第3話「先に、見ていた」
「完全に勝った、とは言えないわ」
その夜、五反田のオフィスで、澪は自席のモニターに、最後まで辿りきれなかった線を映し出していた。
国内の出し子の網は潰れた。金の窓口も、コトバの癒着も、切れた。けれど、澪のグラフの一番奥――胴元に最も近いあたりで、いくつもの線が、ふっと途切れていた。決済が海外を経由し、口座が国外で開かれ、配信の指令が国境の向こうのサーバーから来ていた。
「ここから先は、私の地図が届かない」澪は、その途切れた線の束を、指でなぞった。「物理的な拠点が、海の向こうにある。日本の警察だけでは、踏み込めない。国際協力で叩いても、すぐ建て直す。摘発した数日後には、別の名前で、同じ手口が動き出す。――ヒドラと同じよ。首を一つ落としても、本体は生きてる」
「全部は、獲れないか」御子柴が、コーヒーを二つ持ってきて、片方を澪の手元に置いた。
「獲れない」澪は、はっきり言った。「『完全勝利』なんてものは、最初から存在しないの。できるのは、抑止と、被害を最小にすることだけ。今夜この国で騙される人が、一人でも減る。消えた被害者が、一人でも戻る。それで、十分。完璧を約束する技術は、嘘よ」
それは、敗北の言葉ではなかった。
澪は、世界がそういう形をしていることを、最初から知っていた。だから、過剰に勝とうとも、過剰に負けたとも思わない。守れる範囲を、守った。マコトは、嘘の側に塗り潰されなかった。その一点だけが、確かに残った。
御子柴は、しばらく、澪の横顔を見ていた。
***
「君に、言っておきたいことがある」
御子柴が、ふいに、そう切り出した。澪は、モニターから顔を上げた。御子柴は、いつものクールな王子の顔をしていた。けれど、その奥に、何か、長く仕舞っていたものを出すような、わずかな硬さがあった。
「コトバを辞めたあの日。僕が、ビルを出た君の背中を呼び止めた。あれは、勢いじゃない」
「知ってるわ」澪は言った。「優秀な技術者が、不当に切られるのを、コストの観点から見過ごせなかった。合理的な判断よ」
「違う」
御子柴は、静かに、それを否定した。
「あの日に、始まったことじゃない。――もっと前から。前職時代から、ずっと、君の“才能”に目をつけていた」
澪の指が、止まった。
「あんな才能が、あんな腐った会社に収まるわけがない。いつか、自分の会社を作って、迎え入れる。そう、決めていた」
御子柴は、澪の目を、まっすぐに見た。
「君が解雇された日は、その計画を前倒しする、絶好の機会だっただけだ。だから、迷わなかった。――前職の誰も、君を正しく評価しなかった。その中で、誰より早く、君の才能を見出していた一人が、いた。それだけは、知っておいてほしかった」
オフィスの空気が、静かだった。
これは、感情の山だった。前職で握りつぶされ、誰にも正しく測られなかった澪を、ずっと前から、まっすぐに見ていた一人がいた――その告白が、いま、御子柴の口から、確かに語られていた。けれど、御子柴は、その言葉に、恋の一文字も混ぜなかった。好きとも、惚れたとも、言わなかった。明かしたのは、才能を見ていた、という事実だけだった。それが、この男の、最後まで崩さない流儀だった。
澪は、しばらく、黙っていた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「合理的な判断だったのね」
御子柴の表情が、わずかに止まった。
「優秀な技術者を、早くから目をつけて、確保しておく。学歴や肩書きで人を測る連中が見落としている、安く仕入れられる才能を、いち早く青田買いする。経営者として、それは、極めて合理的な執着だわ。投資の眼として、正しい」
あの夜、薄い線で書きかけて低い確信のまま保留した「独占・囲い込み」の候補に、ようやく証拠が揃った。
澪は、感心したように、頷いた。
「あなたは、いい目利きをしていた、ということね。私という技術への、先行投資。回収効率を、よく計算していた。――納得したわ。だから、あなたは、ずっと私の“技術”を、手放さないようにしていたのね」
御子柴は、何も言わなかった。
否定する言葉を、彼は持っていなかった。否定すれば、恋を語ることになる。それは、最後まで、しない。だから、御子柴は、ただ、薄く笑うしかなかった。澪限定で崩れる、あの素の顔のまま。明かした感情の山は、宛先を「技術への投資」に書き換えられて、宙に浮いたまま、どこへも届かなかった。
ずっと前のあの違和感が、ここで一本の線に繋がる。「金の匂い」は、最初から偵察だった――伏線が回収される鳥肌に打たれたら、【びっくり】か【いいね】を! ★を、張り巡らされた設計への拍手として。




