第1話「本当の膿」
詐欺リングが摘発されてから、三週間が過ぎていた。
澪の描いた地図――出稿アカウント、使い捨てドメイン、決済、口座、その間を巡る金の流れ――が、警察の手で扉を蹴破る根拠になった。押さえた出し子から芋づるに辿られ、国内のかけ子拠点がいくつか潰された。新聞の社会面に控えめな見出しが載ったが、澪は読まなかった。摘発は自分の領分ではない。地図を渡した時点で、彼女の仕事は終わっていた。
だから、その続報を澪の机まで運んできたのが警察ではなく彩だったのも、振り返れば理にかなっていた。
「澪ちゃん。これ、見た?」
昼下がりだった。彩がタブレットをデスクに滑らせる。ニュースアプリの速報画面。御子柴も、いつのまにか澪の背後に立って、画面を覗き込んでいた。澪は、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを、蓋も開けないまま手に持っていた。
詐欺リング摘発の続報、とあった。押収端末の解析が進み、詐欺グループが「カモのリスト」――誰が、どんな広告に弱いか――を、外部の“業者”から定期的に買い入れていた記録が、押収端末の側から見つかった。捜査関係者の話として、警察はその“業者”にあたるとみられる法人を家宅捜索した。記事は、淡々とそう伝えていた。
澪は、記事を最後まで読んだ。読むまでもなかった。「カモのリスト」という六文字が出た時点で、答えは半分、像を結んでいた。けれど売り手の法人名が文字として目に入ると、それは別の重さになった。
株式会社コトバ。
澪の、古巣だった。
***
「機構としては、あのとき――被害の“整いすぎ”を見たとき、推定したとおりよ」
タブレットを彩に返したあと、澪は自席で御子柴と彩に淡々と説明した。声に、特別な感情は乗っていなかった。
「私が前に書いた検出エンジンが、コトバのサーバーに残ったままだった。誰が詐欺広告に弱いか――『この人を守れ』と要保護の人を選ぶための判定よ。それを反転させれば、そっくり『この人を狩れ』になる。守るべき人のリストが、騙すべきカモのリストに化ける。同じデータ、同じモデル、向きが逆なだけ」
言いながら、澪は、ずっと剥がせずにいた付箋が、指先から落ちる感触を覚えた。門番もないのに、コトバの広場がきれいすぎた理由。あれは誠実さではない。カモを名簿にして売れば、詐欺グループは広場に無差別に撒く必要がない。名簿の一人を、広場の外から――クローキングで、LINEへ誘って――狙い撃てばいい。だから広場だけが不自然に清潔だった。『詐欺広告ゼロ』の看板は、いちばん質の悪い清潔さだったわけね。
「で」御子柴が、静かに言った。「コトバは、それを、詐欺グループに売っていた」
「記事を読むと、そうなるわね」澪は、首を振った。「でも、詐欺グループの手元からコトバのリストが見つかったからといって、コトバが売ったとは限らない。ただ情報が流出しただけかもしれない」
澪は、缶コーヒーを、まだ開けないまま、机に置いた。
「だから、リストを売ったと立証するには、内部に協力者が要る」
壁を破る決め手は、内側からしか取れない。けれど、自分の会社の罪を、自分の手で外へ差し出す――そんな殊勝な人間が、いまのコトバのどこにいるだろう。澪は、その線に、ほとんど期待していなかった。
***
数日後。
「君に会いたい、という客が来ている」御子柴が、応接の扉の前で、声を落とした。「コトバの人間だそうだ。受付で名乗った名前を聞いて、たぶん君のことだろうと思った」
澪が応接に入ると、ソファから、ひとりの男が、ゆっくりと立ち上がった。その顔を見て、澪はわずかに目を見開いた。感情で表情を動かすのは、珍しいことだった。
「……椎名さん」
六十三歳。コトバの開発部門の責任者。初代創業者の右腕。学歴も肩書きも持たない澪の腕を社内でただ一人まともに値踏みし、本番環境の権限と自由を与えた元上司。
そして――澪が解雇された、あの会議室で。「なぜ高卒に権限を」という桐生の怒りの矛先を引き受け、「監督責任」を着せられて降格・閑職へ追いやられた男。あの日、澪を庇おうと唇を動かし、けれど音にできず、目を伏せた人だった。
椎名は、ずいぶん老けて見えた。三年と少しで、人はこんなに白髪が増えるのか、と澪は無関係に思った。
「久しぶりだな、氷室」椎名は、深く頭を下げた。「――例の件、ニュースに出ているから知っていると思うが」
椎名は、まっすぐに澪を見た。「……私が、警察に告発した」
澪は、何も言わなかった。
「権限ログも、契約書の写しも、送金の記録も。全部、私が持ち出して、警察に届けた。桐生社長が『データ事業』と称して、君の遺したコードと利用者のデータを外へ売る承認をしている。それを何年も間近で見ていた。声を上げられないまま」
椎名の声が、わずかに震えた。
「あの日、君を庇えなかった。初代に桐生を託された身だ、自分がそばで見ているしかない、と言い訳を重ねて、嘘の片棒を担ぐのをただ黙って見ていた。三年かかって、ようやく止める側に回れた」
椎名は、もう一度、頭を下げた。
「すまなかった。本当に、すまなかった」
澪は、その姿を、静かに見ていた。
御子柴がいた。彩がいた。二人とも息を詰めて、澪が何を返すのかを待っていた。情の回収がここで起きると思っている顔だった。長い和解の言葉か、あるいは涙か。
澪は、缶コーヒーの蓋を、ようやく開けた。
「謝らなくていいわ」
澪は言った。淡々と。
「あなたが、あのとき、私に本番の権限をくれた。だから、誰にも止められずに自分のコードを本物のデータに当てられた。あれがなかったら、検出エンジンは完成していない。得られたデータとしては、感謝してる」
「氷室……」
「庇えなかったことも、もういいわ。あなたが私を庇うかどうかは、私の人生のパラメータとしては重みが小さかった。私は職に未練がなかったし、辞めて別の研究室を手に入れた。あなたが今、罪悪感で苦しんでいるのは、あなたの問題よ。私が引き受けるものじゃない」
澪は、コーヒーを一口飲んだ。
「ただ――警察に告発してくれたのは、助かったわ。あれがないと、『故意に売った』は、誰にも立証できなかった。外からは、どうやっても届かない壁。あなたが内側から開けてくれたから、決着がつく。技術的に、正しい一押しだった。ありがとう」
椎名は、しばらく、澪の顔を見ていた。
それから、ふっと肩から力が抜けたように笑った。泣くような笑い方だった。
「……変わらないな、君は。あの会議室を出ていったときと、何ひとつ」
「変わる理由がないもの」澪は、本気でそう言った。
御子柴が、横で、ごく小さく息を吐いた。澪が拾い損ねた情の重さを、御子柴のほうが静かに受け取っていた。澪には見えていなかった。
表沙汰の悪事の、さらに奥にある“本当の膿”。内部からの一証言が、故意の一線を静かに立証していく――その詰めの鮮やかさに唸ったら、【びっくり】か【いいね】を! ここまで走ってきた物語に、★ポイントで景気づけを。




