幕間②「揃いすぎた拍手」【五】
その夜、五反田のオフィス。
澪は机に突っ伏すような姿勢で、ぼんやり窓の外の街灯を眺めていた。徹夜と現場で、芯まで消耗していた。
御子柴が、紙袋から小さなプリンの容器をいくつか取り出し、澪の手元に並べた。スプーンを添える。
「ほら。ひと晩じゅうあれにかじりついて、何も口にしてないだろう。彩が、このままじゃ澪ちゃんが干物になるって怒ってたぞ」
澪はのろのろとスプーンを取り、一口運んだ。甘さが、空っぽの脳にじんわり染みていく。
「で。どうやって、そこに辿り着いたの?」御子柴は椅子を引き寄せ、頬杖をついた。「票を数えて滑って煮詰まってた君が、最後はどうして、数えるのをやめられた?」
「……相撲よ」
「相撲?」
「私の趣味」澪は二つめのプリンに手を伸ばした。少しだけ、声の温度が変わった。「八百長の星は、確率からずれて揃いすぎる。その揃いすぎを星の並びだけから言い当てて遊んでいた。だから“揃いすぎ”が指紋になる、というところまでは、最初から手の中にあったの」
「でも、票を一個ずつ数えて、ずっと滑っていた」澪は続けた。「止まれたのは、彩の一言よ。『本物の人は、もっとバラバラに、気まぐれに押す』。あれで、見る単位が入れ替わった。一票じゃない、押し方。点じゃない、揺らぎ。揺らぎを束ねて見た瞬間、相撲の星とつながった」
「借りなら、もう一つ彩ね」澪は付け足した。「彩が普段から『揃いすぎたものは信じない』『中毒製造機は作らない』って口酸っぱく言っていた。あの“気色悪さ”を肌で嫌う感覚は、私にはない。それが、あの『なんか変』で押せる報告ボタンにつながった。要するに、彩の感覚を、お母さんたち何千人の指に配り直しただけよ」
澪は、自慢でも謙遜でもなく、事実の配分として言った。種は趣味と彩の言葉、加工は自分。境目を引いただけだ。
「なるほどな」御子柴は感心したように頷いた。
澪は、ふと思い出したようにスプーンを止めた。「そういえば。あなたがひと晩じゅう計っていた、あの秒」
「ああ」
御子柴の手が、一番ずつ書きつけた手帳に触れた。
「もう要らないわ」
澪はあっさり言った。
「立ち合いから決着までの時間なんて、とっくに誰かが場所ごと力士ごと、何十年ぶんもネットに上げているの。さっき調べたら、寸分同じ数字がまるごと出てきた」
御子柴の指が、手帳の上でしばらく止まった。
「無駄足を踏ませたわね。ダウンロードひとつで済んだのに」
澪はわずかに首をかしげ、すぐ次のプリンへ意識を移した。
ひと晩ぶんの労力が、たった今、一言で無価値に変わった。最初から落ちていたデータを、彼が夜通し親指で拾い直していた事実が、無意味と化した。さらに、その献身すらも、彼女の演算に上がりすらしない。
「……ぷっ」
給湯室の影から、押し殺した笑いが漏れた。帰ったはずの彩が、こっそり戻ってきて、限界の表情でこちらを覗いている。笑いの矛先は、澪ではない。徹夜明けでなお、何ひとつ報われていないことにすら気づかない、この憐れな王子のほうだ。
彩は口元を両手で押さえ、声だけは必死に殺したまま、胸の内で深々と一礼した。
――御子柴さま。本日も、見事なまでの空振りにございます。澪さまのためにとひと晩じゅう親指で秒を刻みつづけ、その山がネットにただで転がっておったと言い渡されてなお、惜しむ色ひとつ。殿が澪さまのためになさったことは、あの方のログにただの一文字も残りませず。
――この最前列、わたくし、生涯辞する所存はございません。
御子柴が、影に向かって苦笑した。澪には、彩が何をそんなに喜んでいるのか、相変わらずまるでわからない。わかろうとも、思わなかった。
澪は、揃いすぎた拍手を一晩で見抜く女だ。揺らがないものをニセものだと切り捨てる目を持っている。
なのに、すぐ隣で、毎日、判で押したように同じ熱量で点り続ける、たった一人ぶんの信号。世界でいちばん「揃いすぎた」その拍手だけは、彼女の網に一度も引っかからない。汚染票よりも、ずっと不自然に整っているのに。澪の盤の上では、それは“ノイズ”の閾値にすら永遠に届かない。
「……次の課題は、何?」
澪は四つめのプリンをつまみ、もう次の盤のことを考えはじめていた。誰よりも気まぐれな揺らぎを愛するこの女が、ただ一人、世界で最も整った想いだけを、永久に拾い損ねたまま――。
その拍手は今夜も、たった一人ぶんの席で、誰に数えられることもなく、静かに鳴りやまずにいた。
プリンのご褒美の夜。世界一気まぐれな揺らぎを愛するこの女が、世界一整った想いだけを永久に拾い損ねる――その切なおかしさにやられたら、【にこにこ】か【いいね】を! 次の課題もブックマークで一緒に。




