪の上へ大きな疑問の印。
虫穴がある木には、小さな虫。
「虫がかわいすぎる」
ミラが言う。
「分かればいい」
「子どもが燃やしたくなるよ」
「じゃあ、もっと気持ち悪く描いて」
ミラが炭を取り、俺の虫へ足を何本も加えた。
「多すぎる」
「危ないって分かる」
「こんな虫、この森にいない」
「絵だからいいの」
◇
「灰を分けるとして、どこへ置く?」
ハーレンが話を戻す。
「家の近くは駄目だ」
乾いた木や布が多い。
火が残った灰を捨てれば、見えないまま燃え広がる可能性がある。
「水槽の近く?」
「消火用の水を灰で汚すな」
「共同排水の横?」
「また詰まる」
「古い空堀の上?」
「地面が弱い。それに、子どもが近づく」
使えない場所ばかり増えていく。
地図を見る。
住居区の南側。
人の道から少し離れた場所に、ごみ置き場の予定地を描いていた。
「ここ」
「森に近い」
ネッサが言った。
「食べ物を置けば、動物が来る」
「もっと町側」
「風が家へ臭いを運ぶ」
「木場側は?」
「火の残った灰を木材の近くへ置くつもりですか」
ヴァルクが即座に拒否した。
「木場と住居の間の防火空地」
「建物を置かない場所だ」
ドムが言う。
「小さな石囲いなら、地面への重さは少ない?」
「場所による」
古い空堀の上を避け、硬い地盤を探す。
ドムが棒を刺し、ネッサが周囲の風を見る。
「ここなら、家からも木場からも離れてる」
地図の中央より少し南。
人の道からは見える。
だが、子どもの遊び場予定地とは反対側。
「灰だけ?」
サラが尋ねる。
「灰と食べ物は分ける」
灰には火の危険。
食べ物には臭いと動物。
同じ囲いへ入れる理由はない。
「布や木の欠片は?」
「使えるものは、材料置き場」
「使えないものは?」
「燃やせるなら薪」
「燃やせない布は?」
次から次へ、捨てる物が出てくる。
「最初から、全部の場所を作るのは無理だ」
俺は答えた。
「まず、今日困ってる灰と食べ物」
「布は?」
「籠を一つ置く。いっぱいになったら、どうするか決める」
「決めてないのに集める?」
「溝へ流されるよりいい」
◇
灰を置く場所には、低い石囲いを二つ作ることになった。
一つ目は、火を消すための場所。
二つ目は、完全に冷えた灰を保管する場所。
「最初から冷えた灰を、二つ目に入れればいい」
トルンが言う。
「冷えたって、どうやって確かめる?」
カイが尋ねる。
「手を近づける」
「表面だけ冷えて、中が熱いかもしれない」
炉の灰は、見た目が白くても内部に炭が残っていることがある。
「最初は、全部一つ目」
俺は言った。
「水を少しかけて、広げる」
「水をかけすぎれば、灰の泥になる」
サラが言う。
「底を石にする」
地面へ直接置けば、灰水が染み込む。
平たい石を並べ、周囲も石で囲う。
雨は入るが、一か所へたまりすぎないよう、底をわずかに傾ける。
「流れた水は?」
ハーレンが尋ねる。
「共同排水へつなぐ?」
「灰水を入れるな」
話が戻ってしまう。
「石囲いの中で乾かす」
屋根をつける?
だが、火の残った灰の上に木の屋根を作るのは危険だ。
「蓋は石?」
「重くて毎回動かせない」
「鉄板は高い」
「雨が少し入るのは仕方ない」
灰を薄く広げて冷ます。
深く積まない。
雨水がたまらないよう、囲いの一部へ小さな隙間を作る。
ただし、灰そのものは流れ出ないよう、隙間の内側へ細かな石を詰める。
「水だけ出す?」
「完全には無理だ」
ハーレンが言う。
「だから大量の水をかけるな。火が残っていれば、少量ずつだ」
「いつ二つ目へ移す?」
「翌日の朝」
「夜まで熱かったら?」
「棒で混ぜて確認する」
「誰が?」
また管理する人が必要になる。
「灰を捨てた人」
「捨てて帰ったら?」
「印を掛ける」
道具と同じだ。
灰を入れた人は、自分の家の印を一つ目の囲いへ掛ける。
翌朝、火がないことを確認し、二つ目へ移す。
「忘れたら?」
「次の灰を入れられない」
「別の奴が勝手に入れる」
「札がある家へ知らせる」
「知らせてもいなかったら?」
「管理役が記録する」
決まりは、一つで終わらない。
「面倒だな」
トルンが言う。
「溝を詰まらせた灰を取る方が面倒だった」
カイが答えた。
「お前、俺に厳しくないか」
「俺も盗んだくさびを返すとき、同じこと言われた」
「何を?」
「信用されるまで働け」
トルンは灰の籠を見る。
「俺も?」
「詰まらせた分は」
「誰に返す」
「全員」
◇
食べ物の残りは、住居区の南東へ作る浅い穴へ入れることになった。
森から離れ。
井戸の候補地からも離れ。
共同排水の下流側。
「穴へ捨てるだけ?」
ミラが尋ねる。
「土をかける」
ネッサが答えた。
「匂いを減らし、動物が掘り返しにくくする」
「全部土に戻る?」
「骨や硬い種は時間がかかる」
「布は?」
「入れるな」
「灰は?」
「少量なら、土へ混ぜる場合もある。だが、何の灰か分からないものは入れない」
食べ物の穴にも、決まりが必要だ。
肉や魚の骨を多く入れれば、動物が来る。
大きな骨は別に乾かす。
「骨を何に使う?」
「削って針や留め具にする職人もいる」
サラが答えた。
「売れる?」
カイがすぐに反応する。
「きれいにして、種類を分ければね」
「魚の骨も?」
「小さすぎる」
「じゃあ、ボルツさんに聞く」
「また仕事が増えたね」
ミラが笑う。
捨てていた物の中にも、使えるものがある。
木。
布。
灰。
骨。
ただし、混ぜれば使えなくなる。
「ごみ置き場じゃなくて、材料置き場になる?」
カイが尋ねる。
「全部じゃない」
俺は答えた。
「使えるものを分けたあと、残ったものがごみになる」
「最初からごみじゃない?」
「使い方を知らなかっただけの物もある」
空き家と同じだ。
誰も使っていないから、何もない場所とは限らない。
◇
石囲いを作る作業は、ドムが指示した。
まず地面を浅く掘る。
柔らかい土を除く。
小石を敷く。
その上へ平たい石。
「炉と同じ?」
ルナが柵の外から尋ねる。
「似てるけど、火を燃やす場所じゃない」
カイが答える。
「火を消す場所」
「火のお墓?」
「違う」
「燃え終わった火を入れるんでしょ?」
誰もすぐには否定できなかった。
「灰休め場」
ミラが言う。
「何それ」
「灰が冷えるまで休む場所」
「役場の記録には使えません」
リゼが言った。
「正式には?」
「熱灰一時保管所」
「長い」
「灰休めでいい」
ベルンが石を運びながら言う。
「帰り火と同じで、役場だけ長く書け」
帰り火の中に、灰休め。
町の記録とは別に、住人が呼ぶ名前が増えていく。
「二つ目は?」
「冷え灰置き場」
「そのまま」
「分かりやすい方がいい」
石囲いの側面へ印を彫る。
一つ目は、炎の上へ大きな×。
二つ目は、手のひら。
「手で触れる灰?」
カイが尋ねる。
「ああ」
「本当に触って確かめるなよ」
ガルドが止める。
「棒で混ぜて、手を近づける。いきなり入れるな」
「なら、手の印は危ない」
ミラが言う。
「じゃあ、炎がない印」
灰の山の上へ、何も描かない。
「分かりにくい」
「文字が読める人は書けばいい」
「読めない人のための印でしょ」
しばらく考え、冷え灰置き場には小さな布袋の絵を描いた。
洗濯や畑に使うため、持ち帰れる灰。
「灰を袋に入れてるように見える」
「それでいい」
◇
石囲いが完成すると、トルンが共同排水から出した灰を運んだ。
「これは一つ目?」
「染物工房の木が混ざってる」
ネッサが答える。
「冷えていても、使える灰には入れない」
「じゃあ、どこへ?」
危険な可能性がある灰を置く場所が、まだない。
「工房へ返す」
俺は言った。
「燃やしたのはトルンさんだけど、元の木は染物工房」
「持っていって、受け取ると思うか?」
「聞く」
「断られたら?」
「役場で話す」
トルンが嫌そうな顔をする。
「俺が運ぶのか」
「誰が流した?」
「俺だよ」
「俺も行く」
「子どもを連れていけば、工房が受け取ると思ってる?」
「何を燃やしたか聞く必要がある」
ネッサも同行することになった。
◇
染物工房の裏には、色のついた木材が山積みになっていた。
青。
赤。
黒。
染料を混ぜる桶の枠や、布を掛ける棒。
「これは廃材です」
工房の主人が言った。
「薪として持っていってよいと、働く者へ伝えています」
「燃やした灰を、居住区の溝へ流した」
俺が答える。
「それは、こちらの責任ではありません」
「灰に危ないものは残る?」
「使用した染料によります」
「何を使った木か分からない」
「では、使わない方がよいでしょう」
「どこへ捨てる?」
主人が少し黙る。
「町外れの廃棄穴へ」
「どこ?」
「東側です」
ハーレンへ確認すると、町の東には工房向けの廃棄場所があるらしい。
ただし、帰り火からは遠い。
「最初から、そこへ持っていく決まり?」
「工房から出る廃材は、本来そうです」
リゼが記録を確認する。
「薪として持ち出された場合、持ち出した者の所有物になります」
「じゃあ、燃やしたあとの灰もトルンさんの物?」
「規則上は」
「危ない木だって、教えた?」
俺が主人へ尋ねる。
「廃材です。使用方法まで、工房が管理する義務はありません」
ヴァルクと似た言葉。
「燃えるから薪にした」
トルンが言う。
「危ないなら、最初から言え」
「あなたは、何に使った木か聞きましたか」
「薪をもらうのに、いちいち聞くか」
「無料の材料を持ち出しておいて、工房へ責任を求めるのですか」
二人の声が強くなる。
「どっちかだけの問題じゃない」
俺は間へ入った。
「工房は、危ない可能性がある木へ印をつける」
「手間が増えます」
「誰かが燃やして、町で火事や病気になったら?」
「そこまで責任を負えません」
「全部じゃない。危ない木だと分かる印だけ」
工房の主人は、ネッサを見る。
「森番としても必要だと思いますか」
「魔染み材を普通の薪と混ぜられる方が困る」
「魔染みの木は使っていません」
「今後も?」
「……保証はできません」
主人は長く息を吐いた。
「廃材置き場を二つに分けます」
「燃やしてよい物と、確認が必要な物?」
「そうします。ただし、持ち出す者にも名前か印を残してもらいます」
「文字が書けない人は?」
「自分の印で」
帰り火で作った方法が、工房にも使われることになった。
「危ない木へ、どんな印を?」
ミラが描いた、足の多い虫を思い出す。
「炎の上に×」
俺は答えた。
「それなら、誰でも分かる」
「燃やすなという意味ですね」
「絶対に燃やせない物と、工房へ聞く物は分ける?」
ネッサが尋ねる。
「印を二つ作ります」
炎に×。
炎に疑問の印。
「決まりが増えた」
トルンが呟く。
「灰を運ぶ距離よりは短い」
工房の主人が答えた。
◇
混ざった灰は、工房の荷車で東側の廃棄場所へ運ばれることになった。
トルンも荷車へ乗る。
「俺も行くの?」
「場所を覚えろ」
工房の主人が言った。
「次から、自分で持っていけ」
「そんな木、もう燃やさない」
「なら、印を見てください」
トルンが出発する前に、共同地図の灰休め場へ自分の印を掛けた。
「灰は持っていくのに?」
カイが尋ねる。
「詰まらせた溝の掃除がまだ終わってない」
「覚えてたんだ」
「お前に言われたからな」
「信用されるまで?」
「働くんだろ」
トルンは不満そうに答えた。
◇
食べ物を埋める穴は、子どもたちが近づかないよう低い柵で囲った。
完全に閉じれば、土を運びにくい。
入口には簡単な木の棒を渡し、大人なら外せるようにする。
「動物も外せる?」
ミラが尋ねる。
「大きな魔獣ならな」
ネッサが森側を見る。
「その場合、この柵では止まらない」
「どうする?」
「匂いを出さないことが先だ」
食べ物を入れたら、必ず土をかける。
穴を一度に深く掘らず、浅い場所を順番に使う。
「いっぱいになったら?」
「上へ土をかけて、別の場所へ移る」
「何か植えられる?」
「しばらく置いてからなら」
「野菜?」
「すぐ食べる物は避けた方がいい」
「花なら?」
ルナが尋ねる。
「花はいいかもしれない」
使い終えた穴の印として、花を植える。
場所を忘れて、再び掘らないためにもなる。
「何の花?」
「そのとき決める」
「月みたいな花」
「そんな花ある?」
ネッサが少し考える。
「夜に開く白い花なら、森の端にある」
「それがいい」
ごみを埋めた場所が、いつか花の場所になる。
すぐではない。
土へ戻るまで待つ必要がある。
◇
夕方、共同地図の横へ新しい板が追加された。
排水へ流してよいもの。
流してはいけないもの。
水は丸。
泥は小さな三角。
灰には×。
食べ物にも×。
布。
骨。
油。
「油の絵が分からない」
ミラが言う。
「壺から黒い滴」
「水にも見える」
「黒く塗る」
「夜は見えない」
「夜に溝へ捨てるな」
決まりの下には、捨てる場所を描く。
灰休め。
冷え灰。
食べ物の穴。
再利用できる材料の棚。
「破ったら、どうなる?」
住人の一人が尋ねる。
全員の視線が集まった。
「最初は、片づける」
俺は答えた。
「自分が捨てた物を、自分で取る」
「誰が捨てたか分からなかったら?」
「管理役が呼びかける」
「誰も名乗らなかったら?」
決まりを作っても、隠す人はいるかもしれない。
「全員で片づける?」
「それじゃ、捨てた奴が得をする」
ベルンが言う。
「見つけた人が損をするのも違う」
サラが答える。
「何度も続いたら、見張りを決める」
「一日中?」
「時間を決める」
「それも仕事になる」
「だから、最初は自分から名乗れる決まりにする」
俺は言った。
「間違えて捨てたとき、すぐ片づければ違反として残さない」
「隠して見つかったら?」
「記録する」
「何回で家を取られる?」
「いきなり家は取らない」
リゼが答えた。
「一度目は片づけと説明。二度目は共同作業の追加。繰り返す場合は、住居区の管理会で話し合い、それでも改善しなければ役場へ報告します」
「管理会?」
聞いたことのない言葉だった。
「この区画では、住人側の管理役が必要です」
リゼがサラとカイを見る。
「排水だけでなく、ごみや火の記録も増えました」
「サラさんとカイだけ?」
「二人では負担が大きいでしょう」
「俺は嫌だぞ」
ベルンが先に言った。
「まだ頼んでない」
「頼まれても嫌だ」
「でも、意見は言う」
サラが返す。
「言う」
「なら、話し合いには来な」
「管理はしない」
「棒の印を記録へつけるくらいは?」
「……それくらいなら」
正式な役職を決めるのではなく、七日ごとに住人が集まり、問題を確認することになった。
「全員?」
「来られる人」
「来られない人の意見は?」
「印を預ける」
「誰に?」
「同じ家族か、近くの人」
また決まりが増える。
だが、役場がすべてを決めるのではない。
住んでいる人が、自分たちの場所で起きたことを話す時間。
「最初は、次の大鐘の日」
リゼが板へ書く。
文字を読めない人のため、鐘の絵も描いた。
◇
トルンが戻ってきたころには、空が赤くなっていた。
「灰は?」
カイが尋ねる。
「東の穴へ置いた」
「全部?」
「工房の人間が確認した」
「溝の掃除は?」
「今からやる」
トルンは棒の先へ布を巻き、共同排水の底をこする。
灰の細かな粒が、まだ土の隙間に残っている。
「水を流すぞ」
サラが桶を持つ。
「少しずつ」
掃除した灰を、下流へ流して終わりにはしない。
途中で板を立て、濁った水を浅い穴へ受ける。
水が染みたあと、残った灰をかき取る。
「面倒だ」
トルンが何度目か分からない言葉を言う。
「捨てたときは、一瞬だった」
俺は答えた。
「片づけるのに、一日かかった」
「次からは灰休めへ持っていく」
「染みのある木は?」
「燃やさない」
「印を見る?」
「見る」
「信用されるまで?」
カイが嬉しそうに尋ねる。
「お前、その言葉が好きだな」
「言われる側が増えたから」
トルンは棒で灰を集めながら、少し笑った。
◇
溝の掃除が終わる。
水を流す。
灰で詰まっていた場所を、水が通る。
昨日より濁っていない。
「流れた」
ルナが言う。
「葉っぱは?」
「今日は駄目」
カイが答える。
「どうして?」
「試験の水じゃないから」
「仕事じゃないと流しちゃ駄目?」
「葉っぱも、たくさん流せば詰まる」
ルナは手に持っていた葉を見た。
少し考え、共同地図の屋根の下へ置く。
「飾り?」
「捨てない」
「でも、枯れるよ」
「枯れたら、食べ物の穴?」
「葉は土に戻せる」
「じゃあ、あとで持っていく」
捨てる前に、どこへ行くか考える。
小さな子どもにも、少しずつ伝わり始めている。
◇
家へ戻る途中、ミラが尋ねた。
「前の世界では、ごみをどうしてたの?」
「袋に入れて、決まった日に出してた」
「そのあと?」
答えようとして、止まった。
集められたごみが、どこへ運ばれていたのか。
燃やされたのか。
埋められたのか。
使える物が分けられたのか。
知識としては知っていた。
けれど、自分の捨てた物が最後にどこへ行ったのか、見たことはほとんどない。
「見えない場所へ運ばれてた」
「消えた?」
「消えてない」
袋を出せば、自分の家からはなくなる。
それで終わったと思っていた。
「俺も、トルンさんと同じだったかも」
「溝に流してたの?」
「流してない。でも、その先を見てなかった」
「誰かが片づけてた?」
「ああ」
「名前は知ってた?」
「知らなかった」
自分の暮らしから出る物を、誰かが運び、分け、燃やし、埋めていた。
その仕事を見ないまま、捨てればなくなると思っていた。
◇
仕事板へ、今日のことを描く。
灰で詰まった溝。
黒く染まった木。
二つの石囲い。
食べ物を埋める穴。
工房の廃材につける印。
共同地図のルール板。
「多いね」
ミラが覗く。
「溝一つの話だったのに」
「溝が詰まったから、全部見えた」
灰を捨てる場所。
燃やしてよい木。
食べ物の行き先。
材料として残す物。
守れなかったときの話し合い。
「町をつなぐって、道や溝だけじゃないんだね」
「ああ」
「決まりでもつながる?」
「同じ決まりを、皆が知ってれば」
「守らない人もいる」
「そのとき、どうするかも決める」
「追い出さない?」
「すぐには」
「ずっと守らなかったら?」
答えに迷う。
誰か一人の行動で、皆の水や火が危険になる場合もある。
「話して、直して、それでも駄目なら役場に相談する」
「家を取られるかもしれない?」
「ああ」
「怖い決まりだね」
「だから、誰か一人で決めない」
住人同士。
役場。
職人。
決まりを使う人たちで話す。
「レオが決めるんじゃない?」
「俺も一人の住人だ」
最初は、自分たちの家を守るために線を引いた。
今は、ほかの人の家も同じ線でつながっている。
自分に都合のよい決まりだけを作れば、いつか別の人が同じことをする。
◇
翌朝。
灰休め場の一つ目には、初めて新しい灰が入っていた。
薄く広げられ。
水が少量かけられ。
横には、車輪の印の札が掛かっている。
「誰の家?」
ミラが共同地図を見る。
「オーデンさん」
昨夜、炉を使ったらしい。
棒で灰を混ぜる。
煙は出ない。
手を近づけても熱は感じない。
「冷え灰へ移せる」
サラが灰を小さな金属の皿ですくう。
「もう洗濯に使う?」
「何を燃やしたか確認してから」
車輪の印の家へ聞きに行く。
普通の薪だけ。
色のついた木は入れていない。
灰は二つ目の囲いへ移された。
「最初の使える灰」
カイが言う。
「売れる?」
「全部売ろうとするな」
サラが笑う。
「少しは共同の布洗いに使う」
「共同の布?」
「病気の人や子どもの服を洗うため」
「残りは?」
「欲しい人が持っていく」
「持っていった人も印を残す?」
「必要?」
灰の量を管理するなら必要かもしれない。
だが、すべてに記録を求めれば、使うだけで疲れてしまう。
「一袋までなら、自由」
俺は言った。
「それ以上は、管理役に聞く」
「どうして一袋?」
「一人が全部持っていかないように」
「袋の大きさは?」
また問題が出る。
「共同の袋を一つ置く」
同じ大きさ。
その袋一杯まで。
「袋を持って帰ったら?」
「別の器へ移して、袋は戻す」
「戻さなかったら?」
「印を残す」
「また印」
ミラが笑う。
「印だらけの町になるね」
文字を読めない人がいても、自分たちで使える仕組み。
そのために、印が増えていく。
◇
昼前。
帰り火の入口に立つ共同地図には、昨日までなかった小さな板が三枚増えていた。
溝へ流してよい物。
灰休めの使い方。
食べ物を埋める場所。
絵は整っていない。
虫は足が多すぎる。
油の滴は水に見える。
ベルンの棒は曲がっている。
それでも、住人たちは板の前で立ち止まり、自分の印と決まりを確かめる。
家を建てれば、雨を防げる。
溝を作れば、水を流せる。
だが、暮らせば必ず、使い終えた物が出る。
灰。
食べ物。
壊れた木。
汚れた水。
家から外へ出しただけでは、なくならない。
見えない場所へ移り。
誰かの家の前へ流れ。
誰かが片づけることになる。
町は、人と人をつなぐ。
同時に、一人の捨てた物も別の人へつないでしまう。
だから、捨てる場所にも道がいる。
誰が運び。
どこへ置き。
何に使い。
最後に何が残るのか。
その行き先まで考えて、初めて片づけたことになる。
帰り火で最初にできた共同の決まりは、家の建て方ではなかった。
捨てた物を、誰かの見えない場所へ押しつけないための決まりだった。
お読みいただきありがとうございます。
共同排水を詰まらせた灰をきっかけに、帰り火で最初の共同ルールが生まれました。
次回は、住居区を横切る木場の荷車道が動き始め、人の道と仕事の道がぶつかります。




