第171話:大紅蓮温泉郷
それは、地獄の底に起きた奇跡だった。
もうもうと立ち込める濃密な白煙。
視界を閉ざしていた凶悪なブリザードは、地面から吹き上がる凄まじい熱気によって上空で霧散し、あたりには奇妙な静けさが戻っていた。
タマの放熱によって大地が抉れ、そこへ周囲の雪解け水が流れ込むことで生まれた、直径10メートルほどの巨大な水たまり。
いや、それだけではない。彼らの行く手を阻んでいた数百メートルの『氷河の絶壁』すらも、その尋常ではない熱波によってドロドロに溶け落ち、巨大なトンネルのような風穴が開いていた。
グツグツと沸き立つ気泡と、硫黄のような匂いを含んだ蒸気。
極寒の『大紅蓮地獄』に出現した、『露天風呂もどき』だった。
「……ふぅ。生き返ったのじゃ」
お湯の中心で、タマが極楽そのものといった表情でくつろいでいた。
その肌は、湯気の中で真っ赤な茹でダコ状態になっているが、苦悶の色は微塵もない。至福そのものだ。
絶体絶命の吹雪の中、ポチが無理やりタマの口にねじ込んだ『激辛マヨせん』。それに含まれる超高濃度カプサイシンが、火炎竜の代謝機能をMAXまで引き上げ、自家発電ならぬ「自家発熱」状態が続いているらしい。
今の彼女は、浸かっているだけでお湯を沸かし続ける、生体ボイラーそのものだった。
「アキラの料理は劇薬じゃな……。まさか、あの死の淵から、たった一枚のせんべいで引き戻されるとは思わなかったのじゃ」
タマは湯をすくい、顔を洗う。
ジュッ、と音がして、水滴が一瞬で蒸発した。
「タマちゃん……!」
ポチが涙目で飛び込んだ。
バシャアァッ!
盛大な水しぶきを上げて、ポチは犬かきでタマの元へと泳ぎ寄る。
「タマちゃん! よかったのだ! 死んじゃったと思ったのだ!」
「うおっ!? ポチ、いきなり飛びつくな!」
ガバッ!
ポチは遠慮なくタマの首に抱きついた。
その瞬間、ポチの顔が歪む。
「熱っ!? あつーいっ! タマちゃん、めちゃくちゃ熱いのだ!」
「ふふん、文句を言うな。今の妾は歩く暖房じゃからな。火傷せぬよう気をつけるのじゃぞ?」
タマはそう言いながらも、抱きついてきたポチを振りほどこうとはしなかった。
その代わりに、自分の胸元で顔を埋めて泣いているポチの頭を、乱暴に、しかし優しく撫で回した。
「……礼を言う、ポチよ。お主のおかげなのじゃ」
「……え?」
「お主が諦めずに、あのせんべいを妾の口にねじ込んでくれなければ……妾は今頃、永遠の氷像になっておったわ。……よくぞ、機転を利かせたな」
「へへ……。ボク、タマちゃんを信じてたのだ」
ポチは照れくさそうに笑い、タマの熱い背中に頬を擦り付けた。
熱い。火傷しそうなくらい熱いけれど、それは確かに「生きている」証だった。
『ワン! ワワン!』
その横では、完全に解凍されたタロウが元気に吠え、器用な犬かきで湯船を周回していた。
スライム装甲も熱湯のおかげで柔軟性を取り戻し、ツヤツヤと輝いている。
「……ふぅ」
そして、湯船の縁には、ルナが腰掛けていた。
彼女は防水仕様の足を湯に浸し、システムチェックを行っていた。
「バッテリー出力、急速回復。関節駆動系の凍結および微細なクラック、熱膨張により解消しました。……地獄の底で温泉とは、なんとオツなものでしょう」
ルナが珍しく、人間くさい感想を漏らした。
今の彼女たちにとって、この熱量は何にも代えがたいエネルギー源だった。
絶対零度の死の世界に、ポッカリと空いた温かい楽園。
一行はここで傷ついた体と心を癒やし、態勢を立て直していた。
だが、ルナの環境センサーは、この「オツな温泉」がもたらすもう一つの「危険性」を正確に弾き出していた。
(……地盤深層温度、異常上昇。地下数キロメートルからの微弱な振動を感知。……まずいですね)
ルナは内心で戦慄した。
大紅蓮地獄の氷の下には、神話の時代に暴れ回った巨大生物たちが、生きたまま冷凍保存されているというデータがある。
彼らは寒さで眠っているだけで、死んでいるわけではない。
そこへ、タマが作り出した超高熱の熱湯が地盤を伝って流れ込めばどうなるか。
ズズズズズ……。
微かに、水面が波打った。
寝返りだ。
地下深くに眠る何かが、寝苦しさに身じろぎをしたのだ。その余波だけで、大紅蓮地獄全体が揺れている。
(……急がなければ。湯冷めする前に出発しないと、風呂上がりに怪獣とプロレスすることになります)
数十分後。
十分に熱を蓄え、急速充電を終えたルナが湯船から立ち上がった。
「皆さん、回復しましたか?」
ルナの声は、遭難寸前の弱々しいものではなく、本来の冷静沈着な響きを取り戻していた。
その瞳には強い意志の光が宿る。
「スキャン完了。……タマさんが溶かした氷壁の大穴の先、現在地より南へ5キロ。……巨大な構造物の反応を捕捉しました」
「ほう? それが目的地か?」
「はい。形状、規模、エネルギー反応……間違いありません。『閻魔宮』です」
ルナが指差した方向。
熱気で開いた氷のトンネルの向こうに、うっすらと巨大な影が浮かび上がっていた。
ついに捉えた。
マスターの魂を奪還するための、決戦の地。
「もう目と鼻の先じゃな。……よし、行くぞ!」
ザバァッ!!
タマが豪快に湯船から立ち上がった。
その全身からは、依然として凄まじい湯気が立ち上っている。
肌はまだ赤熱しており、近づくだけで汗ばむほどの熱気を放っていた。
「ボクも行くのだ!」
ポチも水面から飛び出し、ブルブルと体を激しく震わせて水気を飛ばした。
濡れた毛並みがあっという間に乾き、フワフワの冬毛が逆立つ。
その顔つきは、もう泣き虫のそれではない。
神獣フェンリルらしい、キリッとした精悍なものに変わっていた。
「タロウ、変形なのだ!」
タロウが湯船からしなやかに躍り出る。
空中で銀色の体が流体のように波打ったかと思うと、着地する間もなく四肢が胴体へと溶け込み、滑らかな流線型のボディへと再構築された。
ブォォォン……!
間髪入れずに浮上用ファンが起動し、雪面からわずかに浮き上がる。
ホバークラフト形態『タロウ号』、完全復活である。
プシューッ!
ハッチが開き、ルナが運転席に滑り込み、ポチも助手席へと飛び乗った。
「うむ。では、いざ出発……」
タマが後部座席に乗ろうとした、その瞬間だった。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
車内の温度警告アラームがけたたましく鳴り響いた。
インパネの表示が真っ赤に染まる。
「……タマさんが車内に入ると、室温がサウナを超えて電子機器がショートします」
「なんじゃと!? では妾だけ走れと言うのか! 酷いではないか!」
「屋根の上に乗ってください。……『熱源』兼『氷砕き』として」
「むぅ……。不服じゃが……仕方あるまい!」
ドスンッ!
タマは身軽に跳躍し、タロウ号の屋根の上に仁王立ちした。
その足元からジュウジュウと音がしているが、タロウの自己修復機能が追いついているようだ。
かくして。
運転席には冷静な秘書。
助手席にはやる気満々の少女。
そして屋根の上には、全身から湯気を噴き出し、周囲の空気を歪ませる灼熱の幼女。
「ふはははは! 風が心地よいわ! 全速前進なのじゃー!」
「行くのだー! あきらを迎えに行くのだ!」
「……発進!」
バヒュンッ!!
タロウ号が猛烈な加速で飛び出した。
タマの放つ熱波が前方の氷や雪を溶かし、道を強引に切り開いていく。
もはや寒さは敵ではない。
物理的な熱量とスピードで、チーム人外は最深部・閻魔宮へと一直線に突き進んだ。
その背後で、役目を終えた露天風呂が、ボコッ……と大きな気泡を一つ吐き出した。
まるで、地下の何かが「ちっ、逃げられたか」と舌打ちをしたかのように。




