第1話 おはよう、僕の愛しい終末
むかしむかし、人間という生き物がいました。
人間たちは争い、奪い合い、やがて自らの手で世界を滅ぼしてしまいました。
けれど、世界は終わりませんでした。
朽ち果てた文明を緑が呑み込み、廃墟には花が咲き…
かつて人間が暮らしていた大地には、六つの不思議な国が生まれました。
世界は、以前よりもずっと美しくなったのです。
ただ一人、その美しさを憎む男がいました。
そして、ある日。
世界の片隅で、一輪の白い花が咲きました。
その花の中で眠っていたのは、名前も記憶も持たない一人の少女。
彼女を迎えたのは、天使のように美しく、悪魔のように残酷な男でした。
「おはよう、僕の愛しいアイ」
少女はまだ、何も知りません。
自分が何者なのかも。
彼がなぜ、自分を愛するのかも。
そして――愛という言葉が、時にどんな呪いよりも残酷であることさえも。
これは、滅びた世界で始まる、少し奇妙なおとぎ話。
ただし、この物語の王子様は、世界が大嫌いなのです。
耳奥で、チリチリと乾いた音が弾けていた。
濃密な湿気と、喉を焼くような青臭い匂い。
ガラスが擦れ合うかすかな摩擦音とともにまぶしい光がまぶたを刺し、私はゆっくりと不器用な手つきで目を開けた。
「……あ……っ」
視界を埋め尽くしていたのは、あまりにも巨大な「緑」の奔流だった。
ひび割れたアスファルトを食い破り、天を目指してのた打つ太い樹の根。
崩落した高層ビルの骨組みには、びっしりと毒々しい蔓草が絡みつき、かつて都市だった場所を丸ごと呑み込んでいる。
だが、それはただの美しい自然ではなかった。
緑の隙間から覗くのは、無数に穿たれた銃痕の跡。
苔に覆われた装甲車。
砲身をへし折られ、雑草の床に埋もれた鉄の巨塊。
見上げるほど高い大樹の幹には、かつて人々が命を奪い合うために使った巨大な爆撃機の翼が、刺さったまま錆びついていた。
ここは、緑の廃墟であり——争いの果てに打ち捨てられた、世界の墓場だった。
「私……どうして、こんなところに……?」
自分の手を見る。
白く、華奢で、無傷の手。
その先をたどるように頭の中を探ってみるけれど、そこには冷たく澄んだ空白しか存在しなかった。
——私は、誰?
なぜ、巨大な白い花の蕾の中で眠っていたんだろう。
名前すら思い出せないという底なしの恐怖に背筋が凍りつき、呼吸が浅くなっていく。
「落ち着いて。大丈夫だよ、僕の可憐な『アイ』」
頭上から降ってきたのは、降雪の静けさを思わせる、甘く低い声だった。
「っ!?」
驚いて仰ぎ見ると、そこにひとりの男が立っていた。
思わず息をのむほど、恐ろしいまでに美しい人だった。
歳の頃は二十代後半ほどだろうか。
風になびく髪は透き通るような白銀色で、その肌は一切の血色を拒絶したかのように雪のごとく白い。
整いすぎた顔立ちの真ん中で、琥珀色の瞳だけが怪しいほど深い光を宿していた。
男はふっと柔らかく微笑むと、膝をついて私と目を合わせた。
「怖がらなくていい。僕は君を傷つけたりしないよ」
「あ……あなたは……?」
「僕はザイ。君の案内人さ」
ザイと名乗った男は、壊れ物に触れるかのように過剰なほど丁寧な手つきで、そっと私の頬に手を添えた。
肌に触れる指先は氷のように冷たかったけれど、その撫で方は壊れそうなほど優しかった。
「声は出せるね。気分はどうかな?」
「は、はい……大丈夫、です」
「でも、あの……私、自分が誰なのか、何も思い出せなくて……」
「うん、知っているよ」
「え……?」
不安に揺れる私を愛おしそうに見つめ、ザイは優しく目を細めた。
「無理に思い出さなくていいんだ。今日君は、ここで生まれ変わったんだからね」
「……そうだ、君の名前は『アイ』どうだい、気に入ってくれたかい?」
「アイ……それが、私の名前……?」
「そうさ。僕の愛しい、特別なアイ」
ザイは嬉しそうに目を細め、私の手をとって立ち上がらせようとしてくれた。
---
「さあ、立てるかな?」
「はい……あ……っ!」
足に力を入れようとした瞬間、膝から崩れ落ちそうになる。
倒れそうになった私を、ザイは間一髪でしっかりと抱きとめてくれた。
「っと……無理はいけないな。ごめんね、僕が焦らせた」
「ご、ごめんなさい! 足が、うまく動かなくて……」
「謝る必要なんてないさ」
ザイは私を優しくお姫様抱っこすると、近くにあった滑らかな岩の上にそっと座らせてくれた。
そして、自分が泥の上に膝をつき、私の素足にそっと触れる。
「靴を履こうか。足を痛めてしまうからね」
ザイはどこからか取り出した、小さくて上質な革の靴を、私の足に丁寧に履かせてくれた。
ひざまずき、靴ひもを結ぶ横顔はどこか神聖で、私は恥ずかしさで少し胸が痛くなった。
「……ザイさんは、私のことを知っているんですか?」
「もちろん。僕は君が目覚めるのを、ずっとここで待っていたんだから」
「私を……ずっと?」
「そうだよ。君がこの世界で一番大切で、一番特別な人だからね」
ザイは靴ひもを結び終えると、顔を上げて私の目を見つめた。
その瞳はどこまでも澄んでいて、まっすぐに私だけを映している。
「私、何も覚えていないのに……そんな風に言ってもらえるなんて」
「ふふ、君はただそこにいてくれるだけでいいんだ」
「さあ、立ち上がれるかな?」
ザイに手を取られて立ち上がると、今度はちゃんと地面を踏みしめることができた。
ザイはほっとしたように胸をなでおろし、私の頭を優しく撫でてくれる。
「よくできたね、アイ。偉いよ」
「子ども扱いしないでください……」
私が少し頬を膨らませると、ザイは「可愛いな」と心底楽しそうに笑った。
記憶がなくても、この人と一緒なら大丈夫。
そんな温かい安心感が、私の胸の中に満ちていった。
---
「少し、高いところへ行こうか」
ザイに手を引かれ、私たちは崩れかけた階段を上り、ビル群を一望できる高い丘の上に出た。
「わあ……」
そこからの景色は、どこまでも広がる圧倒的な緑だった。
だが、目を凝らすと、そこかしこに歪な光景が広がっている。
空の中にぽっかりと浮かぶ、巨大な水の球体。
太陽の陰りを許さぬように、上空で眩しく輝く巨大な聖域。
はるか遠くの樹海から届く獣の遠吠えと、鉄が軋む重い音。
そして——街の至る所に沈む、巨大人型兵器の無惨な残骸。
「……あの、ザイさん。あの大きな鉄の塊は、なに?」
「それに……人間は、どこにいるんですか?」
私の問いかけに、ザイの足がピタリと止まった。
彼がつないだ手の力が、わずかに強くなる。
ザイは静かに振り向くと、遠くに見える錆びついた戦車を見つめ、静かに吐き捨てた。
「人間? そんなものは、もうどこにもいないよ」
「えっ……?」
「みんな死んだんだ。自分たちが作った『愚かな毒』に呑まれてね」
ザイの声から、ふっと温度が消えた。
「昔々ね、人間たちは愚かな戦争をしたんだ」
「殺して、奪って、憎しみ合って……」
「最後には勝つために、決して解き放ってはいけない最終兵器を作った」
「最終兵器……?」
「そうさ。敵の都市や鉄の兵器、文明そのものを一瞬で腐らせ、喰い尽くす『自増殖型の植物兵器』だ」
「……けど、愚かな人間どもにそれを制御できるはずもなかった」
ザイは嘲笑するように口元を歪めた。
「植物は敵国だけじゃなく、世界中に繁殖した」
「アスファルトを破り、鉄を噛み砕き、そして……呼吸器官に胞子を詰まらせて、人間たちを一人残らず緑の肥料に変えてしまったのさ」
「自分たちの吐いた毒で窒息しながら死んでいく様は、まさに傑作だったよ」
ザイの琥珀色の瞳の奥に、渦巻くようなドロドロとした暗闇が垣間見えた。
その言葉には、人間という存在に対する底知れぬ恐怖と、憎悪がこもっている。
「人間がいなくなったあと、その死骸から勝手に芽生えたのが……あの『6つの国』だ」
「6つの国……?」
「水を統治する『水の国』、光を掲げる『光の国』、血を好む『モンスターたちの国』」
「機械ばかりの『鉄の国』、本能で生きる『獣の国』、そして、甘い料理で溢れた『食の国』……」
ザイは冷ややかに指を折りながら語る。
その時、足元の草むらがガサガサと揺れた。
「ひょこっ」と顔を出したのは、大きな耳と丸い目を持った、うさぎに似た小さな生き物だった。
「あ、可愛い……」
私が思わず手を伸ばそうとした、次の瞬間。
「チっ……触るな」
低い呟きとともに、ザイの足が容赦なく振り下ろされた。
「ギャッ!?」
鈍い音とともに、小さな生き物は遠くの瓦礫へ蹴り飛ばされ、ピクピクと震えて動かなくなった。
「ザ、ザイさん!? どうしてそんなひどいことを……!」
「どうしてって……あんな不潔な化け物が、君に触れようとしたからだよ?」
ザイは心底不思議そうに目を丸くしていた。
さっきまでの優しい笑顔は影を潜め、冷たく凍りついた瞳で、地面に倒れた生き物を見下ろしている。
「で、でも、何も悪いことしてないのに……!」
「アイ。あいつらは人間が残したゴミから湧いた、ただの化け物なんだ」
「言葉も通じない、生きている価値すらない泥くずだよ」
「君が優しくしてあげる必要なんて、これっぽっちもない」
狂気じみた冷酷さが、彼の全身から滲み出ていた。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この人は、私にはこんなに甘く優しいのに、それ以外の命には恐ろしいほど冷徹なのだ。
だが、ザイは私の怯えた顔に気づくと、ハッとしたように表情を崩した。
「ごめんね、怖がらせてしまったかな?」
「あ……ううん……」
「僕はただ君を守りたいだけなんだ」
「あの醜い生き物たちに、君を汚されたくないから……許してくれるね?」
ザイは私の手を取り、愛おしそうに自分の頬へ擦り寄せた。
その甘く陶酔した仕草に、私はそれ以上何も言えなくなってしまう。
---
「話を戻そうか」
ザイは私の手を優しく握り直し、崩れた屋上へと足を進めた。
風が吹き抜け、彼の白銀の髪が美しく舞う。
「戦争で自滅した人間どもも不快だったが、あの化け物どもはもっと気に入らない」
「人間がいなくなった世界で、まるで自分たちが神様になったかのように好き勝手生きている」
「……反吐が出るほど滑稽だと思わないかい?」
ザイの琥珀色の瞳が、6つの国が佇む遠くの空を睨みつける。
「人間が作った愚かな世界。そして、その残り香に群がる醜い異形たち」
「……全部、消えてなくなればいいんだ」
「ザイ…さん…?」
「だからね、アイ。僕の愛しい、特別なアイ」
ザイがゆっくりと振り向く。
その顔には、先ほどまでの激しい憎悪が嘘のような、至高の美しさを湛えた微笑みが浮かんでいた。
彼は私の両肩をそっと抱きしめ、顔を近づけてくる。
吐息が触れ合うほどの距離。
硝子のように冷たい彼の香りが、私の胸を満たしていく。
「目覚めて早々に、身勝手なお願いをしてごめんね」
「でも……これは君にしかできないことなんだ」
「私に……しか?」
「そうだよ。君はね、あんなくだらない世界を終わらせるために、僕の元へ来てくれたんだから」
ザイの指先が、私の首筋を撫で、頬を滑り、愛おしそうに髪をすく。
彼の瞳は、狂おしいほどの情熱と絶望に揺れていた。
『ねえ、アイ。この汚い世界を——君の手で壊してくれないか?』
「世界を……壊す……?」
その言葉が落ちた瞬間、私の胸の奥で、カチリと冷たい金属が噛み合うような感覚があった。
記憶のない私。
なぜ自分がここにいるのかも分からない私。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが静かに頷いた気がした。
世界を滅ぼした戦争の跡。
生き残った異形たちの国。
そして、人間に裏切られ、絶望の果てに狂ってしまった白銀の男。
「……分かりました」
私はザイの琥珀色の目を見つめ返し、小さく頷いた。
「ザイさんがそうしてほしいなら……私、やってみます」
「私にできることなら、全部あげたい」
「ああ……! ありがとう、アイ!」
ザイは歓喜の声を上げると、私を折れるほど強く抱きしめた。
彼の体温は氷のように冷たかったけれど、抱きしめる力は痛いほどに熱かった。
「愛しているよ、アイ」
首筋に触れるザイの唇を感じながら、私は遠くの空を見つめた。
水、光、モンスター、鉄、獣、食。
これから巡ることになる、6つの異形たちの冠。
緑に呑まれた崩壊世界で、記憶のない少女と、狂った最後の人間の、甘く歪んだ破滅の旅が始まろうとしていた。
はじめまして!堂華 麗と申します。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
記憶を失った少女「アイ」と、彼女を溺愛する謎の男「ザイ」。
優しくて、美しくて、けれどどこか恐ろしい彼の願いは、なんと「世界を壊すこと」。
果たしてザイは何者なのか。
なぜアイは花の中で眠っていたのか。
そして、人間が滅んだ世界に生まれた「6つの国」には、どんな秘密が隠されているのでしょうか。
これから二人は、奇妙で美しい世界を旅していきます。
少し不気味で、時には笑えて、時には胸が苦しくなるような物語をお届けできたら嬉しいです。
そして、ひとつだけ。
この物語で語られる「愛」が、本当に正しいものなのか。
ぜひ、最後まで見届けてください。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価、感想などをいただけると、とても励みになります!
次回もよろしくお願いします!




