第13話『永遠に続く夢の中で』
紅い夕陽が山の向こうに沈んでいく。昼間はあれだけ暑かったというのに、この時間にもなると上着が欲しくなるくらいには肌寒くなっていた。
防寒の為に持ってきておいたTシャツを着て俺は川原に座り、未だに川の中ではしゃいでいるひよりと小夏のことを眺めていた。
「元気だなぁ……」
俺も体力的にはまだまだ余裕があった。今からでも川に飛び込んでひより達と遊ぶのもいいかもしれない。けど、どうも気分が乗らないんだよなぁ……。
川の中の女の子たちが動く度にキラキラとした雫が飛び散る。
濡れた身体は妙に艶めかしく、飛び散った雫が夕陽を吸い込んで神秘的な光を放っている。瞳に映るその光景があまりにも綺麗で、そして魅力的で、俺はおもむろにスマホを構えていた。
「――盗撮は感心しないなぁ」
手の中からスマホが消える。
顔を上げると俺のスマホを持って悪戯な笑みを浮かべている巡と目が合った。笑み――と言ったが、実際のところ逆光になっていて、どんな顔をしているかよく分からない。声色と若干見える表情からそう判断しただけだ。
「覗き魔には言われたかねーよ」
事実を言い返すと、巡はバツの悪そうな表情になって俺の隣に腰を下ろした。
ふわっと舞った髪から懐かしい香りが広がる。懐かしいと思うのに、何の香りなのか分からない。そうして今日も聞けずに終わるのだろう。
「修平くんはもう遊ばなくてもいいの? 日が沈むまで、あと少しくらいは時間がありそうだけど」
「それはお互い様だろ。巡こそもういいのかよ?」
「私はもういいよ。疲れちゃった」
言いながら巡は両手を上げて伸びをする。そのせいで巡の羽織っているカーディガンが上がり、隠れていた白いお腹が顕になっていた。妙に扇情的な気持ちになり、俺は視線を逸らして赤黒くなってきた空を見上げる。
「そうか。なら俺も疲れたって事にしておく」
「適当だなぁ」
「何事も適当なくらいがちょうどいいんだよ。遊びなら尚更な」
「ふーん? なんか修平くんらしくない言葉だね。何事も全力。それが修平くんじゃないのかな?」
「何を勘違いしてるのか知らんが、俺はお前が思っているほど真っ直ぐな人間じゃないぞ。自分の限界以上のことはしない」
何事も中途半端――とは言わないが、やれる事とやれない事くらいは弁えている。人一人がやれる事なんて限られているのだから。
「適当に今を過ごして、適当に今を生きることができればそれでいい。特別なことなんて何も求めない。求める必要も無いしな。今が幸せならそれで十分だ」
「それで?」
「それでって……。それだけだよ」
これ以上何を言えと。
「なら……巡はどうなんだよ? お前は何か特別なことを求めているのか?」
「私も特別なことは何も求めていないよ」
哀愁の漂う横顔と震えた声に俺は言葉を失う。
「……っ」
不意に吹いた風に俺は目を瞑る。慌てて目を開いた時、巡は泣きそうな笑顔で俺を見つめていた。
「お前……なんでそんな顔をしてるんだよ」
驚きよりも不安のほうが大きかった。
だからだろうか。俺は思わず巡の手を掴んでいた。そうしなければ巡が何処か遠くへ行ってしまうような気がしたから。
「私が求めているのはこの日常だけ。それ以外は何も要らないし、望まない」
両手で包み込むように優しく俺の手は巡の温もりに覆われた。長いこと空気に触れて冷たくなっていた俺の手に、巡のあたたかさが溶け込んでいく。
「私は今が幸せならそれでいいなんて思わない」
そう呟くと同時に巡の顔に影が落ちた。
陽が沈んだのだ。ゆっくりと降りてきた夜の帳。少しずつ川辺は夜の世界へと変わっていく。巡の目尻に浮かんだ涙は昇ってきた月明かりに反射して儚げに光っていた。
巡が泣いているのを見るのはこれが二度目だった。最初は巡と初めて出会った時。初めまして――そう言って巡は涙を零していた。その時の涙の意味も、今流している涙の意味も、やっぱり俺には理解できないのだ。
「だってさ、今が幸せでもその幸せが未来まで続くとは限らないから。何かの拍子に幸せは消えてなくなってしまうかもしれない。思い出を作るには長い時間が必要。だけど……壊れるのは一瞬なんだよ。どれだけ苦労して手に入れた幸せも、一瞬で消え失せてしまうことだってあるんだよ……っ」
握り返された手は震えていた。その震える手に一滴の涙が零れ落ちて弾ける。
遠くで未だにはしゃいでいるひより達の声がどんどん遠くなっていく。視界が狭まり、俺の瞳に映るのは巡だけになっていた。
「私は失うことの辛さを知っている……。それがどうしようもないことだってのも理解している……っ。けど……だけど! 私は一時の幸せじゃなくてこれからの幸せを諦めたくないんだよ……っ!」
「それは……お前が俺と初めて会ったときに言っていた夢と関係があるのか?」
風巡丘で初めて会ったとき、巡は言っていた。ずっとずっと続けたい夢のために、俺たちに会うことにしたと。
「夢……か。確かにあの時の私はそう言ったんだったね……。うん、あるよ。この夢のような時間を私は続けたい。続けるために諦めるわけにはいかないんだよ……」
「……夢はいつか終わるのだろ。夢を続けてたところで、手に入れた幸せは目が醒めると同時に消えてなくなってしまうんじゃないのか?」
「そうだね。でもね、それはつまり、醒めなければ夢は永遠に続くって事なんだよ? 夢ならばいつまでも続けられる……。私にはそれができる。ううん、それしかできない。けどその代わり、この幸せな時間を永遠のものにすることができるんだよ」
自嘲気味に巡は笑っていた。顔は涙で濡れ、必死になって作っている愛想笑いは見ていて痛々しいだけだった。
「……夢と現実は違うんだ。俺たちは現実を生きている。夢の中で生きていくことなんてできな――」
「――できるよ」
自信に満ちたその一言だけで俺は言葉が続けられなくなってしまう。まだ涙が浮かんでいる蒼い瞳。それは悲しげな色で染められているにも関わらず、力強い輝きを放っていた。
「私にはそれができる。夢を永遠にすることができる。だから私は自分が望む結末になるまで夢を見続ける」
言い切ると巡は立ち上がり、言葉を交わすことなくこの場から離れていった。
話はもう終わりと言うことだろう。ああ、俺はまた何も聞けずに終わってしまった。君のことも、その懐かしくて落ち着くその香りのことも、そして君がやろうとしていることも――何も聞けないまま疑問は深い海の底へ沈んでいく。
「――くそッ」
それからどれだけ時間が経っただろうか。悔しさのあまり地面に向かって拳を突き落とす。地面にできた窪みの大きさだけ、俺の心に負った傷も広がっていくようだった。
それでも俺は拳を打ちつけるのをやめなかった。何度も、何度も、繰り返し地面を殴っているうちに柔らかかった地面は乾いた粘土のように固くなっていた。そのせいで殴る度に手に激痛が走ったが、止めることは出来ず、気づいた頃には血と泥が混じって地面を赤黒く染めていた。
「――修平さん!? 何してるんですか!?」
悲鳴にも似たひよりの声が耳を貫く。振り上げた右手はひよりに掴まれて宙で静止する。
「血が出てるじゃないですか!? どうしてこんなことを……」
ひよりは慌てた様子で、血と泥で汚れた手をハンカチで拭っていく。
「やめろ……。落ちなくなるぞ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!! 血くらいクリーニングに出せば落ちます!! でも傷ついた手は痕が残ってしまうかもしれないんですよ!?」
こんなに声を荒らげているひよりを見るのは初めての事だった。
普段見慣れないひよりの姿を見たおかげか、俺はだいぶ冷静さを取り戻すことができた。そのせいで感覚を失っていた拳がズキズキと痛み始めてきて、思わず顔を顰める。
「……痛い」
「バカっ!! こんなにも血を流しているんだから痛くて当たり前じゃないですか……っ。修平さんはバカですか!!」
「お、おい。あまり先輩にバカバカ言うもんじゃないぞ」
「修平さんがひよりにそう言わせているんですよ!!」
こんなにひよりが大声を出したのにも関わらず誰も来ないことを疑問に思い、視線を川辺に移すがそこには誰も残っていなかった。ようするに、今この場にいるのは俺とひよりの二人だけということになる。
「他のみんなはどうしたんだ」
「皆さんなら先に帰りましたよ……。巡さんが修平さんはもう少し一人でいるって言っていたから先に帰ろうって……」
「じゃあなんでひよりはここにいるんだよ。普通帰るだろ? そんな事言われたら」
「ひよりも帰るつもりでした。けど……なんか不安になって戻ってみたんです。そうしたら修平さんがこんな事になっていて……」
持ってきていた消毒液と包帯を使って泣きそうになりながらひよりは手の治療をしてくれていた。ひよりの優しさと、本気で俺を心配しているという気持ちが身に染みて目頭が熱くなってくる。
「巡さんと……何があったんですか」
何もない――そう言いかけて口を閉じる。きっとひよりには何もかもお見通しなのだろう。こいつのこういう時の勘ほど鋭いものはないと俺は知っている。
「……俺が悪いんだよ。あいつのことを何も知らない俺が悪いんだ」
「それは……どういう事ですか」
俺は事の顛末をひよりに語る。俺と巡の出会いから今に至るまでの全てを吐き出すように語り尽くした。
ひよりは話を聞いている間、驚いたり、真面目になったりと、表情をコロコロ変えていたが、途中で口を挟むことなく最後まで俺の話を聞いてくれていた。
「――夢という泥沼から抜け出せないでいる巡を助けたい――そう思ってもがいてみても沈んでいくのは俺の方なんだ」
近づけば近づくほど遠ざかっていく。それは触れることの叶わない星に手を伸ばしているようなもの。決して届かないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられない。
「何も知らない――それはつまり土台が無いってことなんだ。巡には夢に拘る理由があって、その意思を貫く為に築いてきた土台がある。だから泥沼の中にいても立っていられるんだ。けど俺はどうだ? 何も知らない、積み上げてきたものが何もない。そんな俺が巡を助けたいと、力になりたいと思っても沈んでいくのは当然のことなんだよ。けど――」
例え星を掴むことは出来なくても、目の前で苦しんでいる女の子一人を助けられる可能性が1%でもあるのならば――
「――俺は巡を助けてあげたいんだ」
だから俺は二度と抜け出せない泥沼であろうと、喜んで飛び込んでみせよう。こんな俺でも、誰かの役に立てるのであれば自分がどうなろうと構わない。
「やっぱり……修平さんは優しいんですね」
「優しいわけじゃない。だってそうだろ? これはただの自己満足なんだから。巡に助けて欲しいとか何も言われていないし、俺一人が勝手にやろうとしているだけ。もしかしたら巡にとってはいい迷惑かもしれないんだ。だからこれは優しさじゃない」
言ってしまえばこれは俺のエゴだ。巡を助けたいと言いつつ、自己満足の為だけに俺は優しさを振りまいているのだから。
「もし、優しさじゃないとしてもです。それが修平さんのいいところなんですよね」
治療し終えた手を自分の手で包み込む。痛みはとっくに引いていた。じんわりとひよりのあたたかさが染み込んでくる。
もう大丈夫。ひよりのおかげでいつもの自分でいられるはずだ。
「ひよりは……修平さんのそういう所が大好きですよ。その優しさの全てをひよりに向けてほしいくらいです」
「あまり男に大好きなんて言わない方がいいぞ。勘違いしたら大変だろ?」
「なら――大変なことになってみませんか?」
「は? それはどういう――」
言いかけた言葉が最後まで発せられることはなかった。俺の口を覆うマシュマロのような柔らかい感触。砂糖菓子のように甘い女の子の香りが鼻腔を包む。
「んっ……」
目の前にひよりの顔があった。頬をくすぐる鼻息、真っ赤に紅潮したその顔を見て停止していた思考が動き出す。そして俺はようやくひよりにキスされていることに気づいた。
「ん……はぁ」
数十秒くらい経っていただろうか。ひよりは唇を離すと満足げに微笑んでいた。
「ひより……? お前、どうして……」
「どうして、ですか。キスする理由なんて一つしかないと思いますよ。好きだからです。ひよりは修平さんのことが――好きです」
あまりにも唐突な展開に俺の頭はパニックを起こしかけていた。ひよりの言葉が、触れてきた指が、唇に残るひよりの感触が――媚薬のように脳を痺れさせる。
「ひよりは修平さんが好きで、好きだからこそ修平さんの力になりたいです。ひよりのことを、あなたの隣に置いてくれませんか?」
甘く蕩けるような蜜のような言葉。
ああ、こんなにも俺のことを想ってくれるひよりの事がどうしようもなく愛おしく思えてしまう。身も心も全てひよりに捧げて、困難も一緒に立ち向かえばいいのではないだろうか。
「俺は……」
『――今、好きな人いる?』
「……」
不意に頭に浮かんできた巡の言葉。それは成り行きに身を任せようとした俺を止めるには十分な効力を持っていた。
……そうだ。俺には好きな人はいない。あの時だってそう答えたし、今だってそうだ。疲弊しきった頭が正常な判断を出せないでいる。
落ち着け。
冷静になれ。
自分の気持ちを確かめろ。
成り行きに身を任せるな。
自己暗示をするように俺は自分に言い聞かせる。
「俺は今はひよりと付き合うことはできない」
俺が本当にひよりの事が好きならば断る義理はない。けれど自分の気持ちが分からない今、ひよりの気持ちに応えるのは間違っている。
「……そうですか。あははっ、ひより振られちゃいました。やっぱり……今はダメでしたか」
「悪いな……。俺が自分からひよりのこと好きだと思えるまでお前とそういう関係になることはできない。中途半端は嫌なんだ」
「修平さんらしいですね。そういう所も全部引っ括めて、ひよりはやっぱり修平さんのことが好きみたいです」
「……ありがとな」
椛に告白された時、俺は逃げた。今は友達のままでいたいと言って返事を先延ばしにした。今回も同じだ。俺はまた『今は』と言ってしまった。先延ばしにして期待させるようなことをして、俺は一体何をしたいのだろう。付き合えないのならはっきりと断ればいい。でもそれすら俺にはできない。俺は……卑怯者だ。
「――いいえ、それは違います」
そうして俺の考えはまたしてもひよりに見抜かれる。エメラルド色の瞳は俺を捉えて離さない。ひんやりと冷えた風が俺たちの間を吹き抜けるのと同時にひよりはゆっくりと口を開く。
「修平さんは卑怯者なんかじゃないです。ひよりのことを思って出した結論じゃないですか」
「ひよりには俺の考えは何もかもお見通しなんだな」
「好きな人の考えていることくらい分かりますよ……。でも、理由はそれだけじゃないんですけどね」
「理由?」
「ひよりが修平さんの考えていることが分かる理由ですよ。……あ、今はまだ言えません。もし修平さんがひよりを受け入れてくれた時、もしくは必要とされる時にしか教えてあげません。なので! 兎にも角にもです!」
真面目な表情から一変。満開に咲き誇る桜のような見る者を魅了する笑顔を作ったひよりは、星空に向かって大きく手を広げる。
「修平さんはもっと自分に自信を持ってください! 修平さんは自分を過小評価し過ぎなんですよ! あなたは前を向いて生きていける人間です。だから、修平さんはそのままでいてください!」
「ひより……ありがとう。お前は本当に馬鹿なやつだ」
「ちょ!? なんでそこで馬鹿ってなるんですか!! そこは、お前は本当に可愛いな。じゃないんですか!?」
「馬鹿だよ。どうしようもない……馬鹿だ」
俺みたいな男を慕ってくれてありがとう。お前のおかげで俺はまだまだ前に向かって進んでいける。
「帰るぞ、ひより」
「帰る前にひよりが馬鹿ってことを否定してくださいよ!!」
後ろで叫んでいるひよりをスルーして、俺は月明かりに照らされた川辺を歩いていく。
「あ、ちょっと待って!! 待ってくださいよーっ!!」
怪我の治療の為に広げていたバックの中身を慌てて戻しながらひよりは叫び続ける。
「ほらほらー、早くしないと置いていくぞ」
「今行きますよ!!」
駆け足で隣に並んだひよりは陽だまりのような顔で笑う。俺も釣られて笑ってしまい、小さな幸せの渦が生まれる。
今こうして俺が笑っていられるのはひよりのおかげなのだろう。苦しい時も、悲しい時も、きっとひよりが隣にいてくれるのなら俺は笑顔で居続けることができるのかもしれない。だから――切に思う
もう少し……あと少しだけ早ければ、俺はきっと……ひよりのことを好きになっていたんだろうな、と。
その言葉は胸の中にしまい、夜空を見上げながら歩いていた俺はそっと目を閉じた。
※
Another view 巡
「――そうして、願いは叶えられる」
楽しそうに笑いながら去っていく二人の背中を見つめたまま私はそう呟いた。虫の音のような小さな声はすぐに吹く風によってかき消されてしまう。
言葉は誰かに届けるもの。でも私の言葉はこうして誰にも届かぬまま消え去ってしまう。
でもそれでいいのだ。私の放つ言葉の意味なんて他の人には理解できない。自分だけにしか理解できないのだから。
「きっと、今回もダメかもしれない」
頬に涙が伝った。他ならぬ私の涙だ。
こうして泣くのは何度目だろう。永遠に続く夢の中で私は何度涙しただろう。
「でも――私は絶対に諦めない」
今回がダメなら次。次もダメならまた次へ。永遠の夢を終わらせるために、私は夢を見続けなければならない。
「大丈夫。あなたの事は私が救うから」
全てはたった一人の大切な人の為に。
例え終わりの見えない茨の道であろうと、その先にある奇跡を信じて、私は何度だって傷ついてみせよう。
胸に抱いた決意はまだ健在だ。この身が朽ちようとも成し遂げよう。たった一つの奇跡を信じて――。
to be continued




