第4話「事前確率の更新」
その夜、澪は、珍しいことをした。
「ひとつ、検証してみるわ」
澪は、缶コーヒーを傾けながら、独り言のように言った。御子柴は、少し離れた席で、書類を片付けている。澪の視線は、御子柴の背中の方に、半分だけ向いていた。
データには、無限に考えを書き換えられる。証拠が来れば、淡々と書き換える。それが、澪の根っこだった。なのに、彼女には、ひとつだけ、ずっと手をつけずに置いてあるパラメータがあった。
御子柴律という男の、行動の、解釈。
澪は、それを、初めて、まな板に載せた。
仮説――御子柴の振る舞いは、共同経営者としての合理的配慮である。これを、証拠で覆せるか。澪は、淡々と、尤度を並べていった。
徹夜明けの差し入れ。送迎。残業の制限。理不尽な客を、裏で残らず片付けたこと。桐生がコトバを欲しがり、澪個人を引き抜こうとしたとき、御子柴が、温度のない怒りで「ビジネスで抹殺する」と決めたこと。資金危機で、ほとんどの社員が離脱したなかで、澪を、最後まで隣に置く選択をしたこと。そして今夜、「前職からずっと君を見ていた」と、長く仕舞っていたものを、わざわざ開けて見せたこと。
証拠は、多い。
「……これは、書き換える余地が、あるわね」
澪は、呟いた。御子柴の手が、書類の上で、止まった。気配だけで、澪の言葉を拾ったのだ。御子柴は、振り返らなかった。振り返れない、という方が、近かった。
澪は、並べた証拠を、頭の中で、もう一度、束ねた。掛け合わせた。事後確率が、像を結んでいく。御子柴という男が、ここまで一貫して、澪という一点に、資源を注ぎ込んでいる。その理由。その、たった一つの説明。
澪の目に、いつもの千里眼の温度が、よぎった。
「……見えたわ」
御子柴の背中が、こわばった。澪が、答えに辿り着く。長い、長い夜の果てで、ようやく――。
「事前確率を、更新するわ」
澪は、缶コーヒーを置いた。淡々と、しかし、確信を持って、澪は、自分が出した事後確率を、体言止めで言い切った。
「律は――私の“技術”に、惚れている」
御子柴の背中で、何かが、音もなく崩れた。
「これだけの資源を、一人の人間に注ぎ込む。説明は、それしかない。あなたは、私の技術が、よほど好きなのね。経営者として、私のコードを、心から愛している。前職から目をつけていた、というのも、そういうことだったのね。腑に落ちたわ」
澪は、自分の論証に、満足げに頷いた。最上位の更新を、人生で初めて、人間の感情に対して行使した。さんざん証拠を積み、丁寧に尤度を計算し、確信を持って導いた答えは――見事に、的を外していた。
御子柴は、ゆっくりと、振り返った。
「……出たな。澪の“更新”」
それだけだった。茶化しの言葉さえ、いつもの半分の力もなかった。彼が三年間、行動のすべてに込めてきた熱は、ついに正面から検証され、そして、宛先を「技術」に書き換えられて、夜のオフィスに、音もなく、溶けて消えた。
御子柴は、否定しなかった。否定すれば、恋を語ることになる。だから、彼は、最後まで、言わない。
***
給湯室の影で。
新海彩が、スマホを握りしめ、口元を両手で押さえて、限界の表情で、その一部始終を見ていた。
声に漏れたのは、ただ一音。
「……ぷっ」
彩は、慌てて口を塞いだ。澪には聞かれていない。澪は、自分の出した結論にすっかり満足して、もう次の缶コーヒーに手を伸ばしている。彩は、胸の内で、深々と、一礼した。
――御子柴さま。本日をもちまして、生涯の決算でございます。
――三年。ありったけの資源を一点に注ぎ込まれ、満を持して相手が出した結論が――「技術に惚れている」。これ以上の完敗は、わたくし、生涯お目にかかれぬかと存じます。
――されど、ご安心くださいませ。あなたさまの三年は宛先を間違えて宙に溶けましたが、わたくしの目には、一文字残らず刻まれてございます。この特等席だけは、地球が滅ぶまで辞しませぬ。どうぞ来世も、つつがなく、完敗なさいませ。
彩は、声を殺したまま、もう一度、礼をした。
御子柴が、影に向かって、苦笑した。澪には、彩が何をそんなに尊んでいるのか、相変わらず、まるでわからなかった。わかろうとも、思わなかった。
***
澪は、モニターに向き直った。
国境の向こうへ伸びる、辿りきれなかった線が、まだそこにあった。本丸は、海の向こうにいる。いつか、また、形を変えて、こちらへ手を伸ばしてくるだろう。完全な勝利はない。あるのは、次の問題と、その次の問題だ。
澪は、それを、悪くない、と思った。
世界は、解くべき問題で満ちている。データの底には、いつも、誰かの横顔が透けている。澪は、そのすべてに照準を合わせ、確率の海を覗き込み、像を結ばせる。千里眼は、どこまでも遠く、どこまでも広く、見通せる。
ただ一つ――すぐ隣にある、ある男の信号にだけは。
澪は、缶コーヒーを傾けた。
御子柴律という男が発し続けている、あの不可解な信号。三年間、ずっと、澪のすぐ横で、強く、絶え間なく、放たれ続けているそれに、澪の興味の値は、ついぞ、立たなかった。すぐ隣にあるのに、彼女の感度は、そこだけ、永遠に澪のままだった。だから、生涯、彼女がその信号に照準を合わせることはない。世界中のどんな遠い謎にも届く千里眼が、隣の男の心音にだけは、最初から、向きを持たなかった。
それで、よかった。
澪は、新しいウィンドウを開いた。途切れた線の、その先。海の向こうの、まだ見ぬ盤面。解けない課題の気配が、画面の奥で、静かに息づいていた。
「……次の課題は、何かしらね」
澪の呟きは、誰にも届かなかった。
そして、御子柴の片想いだけが、相変わらず、夜のオフィスに、ただ一行も検知されないまま、静かに灯り続けていた。
最終話まで、毎晩お付き合いくださって、本当にありがとうございました。仕事帰りの電車で、休憩の片隅で、眠る前の数分で、この「氷のベイズ」と片想いのCEOの物語を追いかけてくださった、その一日一日が、四十一話を最後まで運んでくれました。
お仕事は、ちゃんと決着します。データと理屈で世界を切り分けてきた澪が、最後に一度だけ、いちばん近くにいる男の心へ、その千里眼を向ける――「事前確率を更新」しようと試みる。けれど、たぶん彼女はまた、みごとに読み違える。世界のすべての嘘を見抜く天才が、たった一人ぶんの本当だけを、今日も取りこぼす。この壊滅的なすれ違いこそが、この物語のいちばんの燃料でした。
最後にどうか、【笑える】【びっくり】【にこにこ】【泣ける】【いいね】――この長い連載で動いた感情のぶんだけ、全部にリアクションを。そして★を、完結したこの物語を明るいほうへ送り出す拍手がわりにいただけたら、これ以上の幸福はありません。
それでは――「……次の課題は、何?」。
氷のベイズの千里眼は、恋だけを永遠に外し続けます。またどこかの案件で、お会いできますように。長らくのお付き合い、本当に、ありがとうございました。
冬野 結




