第2話 忘却の少女と、泣き続ける水の国
滅びた世界には、かつて人々が生きていた証が、今も静かに残されている。
誰かが愛した街。
誰かが涙を流した場所。
そして、誰にも知られず水底へと沈んでいった、数え切れないほどの記憶。
何も覚えていない少女と、彼女だけを愛する美しい男。
二人が辿り着いたのは、悲しみの涙によって生まれた水の国だった。
そこに住む少女は、なぜ泣き続けているのか。
それは、もう二度と届くことのない誰かへの想いなのか。
それらは長い年月をかけて地の底へ沈み、やがてひとつの国になった。
水面はどこまでも澄み、光は宝石のように揺れている。
けれど、その美しさの底には、数え切れないほどの声が眠っている。
知らないままでいられることは、幸せなのだろうか。
それとも、知らないことこそが、最も残酷なことなのだろうか。
廃墟となった都市を縫うように伸びる、錆びついた線路の上を私たちは歩いていた。
緑の蔦が車体をまるごと飲み込んだ路面電車が、まるで巨大な金属の棺のように横たわっている。
かつて人が乗り込み、どこかへ向かっていたはずの箱。
その割れた窓ガラスからは、色鮮やかな熱帯の苔が溢れ出していた。
「疲れていないかい、アイ? 少し中で休もうか」
前を歩いていたザイが立ち止まり、優しく振り返った。
彼の手には、いつの間にかどこかで摘んできたらしい、淡い紫色の小さな花束が握られている。
「大丈夫だよ、ザイさん。足もう痛くないから」
「ふふ、強がりを言わなくていいんだよ」
「君の小さな足に擦り傷ひとつつくのが、僕には耐えられないんだから」
ザイは私の言葉を優しく微笑みながら遮ると、路面電車の横倒しになった扉から中へ入っていった。
散らばるガラス片を自分の上着を脱いで丁寧に払い、シートのあった場所に私をそっと座らせてくれる。
そして、持っていた花束を私の手元にそっと添えた。
「きれい……これ、なんていうお花ですか?」
「さあね。人間が残した化学物質のせいで変異した、名もなき雑草さ」
「……でも、君の黒髪によく映えると思ってね」
「私に……?」
「そうさ。世界中のどんな花より、君の方がずっと美しいけれどね」
ザイは私の髪に一輪の花を挿すと、満足そうに目を細めた。
ひんやりとした冷たさが肌を撫で、ゾクリと小さな震えが走った。
「ザイさん…ご飯はどうする? ザイさんはさっきから、何も食べていないけど……」
「僕はいいんだ。君が美味しそうに食べてくれれば、それだけで胸がいっぱいになるから」
ザイはポケットから取り出した古い缶詰を開け、銀のスプーンで私に一口ずつ食べさせてくれる。
旧文明の保存食だという甘い桃のシロップ漬け。
美味しいけれど、ザイ自身が何も口にしないことが、なんだか少し怖かった。
「ねえ、ザイさん。どうして自分の分を食べないの? お腹が空かないんですか?」
「空かないよ……僕はね、君がこうして僕の手から食事を受け取って、僕だけを見つめて口を動かしている姿を見るだけで、生きている実感を得られるんだ」
「でも……」
「ほら、口を開けて。あーん」
拒否を許さない甘い圧力に押され、私は言われるがままに桃を口に運ばれる。
彼は私を「世話する」ことに、どこか異常なほどの執着と喜びを覚えているようだった。
まるで、世界でたったひとつの大切なお人形を飾る子供のように。
「ねえ、ザイさん。昔の人間って……どんな暮らしをしてたのかな?」
「この電車に乗って、みんなでどこかへ行っていたのかな」
「くだらない目的地へ向かっていただけさ」
ザイのスプーンを動かす手が、わずかに止まる。
彼の琥珀色の瞳から、一瞬だけ光が消え、底知れない暗闇が顔を出した。
「毎朝毎晩、狭い鉄の箱に押し込められ、誰かを蹴落とすためだけに働き、夜になれば酒を飲んで他人の悪口を言う」
「そんな醜い日常を『幸せ』だと勘違いしていた連中だ」
「……思い出すだけでも反吐が出る」
「ザイさんは……昔の人間を、知っているの?」
「……さあ、どうだろうね」
ザイはフッと儚げな微笑みを浮かべると、私の頭を優しく撫でまわした。
「知っていたとしても、もうどうでもいいことだ」
「大切なのは今の君だけ……ねえアイ、これから向かう『水の国』のこと、教えてあげようか?」
「あ……うん。どんなところなんですか?」
話題を逸らされたことに気づきつつも、私はうなずいた。
ザイはスプーンを置くと、私の手をとって自分の頬へ擦り寄せた。
「悲しみに酔いしれた、湿っぽいゴミ溜めさ」
「あそこにはね、自分が世界で一番哀れだと思い込んでいる、惨めな水精どもが住んでいるんだ」
「悲しい……水精?」
「そう。自分たちが流した涙の中に引きこもり、過去の記憶に囚われて泣くことしかできない愚か者だよ」
「……アイ、あいつらの言うことに耳を貸しちゃいけないよ?」
「甘い言葉で、君を暗い水底へ引きずり込もうとしてくるからね」
「私を引きずり込む……?」
「そうさ。君のその透明で純粋な心を狙っているんだ」
「だから……君は僕の言葉だけを聞いていればいい」
「僕の手だけを握っていればいいんだ……いいね?」
ザイの顔が急接近し、おでことおでこが重なり合う。
息が詰まるほどの距離感。
琥珀色の瞳が揺れ、そこには私を誰にも渡したくないという狂おしいほどの独占欲が渦巻いていた。
「……わかった、ザイさん。私、ザイさんの側を離れない」
私がそう答えると、彼は心底安堵したように息を吐き、私の額に深く、愛おしそうなキスを落とした。
————
路面電車を出てさらに進むと、空気の匂いが劇的に変わり始めた。
さっきまでの草木の蒸せ返る匂いが薄れ、ひんやりとした冷気と、澄んだ水滴の香りが混ざり始める。
気がつくと、足元の道路には浅い水が張り始めていた。
水深は足首ほどだが、水底のコンクリートが透けて見えるほど澄み切っている。
「アイ、足を止めて」
「え?でも、これくらいなら歩けますよ?」
「ダメだ。こんな汚い水に君の足を浸けさせるわけにはいかない」
ザイは私の返事を聞く前に、軽々と私を抱き上げた。
いわゆるお姫様抱っこの体勢になり、私は慌てて彼の白い首に手を回す。
「ザイさん、私、ちゃんと歩けるようになったのに……!」
「君が歩けるかどうかと、僕が君を抱きしめたいかどうかは別の問題だよ」
ザイはクスクスと楽しそうに笑いながら、水の中をバシャバシャと迷いなく進んでいく。
彼の履いている革靴が水に濡れていくけれど、ザイは自分の体などまったく気にしていないようだった。
ただ、私が水飛沫で濡れないように、私の体を自分の胸元へしっかりと引き寄せていた。
崩れたビルの谷間を抜けた瞬間、視界が劇的に開けた。
「わあ……っ!!」
私は思わず息をのんだ。
そこは、完全な「水没都市」だった。
かつて人々が生活していたであろう街並み全体が、透き通った青い水の中に沈んでいる。
ビルの3階か4階あたりまでが完全に水没しており、屋根や窓からは水生植物の緑の葉がゆらゆらとたなびいていた。
水の中を覗き込むと、色鮮やかな魚たちが、ビルとビルの隙間をまるで鳥のように優雅に泳ぎ回っている。
太陽の光が水面で乱反射し、水底に沈む車の影や看板に、きらきらと美しい光の紋様を描き出していた。
「すごい……綺麗……! ザイさん、見て!お魚があんなにたくさん!」
「綺麗……だって?」
背後から届いたザイの声に、氷のような鋭い冷たさが混ざっていた。
見上げると、ザイは水没した街を見下ろし、眉間に深いシワを寄せていた。
彼の美しい顔が、憎悪で歪んでいる。
「こんなの、ただの腐った水だ」
「こんなもののどこが美しいんだい?」
「 人間の悲鳴や絶望の記憶が、濁って溜まっているだけのゴミ溜めじゃないか」
「そんな……ゴミ溜めだなんて。こんなに澄んでいて、光っているのに……」
「アイ」
ザイが立ち止まり、抱きかかえる腕に強い力を込めた。
骨が軋むほどの力。
痛みに私が顔をしかめると、彼はハッとしてすぐに力を緩めたが、その瞳はまったく笑っていなかった。
「僕以外のものを、そんな愛おしそうな目で見ないでほしいな」
「……胸が狂いそうになるんだ」
「ザイさん……?」
「君の目に映っていいのは僕だけだ」
「君が愛でていいのも、僕だけなんだよ」
「あの化け物どもが作った偽りの美しい街に、心を奪われないでね」
ザイは私の手首を持ち上げると、そこにすがるように何度も唇を押し当てた。
彼の中に渦巻く、世界への凄惨な拒絶と、私に対する異常なまでの執着。
その熱量があまりにも重くて、切なくて、私は責める言葉を失ってしまう。
その時だった。
『——誰……?』
水底の奥深くから、鈴の音を転がしたような、澄んだ声が響いてきた。
水面がゆらりと大きく揺れ、波紋が広がっていく。
澄み切った水の下から、泡とともにゆっくりと姿を現したのは——人間ではない、けれどあまりにも幻想的な存在だった。
————
建物の影から滑るように現れたのは、一人の少女だった。
透き通るような青い髪が、水になびいてゆらゆらと泳いでいる。
彼女が纏っているドレスは布ではなく、まるで流れる水そのものが形を成しているようだった。
ガラス細工のように華奢で、儚い少女。
その瞳はオパールのように光を複雑に弾き、そして何より印象的だったのは——彼女の頬を、絶え間なく透明な粒が伝っていたことだった。
ポロポロと零れ落ちる涙。
その粒は水面に落ちるたびに、「コロン」と澄んだ音を立てて小さな水晶の結晶になり、水底へと沈んでいく。
「涙……?どうして、泣いているの……?」
私が抱えられたまま呟くと、少女はゆっくりと顔を上げ、オパール色の瞳をこちらに向けた。
『私の静寂を侵すのは……誰……?』
声はどこまでも静かで、聴いているだけで胸がキュッと締め付けられるような悲しみを帯びていた。
「チっ……出てきたか、水の出来損ない」
ザイは私を抱きかかえたまま後退りし、冷酷な目で少女を睨みつけた。
「シエル。相変わらず無様に泣き喚いているんだね……その濁った眼球で僕のアイを見るな」
「ザイさん、知り合いなんですか……?」
「知り合いなものか。ただの害虫だ」
ザイの吐き捨てるような言葉にも、シエルと呼ばれた少女は感情を荒げる様子を見せなかった。
ただ、その透明な瞳で、まっすぐに私を見つめてくる。
『あなた……記憶がないのね』
シエルの声が、水面を滑って耳に届く。
『何も覚えていない……』
『愛した人の温もりも、守れなかった約束も、この世界が血と炎に染まったあの日の絶叫も……すべて』
「黙れと言っているんだ、シエル」
ザイが片腕で私を抱いたまま、空いた手で胸元から冷たい金属の筒を取り出した。
旧時代の銃——人間がかつて同胞を殺すために作った兵器だ。
彼が躊躇なくシエルへ銃口を向けた瞬間、私は思わずザイの腕に手を伸ばした。
「ダメです、ザイさん! 撃たないで!」
「なんで止めるんだ、アイ? こいつは君の心を惑わす毒なんだ」
「すぐに核を壊して、この国ごと消しさらないと……」
「でも……!この子、何も攻撃してきてません!なのに、なんでっ……!」
私が必死で訴えると、シエルは微かに目を見開いた。
彼女の頬から、またひとつ水晶の涙が零れ落ちる。
『優しいのね……記憶のない、可哀想な女の子……』
シエルは水の上を滑るようにして、私たちへと近づいてきた。
ザイが引き金を引こうとするのを、私は彼の胸に抱きつき、必死でその視界を遮った。
「アイ、離れるんだ! 汚れる!」
「嫌です! お願いだから、話を聞いてあげてください!」
「チッ……!」
ザイは私を傷つけることを恐れ、引き金を引くのを躊躇した。
その隙に、シエルは私たちのすぐ目の前までやってくると、水でできた冷たい手をそっと差し伸ばし、私の頬に触れた。
ひんやりとした、けれど心地よい水流の感覚。
『ああ……なんて透明で、綺麗な魂』
『あなたの胸の中には、悲しみの記憶がひとつもない……』
「アイから手を離せ、化け物!!」
ザイが叫ぶが、シエルは動じない。
彼女の瞳から溢れた涙の結晶が、私の手にぽろりとこぼれ落ちた。
『うらやましいわ……とても愛おしい』
『……ねえ、お願い。私と一緒に、この深い水底で眠りましょう?』
「え……?」
『記憶なんて持たなくていい。心なんて育まなくていい』
『生きるということは、誰かを失い、傷つくこと……世界はこんなにも、痛みに満ちているのだから』
シエルの言葉には、悪意も害意もなかった。
彼女の国「水の国」は、かつて戦争で死んでいった人間たちが流した「最期の涙と絶望」が溜まってできた国。
シエルはその膨大な悲しみをたった一人で背負い続けているからこそ、記憶を持たない私に「傷つく前に、何も知らないまま眠らせてあげる」という、哀しすぎる救済を差し伸べようとしていたのだ。
「誰が……お前なんかにアイを渡すか……!!」
ザイの喉から、獣のような低い唸り声が漏れた。
彼の白銀の髪が逆立ち、琥珀色の瞳が狂気で真っ赤に染まっていく。
「アイは僕のものだ!! 僕が愛して、僕が………っ!!」
「……お前みたいな泥くずに触られていい存在じゃない!!」
「ザイ……!?」
ザイは私を力任せに抱き寄せると、私を背中に隠すようにして銃を構え直した。
彼の顔には、私に見せていた甘い笑顔の欠片もなかった。
あるのは、世界への圧倒的な拒絶と、一人の少女を絶対に手放さないという、狂暴なまでの『愛』。
「シエル……お前たちの悲しみも、思い出も、全部ゴミだ。消え失せろ!!」
カチリ、と引き金が引かれる金属音が響く。
「ザイさん!やめて——!!」
私の悲鳴が水没都市に響き渡ると同時に、鼓膜を破るような銃声が轟いた。
撃ち抜かれた水面が爆発したように跳ね上がり、シエルの体が激しく揺れる。
それと同時に、街全体を包んでいた青い水が、まるで生き物のように不気味に渦を巻き始めた——
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、ついにアイとザイが「水の国」へと足を踏み入れました。
これまでの旅とはまた違った、幻想的で少し寂しさを感じる場所だったのではないでしょうか。
今回のお話で特に注目していただきたいのは、ザイとシエル、それぞれがアイに向ける想いです。
ザイはアイを誰にも渡したくない。
シエルはアイに悲しみを知ってほしくない。
一見すると正反対の二人ですが、どちらも自分なりの方法でアイを守ろうとしています。
けれど、それは本当にアイのためなのでしょうか。
そして、シエルが口にした「記憶」という言葉。
アイが忘れてしまったものは、本当に何もないのでしょうか。
それでは、また次のお話でお会いしましょう!




