第14話 岩山の夜
その報せは、夕刻の鐘と同時に飛び込んできた。
「――西の岩山で遭難! ヴァルディア家のパーティーが帰還予定を半日超過! 応援要請!」
ギルドが騒然となった。B級以上の招集が原則だが、あいにく街に残っているB級は出払っている。マスターが招集を組み直す間にも、日は沈んでいく。
「夜の岩山にワイバーンだぞ……松明も使えねえ、無理だ」「C級じゃ棺桶が増えるだけだ」
酒場の空気が重く沈む中、俺は装備を確認していた。
「レイン」
マスターが俺の前に立った。険しい顔だった。
「……お前、行く気か。E級の派遣は規定外だ」
「応援要請の第七項。『現場地理に精通する者は、ランク不問で先導役として随行できる』。俺は先月、岩山の麓の薬草依頼で東壁の経路を三度歩いた。地理要件を満たす」
「……規定を諳んじやがった」ガストンが杯を置いて苦笑した。「マスター、こいつ一人の方が下手な隊より速えぞ。俺が後詰めで続く。それでどうだ」
マスターは唸り、俺の目を見た。
「……死ぬな。生きて戻ることも依頼のうちだ。いいな」
「了解した」
出口で、リゼが待っていた。何か言いかけて、口を閉じ、それから俺の左手首の腕紐を、両手でぎゅっと握った。
「――あたしの警報は『危ない』って言ってる。でも『行くな』とは言ってない。……分かってるもん、あんたが誰かを見捨てられないの」
「見捨てられない、ではない。救助可能性の計算が」
「はいはい、計算計算。……ちゃんと帰ってきて。朝ごはん、作って待ってるから」
腕紐の結び目を、彼女は最後にもう一度だけ確かめた。
*
夜の岩山は、静かだった。
東壁の経路を、俺は月明かりだけで登った。暗所の移動は下水路で積んだ。足場の判断は崖の救助で積んだ。気配の消し方は、猫が教えてくれた。無駄な依頼は、ひとつもなかった。
遭難者は、西壁の中腹の岩棚にいた。予測通りだ。脆い西壁が崩れ、退路を断たれたのだろう。取り巻き二人は負傷、従者は気絶。そしてギルベルトは――岩棚の隅で、膝を抱えて震えていた。
その頭上を、影が旋回していた。
ワイバーン。翼長六メートル。巣を刺激された成体だ。岩棚の連中が生きているのは、単に巣から遠ざかる方向に落ちたからに過ぎない。
俺は風下から岩棚に降りた。
「ひっ……! だ、誰だ……!」
「灰色区の犬だ。全員、動けるか」
ギルベルトの目が、闇の中で俺を捉えた。安堵と屈辱がまぜこぜになった、見たことのない色の顔だった。帳面に書くべき表情だが、今は後回しだ。
「じ、時間の問題だ、あれが降りてくる……! 貴様、E級ごときが何を――」
「質問に答えろ。動けるか」
「……あ、足をやられたのが二人。俺は、無傷だ」
「なら、お前が一番重い荷を担げ。従者を背負え」
「な……っ、この俺に、従者を担げだと!?」
「お前が無傷だからだ。合理だ。嫌なら置いていく」
ギルベルトは白い顔で数秒固まり――結局、従者を背負った。
降下は東壁から。負傷者二人は俺が交代で担ぎ、ロープで繋いだ。問題はワイバーンだ。動く集団を、奴の目は見逃さない。
だから俺は、皆を先に降ろして、一人残った。
「なっ、何をする気だ、貴様……!」
「囮と時間稼ぎ。三十分稼ぐ。その間に降りろ。後詰めのC級が麓まで来ている」
「無茶だ! 相手はワイバーンだぞ! 死ぬ気か!?」
死ぬ気か、と聞かれて、俺は少し考えた。
「……朝ごはんの約束がある。死ぬ予定はない」
*
ワイバーンとの三十分を、詳細に語る必要はない。
倒していないからだ。E級の剣で成体のワイバーンは落とせない。それは計算済みだった。だから俺がやったのは、戦闘ではなく作業だった。岩の陰から陰へ移動し、石を投げ、注意を引き、奴の旋回半径と滞空の癖を記録し、決して仕留めさせない位置を保ち続ける。
恐怖がないというのは、こういう時にだけ、本当に役に立つ。
奴の影が頭上を掠めるたび、並の人間なら判断が半瞬鈍る。俺は鈍らない。三十分は、長い素振りのようなものだった。千回の型と同じだ。同じ動きを、正確に、必要なだけ繰り返す。
やがて麓に後詰めの松明が並び、ワイバーンは高度を上げて巣へ戻っていった。夜目の利かない松明の群れを、奴は縄張りの外の脅威と判断したらしい。これも記録しておく。
*
麓に降りると、ガストンが呆れ顔で俺を迎えた。
「……無傷かよ。化物め」
「岩で三箇所擦った。無傷ではない」
「そういう報告はいらねえんだよ」
救助された取り巻きたちは、俺の顔を直視できないようだった。ギルベルトは最後まで一言も発しなかった。ただ、去り際に一度だけ振り返り、何かを言いかけて、やめた。あの表情の分類は保留だ。屈辱、混乱、そして――ごく薄く、別の何かが混ざっていた。
翌朝のギルドで、俺は淡々と報告書を出した。手柄の主張はしなかった。事実だけ書いた。だが酒場の空気は、昨日までとは明確に違っていた。
「……おい、聞いたか。夜の岩山を単独で」「ワイバーン相手に三十分だと」「あの若さで、何なんだ、ありゃあ」
視線の種類が変わった。侮りが消え、代わりに畏れと敬意が混ざった。どちらでも、俺のやることは変わらない。
「――おかえり!」
受付から飛び出してきたリゼが、周囲の目もはばからず、俺の胸に額をぶつけた。
「朝ごはん! 約束どおり、作って待ってたんだから! 冷めてないうちに食べる! いますぐ! 異論は認めません!」
「報告書の提出が」
「出した後でしょ、いま見てた! ほら行くよ!」
袖を引かれて歩き出しながら、俺は左手首の腕紐を見た。岩山の埃で少し汚れていたが、結び目は固いままだった。
朝ごはんの約束がある。死ぬ予定はない。
あの瞬間、俺の計算より先に出たあの言葉を、俺は帳面の新しい頁に書くつもりだった。分類は――もう少しだけ、保留にしておく。
(次話:夜道で六人に囲まれる。そして屋根の上に、金髪の剣士。)




