第31話『雨の名前』
「……ふぅ」
川辺での告白の後、ひよりの家に戻った俺たちは約束通り互いを求め合った。初めてのことでお互いあたふたしながら事を済ませていたわけだが、何とも言えない幸せな時間であることは間違いなかった。
今は後処理やら何やらを済ませてお風呂に入ってのんびりしている最中だ。どっぷりと湯舟に浸かっている俺は天井に向かって揺らぎ泳ぐ湯気を見ながら必死になってニヤけそうになるのを堪えていた。
「ひより……可愛かったなぁ……」
あんな可愛い女の子が俺の彼女だなんて、前の学校の友達が聞いたら嫉妬と妬みで殺されてしまいそうだ。
巡たちに次会ったらきちんとお礼をしないといけないな。半分以上は自分の覚悟だが、足りていなかった部分を補って背中を押してくれたのはあいつらだ。本当に俺はいい友達に恵まれている。
「修平! 湯加減はどうですかー?」
ドアの向こうからひよりの声が届く。
そうそう。付き合うことをきっかけにひよりは俺のことを名前で呼び捨てするようになった。話口調は癖らしいから当分敬語のままだろうが、呼び捨てをするだけでも大きな一歩と言える。
「ばっちりだー。超気持ちいいぞー」
心做しか少し温いような気がするが火照った身体にはかなり心地よかった。
「それは良かったです! ではひよりもお邪魔しますねー」
「おー……ってちょっと待てひより!?」
「止めたって無駄ですよ! どっかーん!」
謎の破壊音と共に浴室のドアが開け放たれる。湯気が晴れて姿を見せたのはバスタオルを体に巻いただけのひよりと、腕の中に抱き抱えられた子犬だった。
「……って、修平? 何でそんなに顔真っ赤なんです?」
「健全な男子には少し刺激が強すぎるらしい」
「ついさっきまで裸であんなことやこんなことしてたのに今更何を言ってるんですか」
「それな」
まさに正論である。俺としたことがこんな事で狼狽えていたら今後が思いやられる。
それにしてもと、今更ながらひよりの体をじっくりと観察する。さっきは部屋を暗くしていたからあまり良く分からなかったが、改めて見ると綺麗な肌をしているなぁと関心してしまう。
「あ、あの……自分で言っておいてあれですけど、そんなにジロジロ見られるとやっぱり恥ずかしいです……」
「ついさっきまで裸であんなことやこんなことしてたのに今更何を言ってるんだ」
「ひよりの言葉をまんま返さないでくださいよ!? はぁぁ……もう、とりあえずお邪魔しますからね」
ため息を一つ吐いて浴室に入ってくると、ひよりは一番大きな洗面器に湯船のお湯を入れる。
「はい。君はこっちだよ!」
「わんっ!」
ああなるほどと納得する。湯船の設定温度が低く感じたのは子犬も一緒に入れるようにするためだったらしい。
子犬は人間のように迅速に体温調節が出来ない。だから熱すぎたり冷たすぎたりするとすぐに体力を奪ってしまうことになるから適正な温度に調整することが必要になる。人間が温いと感じる程度が子犬にとって丁度いい温度のようだ。
「それではひよりは修平の隣に失礼します」
「おう」
伸ばしていた足を引っ込めてひよりの場所をつくる。空けたスペースにひよりが入ってくると急にお湯の温度が上がったような気がした。
無論、上がったのは俺の体温であることは間違いない。
「可愛いですねー。見てて癒されます」
洗面器の中ではしゃぐ子犬の姿をひよりは穏やかな表情で眺めていた。それはまるで母親が我が子を見守るような優しいものだった。
「そろそろ名前付けてあげないとな。呼ぶ時に不便だ」
家で飼うことが決まってからずっと思っていたことを口にする。
「そう言うと思ってもう考えておいたんですよ」
すると、待ってましたと言わんばかりにふふんとひよりは得意げに鼻を鳴らして控えめだと思っていた胸を張る。つい先程分かったことだが、どうやらひよりは着痩せするタイプらしく服越しからの見た目以上に胸があった。マシュマロを押すような柔らかい手触りはなんと言うかもう……最高だった。
「こ、こほん……。で、では発表しようと思います」
何故かひよりの顔は真っ赤に染まっていたが、こっちがツッコミを入れる前に言葉を続けた。
「一応二つ考えてあります。まずはこの子の毛の色から連想してスノウです」
「スノウ――雪か。毛は真っ白だもんな。安直な名前だがそこがいい。もう一つはどんなのなんだ?」
「レインです。雨の日に出会ったからレイン。スノウよりひよりはこっちの方が気に入っていたりします」
「どっちもいい名前だと思うが……俺もレインの方がしっくりくるな。いいんじゃないか? この子の名前はレインにしようぜ」
「はい! レインで決定です!」
ひよりは嬉しそうに洗面器から子犬を抱き上げて胸に抱える。
「今日からあなたの名前はレインだよ! えへへー、レーイン! よろしくねっ!」
「わんわんっ!」
元気よく答えるレイン。きっとレインも自分の名前が気に入ったのだろう。
同時に前の飼い主に名前を付けてもらって無かったんだろうなぁと思った。あくまでも俺の勘だし完全に憶測も混じっているのだが、もし名前を付けてもらっているのであればもっと違う反応をするものではないか? まだ小さいから理解するのに時間がかかる可能性も十分にあるのだが。
「そういや犬用のシャンプー買ってたよな? 使ってあげないのか?」
「もちろん使いますよ! レインを洗うのと一緒に修平さんの頭やら体やらも洗ってしまいます!」
「エロいことは禁止だからな」
念のため忠告しておくと、ひよりはあたふたしながら紅くなる顔をレインで隠す。今日のひよりは紅くなってばかりで大変そうだ。原因は主に俺にあるわけだが。
「い、言われなくても分かってますよ……。それにあんなすごいこと今日またされたら、ひより嬉しさと気持ち良さで死んじゃいます……」
「……」
あ、やばい。誘ってるようにしか聞こえない。下半身に集まりつつある高ぶる気持ちを抑えるために一度大きく深呼吸をする。
よし。もう大丈夫だ。よく耐えてくれた俺の理性。さて、のんびりとレインの体を洗おうじゃないか。
「あ、でも……修平さんがどうしてもって言うなら、ひより……頑張ますよ?」
ブレーキと間違えてアクセルを踏み込んだような大胆な発言に俺の理性は限界値を超え――
「――っ!!」
――そうになった瞬間、咄嗟に舌を噛むことによって正気を保つことに成功する。
危なかった。もしも耳元で囁かれていたら一瞬のうちに持っていかれていたかもしれない。舌はヒリヒリと痛むが我を失うよりはマシだ。
「……気持ちだけ受け取っておく。ひよりの体の心配もあるし、レインが見てるところでするのは恥ずかしいだろ?」
そして真っ当な言葉を並べてひよりの説得を始めることにした。
「そ、それもそうですね……。ひよりったら何を言ってるんだろ……女の子の方から求めるなんて……」
「……いや、最初もひよりからだったろ?」
「ひよりには修平さんが何を言ってるのかちょっと理解できないみたいです」
あからさまに視線を逸らすひより。髪の隙間から見えた耳は露骨に朱色に染まっているのを指摘しようと思ったのだが、これ以上煽ってぶっ倒れられても困るから喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「さぁさぁ、レインを綺麗にしてあげましょう!」
ひよりは湯船から出て浴室の外に置いておいた犬用のシャンプーを持ってくると、早速手のひらにワンプッシュして泡立て始める。
「子犬の皮膚は敏感ですから優しく洗ってあげる方がいいらしいですよ」
言いながらレインの体をシャンプーしていく。シャンプーを嫌がる犬は多いらしいが、レインは嫌がる素振りを一切見せずにひよりに洗われていく。数十秒も経たないうちにレインは泡だるまになっていた。
「俺は何をすればいい?」
「シャワーの温度を低めにしておいてください。今のままじゃ熱すぎるので」
「任せろ」
温度を人肌くらいまで調整してオッケーサインを出すと、ひよりはレインの体を軽く押さえつける。
「それじゃあ流してあげてください。なるべく目に入らないように気をつけてくださいね」
「了解」
シャワーで洗い流してる間もレインは大人しく座ったままでいる。なかなか賢い犬なのかもしれない。特に問題なくシャンプーを終え、俺とひよりは綺麗になったレインを見て満足げに頷いた。
「さて、それじゃあ次は修平さんの番ですね」
「あ、マジで俺も洗うんだ」
てっきり冗談かと思っていたのだがそうではなかったらしい。でもまぁ、彼女に洗ってもらうのも悪くはない。
「それじゃあお願いしようか」
「はいっ!」
ひよりは満面の笑みで返事をすると、目にも留まらぬ早さでシャンプーを泡立てて次の瞬間にはわしわしと俺の頭を洗い始めていた。
なんつー早業。世界シャンプー選手権があれば余裕で優勝出来てしまうのではないだろうか。
「痒いところはありませんかー?」
美容室のようなノリで訊ねてくる。初めて人に頭を洗ってもらったがこれは悪くない。ひよりの手つきは優しく、それでいてとても気持ちが良かった。
「そのまま続けてくれー」
「はーい」
あまりの気持ち良さに眠くなってくる。心地良さに身を委ねてうとうとしてきた時、不意にひよりの手が止まる。どうしたのかと思いひよりの方へ振り向くと、まるで聖母のような優しい表情で微笑んでいた。
「――ひよりは今、とっても幸せです」
蕾のような小さな口から語られる言葉は、ただ喋っているというより語り聞かせるような柔らかいもの。眠気は一瞬のうちに消え去り、そうするのが当然のようにひよりの言葉に耳を傾けていた。
「こうしてひよりの手の届くところに修平さんがいて、ひよりが何かをしてあげると幸せそうに笑ってくれる。ひよりはもう独りじゃない。修平さんがひよりの隣にいてくれるからです。それにレインだっている。ひよりは今、人生で一番幸せかもしれませんね」
「なら、この幸せをいつまでも続けないとな」
俺はこれから先もずっとひよりの隣にいよう。俺がひよりを幸せにしてあげるんだ。彼女の笑顔を守る事が俺の幸せにも繋がる。結んだ糸が解けないように固く結び目を作らなければ。
「それでは流しちゃいますね」
鼻歌を歌いながらひよりはシャワーを手に取る。上機嫌なひよりの頭の上には音符がぷかぷかと浮かんでいるようだった。
「なぁ、ひより」
そんなひよりをもっと喜ばせたいと思い、ちょうどシャワーが終わったタイミングで口を開く。
「はい? どうかしましたか?」
「明日デートしようぜ」
「いいですよ……ん? デート? デート……デート!!?」
二つ返事で頷こうとしていたひよりはデートという言葉を何度か復唱した後、ようやく意味を理解したようでこれまで以上にあたふたし始めた。
「したくないか? デート」
「したいですっ!!」
浴室に大反響する声でひよりは即答する。レインがびっくりした様子でひよりのことを見つめていたが、当の本人は全く気づかないままハイテンションで会話を続ける。
「デート……。修平さんと、デート。あああーーーっ!! これが夢なら醒めないでーーーっ!!」
神様などいないお風呂の天井に向かって祈りを捧げるひより。まさかデートのお誘い一つでここまで喜んでくれるとは思わなかったから誘ってよかったと心の底から思う。
「残念ながら夢じゃなくて現実なんだなぁこれが。今日はこのまま泊まるし、早起きして隣町にでも出掛けようぜ」
隣町はここ虹ヶ丘町よりも発展している。今日レインの為に隣町に行ったのだが、一言で言ってしまうと虹ヶ丘町と天と地の差があった。俺たちが元々住んでいたところと比べると何とも言えないのだが、隣町は娯楽施設や喫茶店が多く、また人口もこちらと比べると倍近く差がある。
「隣町デート……素敵です。修平さんがエスコートしてくれるって思うとテンションが上がりまくりですよ!」
「こりゃ責任重大だな。まぁあれだ。俺に出来る限りの全力でひよりのことをエスコートしてやるよ」
「やった! 今から明日が楽しみです!」
「おう。楽しみにしていてくれ」
ひよりに満足してもらえるように後でネットで隣町について色々と調べておこう。折角の初デートなのだ。お互い楽しめなきゃ損だしな。
「んじゃ俺は先に風呂出るな」
「了解です! ひよりはもうちょっと浸かってから出ますね!」
明日のことを考えながら俺は風呂を出た。閉めたドアの向こう側からひよりとレインが遊ぶ声が聞こえてくる。
「……ひより。お前はもう独りじゃない。ずっと側にいてあげるからな」
小さく呟いて髪を拭き始めた。
真っ白で石鹸の香りのするタオル。それはひよりに似て優しい香りだった。
to be continued
心音です、こんばんは!
子犬の名前が決まりましたね!次回の話は二人の初デートです!お楽しみに!




