第二章 雪のカーブと、知らない天井
スリップした瞬間、世界は真っ白になった。
不思議と、頭に浮かんだのは取引先の婆ちゃんの顔だった。
それから、何かに包まれるような、温かさ。
意識が戻ったとき、最初に見えたのは、見たことのない木の天井だった。
太い梁が交差している。煙のような、薪が燻る匂いがした。鼻の奥がつんとして、思わず咳をすると、横で誰かが小さく息を吐いた。
「気がついた」
少女の声だった。
俺は、ゆっくりと首を傾けた。
そこにいたのは、栗色の髪をひとつに結んだ、二十歳ほどの女の子だった。粗い麻のような布の服を着ている。痩せていて、頬の輪郭がやや尖っている。
「ここは……」
「シェバ村。あなた、雪の山道で倒れていたの。荷馬の足あとを追って行ったら、見つけて」
少女は、井戸水で絞ったらしい布を、俺の額に乗せ直した。冷たい布から、湿った草の匂いがした。
「……シェバ村って、どこの」
「フェンタリア大陸の、北の辺境。たぶん、あなたの知らない場所」
少女は、当然のようにそう言った。
俺は、まだ意識のどこかが夢を見ているのだろうと思った。
体を起こそうとして、胸が硬く感じた。手をあてると、ノートがあった。胸ポケットの中に、紺色のあのノートが、確かに、ある。
ほっとした、と感じてしまったことが、自分でも可笑しかった。
少女は、俺の動きを見て、首を傾けた。
「何、その黒いの」
「これは……仕事のノート」
「シゴト?」
少女の目が、はっきり「分からない」と言っていた。
俺は、もう一度、天井を見上げた。
蛍光灯ではない。電球でもない。窓の外には電線も走っていない。
「ここ、何年?」
「年? 神暦三〇二三年」
「……神暦」
少女は、俺をしばらく見つめてから、ぽつりと言った。
「あなた、外の人ね」
外の人、という響きが、奇妙に体に馴染んだ。
外の人。会社では、もっと内側に入りたかった。三十六軒のルートから、新規開拓のチームに移ろうとして、何度か試験を受けた。全部、落ちた。落ちた理由は、いつも、お前は外回りが向いてる、だった。
外の人、で、いいのかもしれなかった。
そのとき、視界の端に、薄い文字のようなものが浮かんだ。
【ステータス】
笹倉修
体力:三二/一〇〇
魔力:一/一〇〇
攻撃力:三
防御力:四
固有スキル:【記録】
俺は、目を擦った。
文字は、消えなかった。
ファンタジー小説の冒頭で見るような、画面が、本当に出ている。出ている、という事実を、頭の隅で受け入れていく速度の方が、内容より先だった。
体力三二。魔力一。攻撃力三。防御力四。
どれも、見たことのない数字の中で、ひと目で「弱い」と分かる桁だった。
「外の人、お腹空いてない?」
少女が、木の椀を差し出してきた。
中に、薄いスープが入っていた。色は灰色で、麦らしき粒が浮いている。
「……ありがとう」
啜ると、塩味だけがした。具も、ほとんどない。
それでも、温かかった。胃の壁が、温かいものを久しぶりに迎えるように、ゆるんだ。
「あなた、名前は」
少女が聞いた。
「笹倉修。ササクラ……長いね。ササクラでいい」
「ササクラさん。私、リーゼ」
リーゼと名乗った少女は、椀を受け取りながら、ちらと窓の外を見た。
窓の外は、ガラスではなく、油紙のようなものが張られていた。風が、紙を波打たせている。
その向こうに、青白い光が、ちらちらと、見えた気がした。
「リーゼ」
「うん」
「あの光は」
リーゼは、答えなかった。
代わりに、椀をぎゅっと両手で握った。手の甲に、まだ若いはずなのに、薄く凍傷のあとがあった。
「夜になると、出るの」
「何が」
「魔物。三日前から、村のまわりを、ぐるぐる」
魔物。
ステータス画面に並ぶ数字を、もう一度、自分の中で読み返した。
俺の防御力、四。
立ち上がろうとして、足が膝から崩れた。
リーゼが、慌てて支えた。腕を回されたとき、麻の服の繊維が、肌を擦った。少女の体は、思っていたよりずっと細かった。
「無理しないで。寝てて」
「いや」
俺は、首を振った。
「俺、寝てる場合じゃ、ないかも」
外で、犬の鳴き声がした。普通の犬の声ではない。低く、喉の奥でうなる、生き物としてあり得ないような音だった。
リーゼの体が、強張った。
「来る」
俺は、ゆっくり、もう一度、天井を見上げた。
不思議と、怖さは、二の次だった。
それより、自分の胸ポケットの中で、ノートが、まだそこにあるという事実の方が、頭の中心に置かれていた。
ノートだけは、捨てるな。
パン屋のおじさんの声が、まだ耳の奥に残っていた。
「リーゼ」
俺は、声を絞り出した。
「この村、商人は、来てる?」
リーゼは、顔を歪めた。
「半年、来てない」
「半年」
「魔物が、街道を切ったから。誰も来ない。誰も帰れない」
切られた街道。届かない物資。
頭の中で、何かが、整理されはじめた。
俺は、椀を握り直して、リーゼを見た。
「これって、たぶん」
俺は、自分でも何を言うのか分からないまま、続けた。
「ルートの問題、だろ」
リーゼが、首を傾げた。
「ルート?」
その瞬間、外で、犬とは違う、別の声が、長く尾を引いた。
油紙の窓が、ぶるりと、震えた。
リーゼは、ぎゅっと、唇を結んだ。
「ササクラさん、この家から出ないで。父さんを呼んでくる」
「父さん?」
「村長。今夜は、村中で寄り合いがあるの。月に一度の」
リーゼは、毛皮の外套を肩に羽織り、扉に手をかけた。扉の蝶番が、ぎい、と低く鳴った。隙間から、冷たい風と一緒に、雪の匂いが入ってきた。
「すぐ戻る」
リーゼが出ていったあと、俺は、土間の隅にあった水甕に、よろめきながら歩み寄った。水面に、自分の顔が、ぼんやり映った。
スーツの襟がほつれ、髪に枯葉がついていた。だが、顔そのものは、いつもの俺の顔だった。
死んでいない。たぶん、死んでいない。
水甕の縁に手をついて、深く息を吐いた。冷たい水の匂いと、土と、薪の煤の匂いが、ぐるりと体の中に入ってきた。
部屋の隅には、毛布が三枚畳まれていた。見ただけで、薄いと分かった。家具は、テーブルが一つと、椅子が二脚。それだけだ。
棚には、麦の袋が一つだけ、半分ほど中身が残った状態で立てかけられていた。底の方に、わずかに穴が開いていて、滲み出るように粒がこぼれかけている。袋の腹には、なにかの記号と数字が荒い炭で書かれていた。
俺は、なぜか、その数字を、ノートに書き留めたくなった。
仕事の癖だった。
胸ポケットからノートを取り出して、空いている頁に、見様見真似で、その記号を写した。意味は分からない。だが、書かないと落ち着かなかった。
書き終えた瞬間、視界の端で、また文字が浮かんだ。
【記録】によりシェバ村の麦袋を登録しました。
俺は、目を瞬かせた。
固有スキル【記録】。それが、何を意味するのかは、まだ分からない。だが、何かを書く、という行為に、この世界が反応しているらしいことだけは、伝わってきた。
外で、また、犬とは違う声がした。今度は、もっと近い。
扉が、ばたん、と開いた。
リーゼと、白髪交じりの男が、雪を払いながら入ってきた。男は、痩せていて、咳をしていた。重い咳だ。空気を絞り出すような音だった。
「ササクラ殿、わしが、シェバ村の村長です」
男は、頭を下げた。リーゼの父だ、と言われなくても分かった。骨ばった顎の線が、リーゼと、よく似ていた。
「お助け、いただいた」
「いえ。むしろ、助けられたのは俺の方で」
「……外の人、と聞きました。本当ですか」
「たぶん、そうなんだと思います」
村長は、しばらく俺の顔を見つめていた。それから、ふっと、息を吐いた。
「面妖じゃ。だが、こんな夜に、お前さんが落ちてきた、というのも、何かの縁かもしれぬ」
「夜に、何か、あるんですか」
リーゼと、村長が、目を見合わせた。
その目の中に、もう諦めの色が混ざっていた。
「今夜、村は終わるかもしれぬ」
村長は、ゆっくりとそう言った。
「終わる」
「魔物が、夜ごと、村のまわりを巡っておる。三夜目の今夜、結界の祠が、もたん」
俺は、ノートを、握り直した。
死ぬかもしれない、と言われたとき、不思議と、最初に頭に浮かんだのは、明日の朝、ノートに何と書くかだった。
職業病だ。
職業病、というのは、体に染み込んだ作法のことだ。何があっても、まず手が動く。手が動くから、まだ俺は、俺でいられる。
「村長」
俺は、咳が止まったタイミングで言った。
「半年、商人が来てないって、リーゼさんから、伺いました」
「うむ」
「他の村は、どうなんですか」
村長は、ゆっくり、首を振った。
「分からん。北のハム村も、東の鍛冶村も、何も伝わってこん。生きておるのか、滅んだのか」
ハム村。鍛冶村。
俺は、二つの村の名を、ノートの空欄に、書いた。
【記録】に未踏拠点が登録されました。
文字が、また、視界の端で光った。
俺は、それを、リーゼにも村長にも、まだ言わなかった。
ただ、ノートの中で、世界が、ほんの少しだけ、形を持ち始めていた。
外で、油紙の窓を擦るような、低い音が、長く、長く、続いた。




