第1話「線の外側」
異変は、シグマがようやく息を吹き返した朝に、データのほうから歩いてきた。
人手が消えても、澪のAIエージェントが運営を回し続けた。少数で巨大な運用を回す、筋肉質な会社。札束に押し流されかけた残高は、延命ではなく、黒字へ転じていた。その、生き延びたばかりの朝に。
ニュースは、どのチャンネルも同じ話をしていた。SNS型の投資詐欺が急増している。被害額は半年で前年の倍。著名人の顔を騙り、「必ず儲かる」と外部のチャットへ誘い込んで、根こそぎ持っていく。消しても消しても湧いてくる、と画面の向こうの誰かが疲れた顔で言っていた。
澪は、テレビには目もくれなかった。代わりに引き寄せたのは、自分の手元にあるもの――マコトのログだった。
“詐欺ゼロ”を目標に掲げる自社のSNS。そこに張った検知エンジンの網が、日々はじいている詐欺アカウントと広告の、はじいた記録。誰を、いつ、どんな顔で狙おうとしたか。マコトに流れ込んでこようとした敵の痕跡は、全部、シグマの中に残っている。
「世間が騒いでるなら、まず足元を調べるのが筋でしょ」と澪。彩がコーヒーを置いていく。「で、足元から何が出てきたの」
「調べてる最中よ」
御子柴が、コーヒーを片手に近づいてきた。「足元って、つまり、うちの網のことか」
「ええ」澪は、はじいた記録の山を画面に呼び出した。日々、マコトの網にかかって死んでいる詐欺の死骸が、ずらりと並ぶ。「いま、この網で、ちゃんと守り切れているのか。それを先に確かめておきたいの」
「完璧に守れてるんじゃないのか。詐欺ゼロの」
「完璧、ね」澪は薄く息を吐いた。「前にも言ったでしょう。完璧なんて、ありえない。最初から、そういう前提で組んである。今の仕組みでは、安い網が、二枚」澪は、その二枚を順に指した。「一枚目は、“いつもと違う”を見張る網。文章、画像、ドメイン――項目ごとに、ふだんの形を覚えさせておく。そこから外れたものが来たら、警告を上げる。何が詐欺かを教えなくても、見慣れない異物ってだけで引っかかる。安いし、速い」
「番犬みたいなものか。知らない匂いがしたら吠える」
「近いわ。ただ、見慣れないだけで吠えるから、まっとうな新作も吠えられる。うるさい番犬よ」澪は二枚目を指した。「だから、もう一枚重ねてる。弱い手がかりを、束ねる網。新しいドメイン、強すぎる言葉、出稿者の妙な動き――一つひとつはシロかもしれない手がかりを、何枚も集めて、掛け合わせる。“この広告が詐欺である確からしさ”を、一個の数字にして、線を引く」
「で、それ、僕にもわかるように言うと?」
「容疑者を、証言一個で逮捕しないでしょう」澪は淡々と言った。「目撃証言、指紋、アリバイの綻び。一個ずつは弱くても、十も二十も同じ方を指したら、クロの確率が跳ね上がる。その確率を出して、しきい値で切る網」
「それが、二枚目」
「ええ。この二枚――見張る網と、束ねる網を、これまでのデータで育ててきた。安くて、速くて、全部の出稿に回せる。いまマコトの出稿から詐欺を弾いてるのは、この二枚の安い網よ」澪は、はじいた記録の山を、指でなぞった。「ちゃんと、働いてる。ほとんどの詐欺は、この網を抜けられない」
「ほとんど、ってことは」御子柴が、その語尾を拾った。
澪は、答えずに、ログを並べ替えはじめた。
***
違和感は、はじいた記録の中ではなかった。はじけていない記録――すり抜けて、表に出てしまった数件のほうにあった。
「……入り込んでる」
「入り込んでる?」御子柴が眉を寄せた。
「うちの網を、すり抜けてるのが、いる」澪は画面の数件を、淡々と示した。「マコトは、詐欺のアカウントも広告も、出稿の前にあの二枚の網でふるいにかける。それでも、網の目から漏れたのが、わずかに表へ出てる。ユーザーからの通報で、いくつか拾った。数は少ない。でも――最近、増えてる」
「お前のエンジンが、抜かれてるってことか」
「ええ」
澪は、すり抜けた数件を、一つずつ開いた。顔は、見覚えのある詐欺の顔ではなかった。言葉も、いつもの「必ず」「元本保証」とは、少しずつ言い回しがずれている。煽りの角度が、微妙に違う。澪のエンジンが「これは詐欺だ」と覚えている形から、ほんのわずかに外して作られている。わざと、外して。
「言い換えてるのよ」澪の声が、少し平たくなった。「私のエンジンが何に反応するかを、向こうは研究してる。反応しないギリギリの言葉と顔を、作ってきてる。偶然の取りこぼしじゃない。私のアルゴリズムを、相手が、超えてきてる」
御子柴は、その意味するところを、ゆっくり噛み砕いた。「……つまり、敵が、お前の検知を勉強して、上を行きはじめてる」
「ええ。しかも、上手いわ」澪は、すり抜けた一件の言い回しを、もう一度なぞった。「私が引いた線の、ほんの数センチ外側を、正確に歩いてる。線がどこにあるか、わかってないと、こんな歩き方はできない」
「やっかいなのは」と澪は続けた。「これが一回きりじゃない、ってこと。私が線を引き直せば、向こうはまた、そのわずかに外側を歩いてくる。終わらない。追いかけっこよ」
***
澪は、怒鳴らなかった。机を叩きもしなかった。ただ、表情が、すっと消えていた。普段の硬い無表情とも違う。何かに掴まれて、その内側へ降りていく、静かな顔。
「澪」と御子柴は呼んだ。「で、どうする」
澪は、すり抜けた数件の言い回しを、画面いっぱいに並べ直した。どれも、私の引いた線の、ほんの外側を歩いている。私の検知を研究して、わずかに迂回して、表へ抜けてくる敵。
「おもしろい課題ね」
御子柴は、何も言わなかった。その台詞は、いつもと同じだった。けれど、温度が違った。怒りでも義憤でもない。もっと純粋な、技術者の好奇心。自分の引いた線を、外から正確になぞって超えてくる相手がいる――その一点が、彼女を内側から掴んでいた。
「やるのか」と御子柴は言った。問いではなかった。
「やるしかないでしょ」澪は、ノートパソコンを引き寄せた。
「いまの検知じゃ、もう足りない。線を引き直しただけじゃ、また外側を歩かれる。――武器を、鍛え直すのよ」
その声に、感傷はなかった。淡々と、これから組み上げるものの設計図を、頭の中でめくり始めた顔だった。
御子柴は、自分のスマホを取り出した。「なら、僕は外を固めておく。君が網を鍛え直してる間、会社が揺れないように、出稿主への説明も、現場の段取りも、こちらでしておく。君が何を描いても、ちゃんと使える形になるように。それが、僕の仕事だ」
「ええ」
澪は、もう聞いていなかった。
画面には、線の外を歩いてきた敵の足跡が、いくつも光っていた。その向こうに、まだ顔のない相手がいる。私の引いた線を、外から測って、なぞって、超えてくる誰か。
「――次は、抜かせない」
誰に言うでもなく、澪は呟いた。窓の外で、夜が深くなりはじめていた。
これまでの守り(基線)を、詐欺のほうが学習して超えてくる――敵が“進化”してくる不穏さにゾクッときたら、【びっくり】を! どう捕まえ直すのか、ブックマークで見届けて。




