第一章 ルート三十六番、最後の納品
「来年からルート営業はAIで回します」
朝礼でそれだけ言って、課長は俺を見なかった。
オフィスの蛍光灯が、いつもどおり、一本だけちかちかと点滅している。直すように何度言っても、誰も直さない。直すのは経費がかかる、と総務に言われた。直さないことに払っているコストの方が高いと思うのだが、誰も俺の話を聞かない。
会議室の椅子が軋む音。ホチキスを留める音。プリンターから吐き出される紙の音。
冷えた空気の中に、淹れたてのインスタントコーヒーの匂いだけが、わずかに混じっている。
俺は、紺色の営業ノートを胸ポケットに入れた。
入れた瞬間、隣の席の同期が舌打ちをした。
「相変わらずノートかよ、笹倉」
黒木翔。同期で、新規開拓のエース。先月もまた表彰されていた。背が高く、声がよく通る。スーツに皺がない男だ。
「お前のルート、来期から俺の管轄ね。整理する」
黒木は、俺の机の上に置きっぱなしの古いノートを指でつついた。爪の先まで磨かれている。
「数字にならねえ三十六軒、ぜんぶ切るから。そんでお前は、内勤」
俺は、なんと答えていいかわからなかった。
笑うべきか、怒るべきか。
ただ、ノートをもう一度、ぐっと胸ポケットに押し込んだ。胸の内側で、紙の角が皮膚に当たる感触がした。
「すみません、行ってきます」
声が、自分でも驚くほど小さかった。
黒木は、ふん、と鼻を鳴らした。
「ササクラさあ」と背中越しに声がかかる。「お前みたいなルート営業はな、一生数字を作れねえんだよ」
俺は、少しだけ振り返って、頷いた。怒りも反論も、もう湧かなかった。十年も同じことを言われ続けて、慣れた、というよりは、もう本当にそうなのかもしれない、と思い始めていた。
オフィスを出ようとした俺に、課長は何も声をかけなかった。エレベーターのボタンを押すと、表示が止まったまま動かない。階段で降りた。
階段の壁に、社訓のポスターが貼ってあった。「人と人をつなぐ仕事を」。インクが薄れて、最後の文字だけが、黒く濃く残っている。
その「を」が、なぜか胸に引っかかった。
外は、雪が降り始めていた。
営業車のドアを開けると、シートの上に、お得意先の婆さんからもらった干し柿の袋が転がっていた。先週、お茶を一緒に飲んだときに、押しつけられたものだ。
「これ、孫が作ってくれたから」
婆さんはそう言って、皺だらけの手で袋を渡してきた。
孫が作ったから、を、業者の俺に渡す意味は、わからない。
ただ、俺はそれをまだ食べていない。食べられない、というのが正しい。
俺は、袋を一度、両手で持ち直した。指先に、油紙のかさついた手触りが残った。
エンジンをかけると、ラジオが古い演歌を流し始めた。曲は最後のサビまで覚えている。婆さんがいつも口ずさんでいる。
ハンドルを握った瞬間、自分の手の甲がやけに乾いて見えた。年を取ったな、と思う。三十三になるまで、同じ三十六軒を回り続けてきた手だ。
ふと、ダッシュボードの隅に、十年前の安全運転研修の合格証が、色褪せて貼ってあるのが目に入った。あのときは、これから始まるすべてが、誇らしかった。
「今日も、回るしかないな」
声に出すと、自分の声がやけに低く聞こえた。
最初の納品先は、駅前のパン屋だ。店主のおじさんは、いつも俺が入っていくと、奥から出てきて「おう」とだけ言う。それだけだ。
今日は雪のせいか、客がいない。おじさんは、カウンターの中で、新聞を広げていた。レジ横で湯気を立てているステンレスの保温器から、焼きたてのカレーパンの匂いがした。
「ササクラ、今日でラストだろ」
俺は、伝票を渡そうとした手を止めた。
「え」
「課長から電話があった。来期からは別の担当だって。マニュアル化する、と」
おじさんは、新聞越しに俺を見た。
「俺は、お前と取引したくて、ここで仕入れてんだぞ」
「すみません」
「謝るとこじゃねえだろ」
おじさんは、伝票を受け取り、ぐっと折りたたんでポケットに入れた。
「お前さ、ノート、まだあるか」
「あります」
「見せろ」
俺は、胸ポケットからノートを取り出した。最初の頁は、十年前から続いている。三十六軒分、手書きの記録。表紙の角は、何度も指で開かれて柔らかく丸まっている。
おじさんは、ノートを開いて、自分の店の頁を撫でた。
「家の名前、孫の名前まで、書いてあるな」
「はい」
「家内が好きな菓子パンの種類まで、書いてあるんだな」
おじさんの指が、文字の上で止まった。
「これな、ルート営業の命なんだぞ。捨てんなよ」
おじさんは、ノートを閉じて、俺の胸に押し当てた。
「ノートだけは、捨てるな。ルート営業の命だぞ」
その台詞は、俺がこの会社に入ったとき、最初の先輩から言われた言葉だった。先輩は、半年前に病気で死んだ。あのときも、俺は何も言えなかった。
俺は、頷くしかなかった。
胸ポケットに戻したノートは、ほんの少し、温かくなっていた。
それから、二十軒を回った。
途中、駄菓子屋の前で、小学生の女の子が寒そうに鼻をすすっているのを見て、肉まんを買って渡した。「ありがとう」と頭を下げる動きまで、おばあさんに似ていた。三世代続けて、俺の担当している家だった。
ノートに、女の子の名前と、肉まんの好み、を書き加えた。
ノートが厚くなっていく感覚は、十年経っても変わらなかった。誰も誉めてはくれないが、書く瞬間、俺は俺自身に向かって、これは無駄じゃないと言い聞かせていた。
たぶん、その言い聞かせを続ける資格を、俺はもうすぐ、失う。
そして、最後の三十六軒目。
山の中の、たった一軒の食堂だった。
店主のおじいさんは、もう齢八十を超えている。一人で、鍋を磨きながら俺を待っていた。
「お前、しばらく来ねえな」
「すみません」
「いい。来年から別の若いのが来るんだろ」
「……はい」
「俺はもう、その若いのには、何も話さねえぞ」
おじいさんは、それだけ言って、奥に引っ込んだ。
俺は、伝票を置いて、店の引き戸を閉めた。引き戸の建てつけが悪くて、最後だけきしんだ。
雪はずいぶん深くなっていた。営業車のワイパーは、もう降りに追いついていない。
帰り道、カーブを曲がるとき、俺は一瞬、ハンドルを切り損ねた。
タイヤが、ずるりと滑った。
ガードレールがやけにゆっくり迫ってきて、その向こうに、白い斜面が広がっていた。
不思議と、頭に浮かんだのは、お得意先の婆さんの干し柿の袋と、
「ノートだけは、捨てるな」
と言ったパン屋のおじさんの声だった。
体が宙に浮いた。
天井とフロントガラスの境目が、どちらが空でどちらが地面か、わからなくなった。
意識が、白く溶けていく寸前、俺は、胸ポケットを上から、押さえた。
ノートが、そこにあった。
それだけが、わかった。




