梅雨の夜空に願いを
「あら残念〜。また引き分けでしたね〜。じゃあ3回戦スタート〜」
「またまた引き分け〜。4回戦〜」
「5回戦〜」
······茶髪巨乳ギャル店員の声はそこで途切れた。そしていつの間にかその姿も見当たらなくなった。
慣れない遊戯だったからかもしれない。緊張感からか顎の力の抑えが効かなかったのかもしれない。 いずれにせよ、皿に盛られた5本のチョコポッキーはその目的を成就する事無く、全て砕け散りその無残な屍をテーブルの上に晒した。
丸平他与太と直角直子は力無く座布団の上に座り込む。両者共に俯きながら、永遠とも思われる沈黙が続いた。
「······直角さん。覚えていますか? 半年前、俺がこの会社の総務課に派遣されて来た時の事を」
他与太は両目を伏せたまま突然口を開いた。他与太自身、自分がこれから何を喋るのか分かっていなかった。だが、不思議と心が落ち着いていた。
「まだ派遣されて来た頃、総務課の人達は俺の事を 「派遣さん」って呼んでたんです。よくある事なんで、俺は特に気にしていませんでした。でも······」
他与太の声に、直子は靄がかかったような意識が少しずつ晴れていくような感覚に襲われていた。
「直角さん。貴方は違いました。貴方は俺の事を「丸平さん」と名前で呼んでくれました。俺はそれが嬉しかった。嬉しかったんです」
他与太は顔を上げ、直子の顔を真っ直ぐに見つめる。何時から自分は直子の事を想うようになったのか。他与太自身気付かなかった大切なきっかけを、この時他与太は鮮明に思い出していた。
直子の心の中で、難解に結ばれていた紐が解かれていく。他与太が自分に語りかける一語一語が、直子の見栄や世間体、自意識を世界の果てに追いやって行った。
「直角さん。いえ直子さん。俺はその時から、貴方の事が好きになりました。貴方が好きです。直子さん」
他与太の目に映る直子の姿が霞んで見えた。気付いた時、他与太の両目には涙が浮かんでいた。他与太は思った。この涙は決して恥ずべきものではないと。
「······まだ私達が総務課にいた頃、私の机は給湯室のすぐ隣にあったんです。給湯室の壁ってすごく薄くて、中で何を話しているか外に筒抜けだったんです」
直子は逸る気持ちを必死で抑えていた。自分に告白してくれた相手に。自分の名前を初めて呼んでくれた他与太に。この想いを必ず伝えるべきだと、直子は今にも詰まりそうな声を発し続ける。
「総務課の人達は給湯室の中でよく私の悪口を言っていました。私は「杓子定規で融通が効かない痛い人」だって。ある日、丸平さんが給湯室に居合わせた時、いつも陰口を叩く人達から丸平さんも同意を求められていました。その時、丸平さんがその人達に何て言ったか覚えていますか?」
目を潤ませ、頬を赤く染めながら自分に語りかける直子の姿に、他与太の心臓は痛みを感じそうなくらい脈打っていた。それは、自分が直子に告白した時よりも激しい高鳴りだった。
「······丸平さんは「でも、杓子定規の定規は真っ直ぐです」って言ったんです」
直子の瞳から大粒の涙が溢れる。ハンカチを取り出す時間を惜しむように、その涙を指で拭う。
「定規は真っ直ぐで折れない。俺は直角さんは真っ直ぐな人だと思います。貴方はそう言ってくれたんです」
とめどなく溢れる涙を拭う直子の姿に、他与太はハンカチを差し出そうとする。だが、まだそれは出来なかった。直子の話を最後まで聞く義務が他与太にはあったからだ。
「丸平さん。いえ他与太さん。私はその時から、貴方の事が好きでした」
その想いを最後まで言い終え、直子は両手で顔を覆う。他与太は殆ど無意識に直子に駆け寄り、ハンカチを直子の両目に当てた。
「······直子さん。俺は明日も。明後日も、その先もずっと直子さんと一緒にいたいです。そ、その。連絡先を交換しませんか?」
洗練とはお世辞にも言えない不慣れな他与太の言葉に、直子は思わずきょとんとする。互いに想いを確認し合ったのに、最初の台詞が連絡先交換とはあまりにも情緒と浪漫に欠けてはいないか。
数瞬の後、直子の胸の中で幸福な可笑しさがこみ上げてきた。こんな不器用な他与太だからこそ、自分が好きになったのだと。
「あ、あれ? ラインの交換ってどうやるんだっけな? す、すいません直子さん。滅多にライン交換なんてしないから」
「わ、私もライン交換なんて数年振りで。い、今ってどうやるのかしら? あ、ネットで検索してみますね他与太さん」
「ラストオーダーの時間で〜す」
茶髪の女店員が現れた時、他与太と直子は女店員を同時に見て互いに目を合わせた。申し合わせたように2人は頷きあった後、恥ずかしそうに女店員にライン交換のやり方を聞いた。
茶髪の女店員は、はにかんだ笑顔でそれに応じた。
居酒屋を出た他与太と直子は、街の風景が一変している事に気付いた。いつもの街並み。いつもの 喧騒。いつもの夜空。 代わり映えしない筈のその光景が、確実にその姿を変化させていた。
それは想いを伝えた相手と一緒に見る景色だからと自覚するまで、それ程時間はかからなかった。
他与太が厚い雲で覆われた夜空を見あげているのに倣い、直子も顔を上げる。
「他与太さん。夜空に何か見えますか?」
「はい。夜空に願い事をしていました。直子さんとずっと一緒にいられますようにって」
「······嬉しいな。でも、雲が厚すぎて空の向こうへ願いが届かないかもですね」
「確かにそうですね。梅雨の時期だし、こればっかりは仕方ないですね」
「······梅雨が明けたら。夏になったら。青い空に向かって私も願い事をします。他与太さんとずっと一緒にいられますようにって」
「······嬉しいです。直子さん。でも、日差しが強すぎて空を見あげられるかな?」
「それもそうですね。眩しくて難しいかもですね」
「眩しくないように俺が隣で日傘を差します。直子さん」
「······はい。その時はよろしくお願いします。他与太さん」
溢れる言葉は尽きること無く、時間の有限さを他与太と直子はこの時疎ましくさえ思っていた。いつもより優しく感じる週末の夜の街を並んで歩きながら、不器用な2人は互いに手を繋ぐ機会を伺っていた。
慎重に。そしていつもの妄想を膨らませながら。




