第五節 親愛なるものへ ①
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――あの日、五番戦線のジェボン街にいた俺たちが、寂れた宿屋を目にしてから、持ち主の所在を聞いて、十番戦線にすっ飛んでくるまでは早かった。
ここは、やがて俺たちの帰る場所になる。
そう思えたんだ。
ぼけーっとしてたが、レイザーも同じ気持ちだったんじゃないか? 最近拾ったミナコも、多分、同様に、だ。
……そんな三人で何ができるんだって?
これからだろ。何をやるにしても、形から入るんだ。そうすれば、いつしか本当にそうなってるんだからな。
だが、その形のとっかかり――家の譲渡交渉は、ここ十番戦線での数回に渡る話し合いを経ても、こじれ具合が極まっている。
お相手方は、これ以上金額を下げる気はないらしい。莫大とまでは言わないが、まあ、気軽に払える額ではないわな。
――さて。
現実なんて、そんなもんだよな。
……ああ。わかってたことだ。
「――ほらよ」
そう言って、ヴァンは紙をすっとテーブルに置いた。
軽食を出すドリンク屋の店先に、いくつかの簡素なテーブルが並べられている。
「潰れた宿屋にしては、ずいぶん気取った値段だろ? もう少し進めてみるが……無理だろうな」
「……へぇ……?」
ドレイザーは、余りある袖の奥から、ゆっくりと手を伸ばし、紙を持ち上げた。
「…………」
――金額が書かれているだけなのに、いささか長すぎる彼のその凝視は、ヴァンの黙っておれない、せっかちな性分を刺激した。
「……ったくよ。失敗させといて、何であんな強気になれるんだろうか。気になって仕方がねえよ……」
ヴァンは、なおも沈黙するドレイザーを一瞥した。
「……なあ、聞いていいか?
ここへ真っ直ぐ歩いてくる間、あんたを見てたけどな、全く動いてなかったぞ。
冗談かと思ったぐらいに。
今、どこにいるんだ?
食べるもの買ったんならな、ありがたく食べとけよ。
あと、交渉の場に来る気が無いんなら、ミナコとここで待ってろって言わなかったか? あいつをどこへ放流したんだよ?」
返事はない。
しばらくして、ドレイザーは、ふっと笑った。
紙から目を離し、眩しそうに目をしばたかせながら、ヴァンを見上げた。
「ようやく分かったんだ、ヴァン。君の小言と、どう添い遂げていくか――それは僕の一生の課題になりそうだってね。
ゆえに、どう立ち向かっていくかを考えていたところさ。
……ミナコについては、放流というより、解き放った、かな。彼女は、彼女なりに交渉の準備を進めようとしているらしい。
独自の解釈で、アクセサリー屋へ向かったんだ。キラキラしているものが好きなんだって。
君の指示と、彼女の哲学と自主性が生んだ結果なんだ、これは」
「……ほお」
にやっと、口角を上げたヴァンは、ドレイザーの対面の椅子に、どかっと腰をおろした。受けて立つぞ、という気概をありありと見せて。
「こんな魔境の入り口で、あのチビに何かあったとして、自分に責任は無いとおっしゃる。
……まず、添い遂げるのか、立ち向かうのか、はっきりさせとくか?」
その言葉に、ドレイザーは、笑いながら首をふると、わざとらしく体をのけぞらせて、両手を掲げた。
「……分かっていると思うけど、心配はいらないよ。見ているからね。もしミナコに何かあったら、二秒で駆けつける……いや、三秒は欲しいところかな」
「……心配なんかしてやしねーよ……。あいつは新天地をひとりで放浪してたんだぞ?」頬杖をついたヴァンは、通りを眺めた。
その横顔は、行き交う戦士たちの中に、小さな影を探しているようにも見えた。
ヴァンが視線を戻した時、ドレイザーは微笑んでいた。
それは、これから、彼が――彼らが幾度となく目にすることになる、静かな笑みだった。
「君は、優しくて、いいやつなんだ、ヴァン。そのことは知ってたかい?」
「……あぁ?」
ヴァンの追撃を警戒してか、ドレイザーはすぐさま言葉を継いだ。
「さっき黙っていたのはだね、お金のない僕がだよ? よし、これで行こう、なんて言おうものなら、色々と可笑しいじゃないか」
ヴァンは鼻で笑い、
「……一理あるな。我らが英雄様が、山ひとつでも狩ってくれればなあ」
ドレイザーは、空を仰ぎながら、「……そうだねえ」
ぽつりと、そうつぶやいた。
「とりあえず、このまま進めるからな?」
ドレイザーは、また微笑んだ。
「ああ、そうするといい。
これでも僕は、君の、戦線に、自分なりの居場所をつくりたいという夢に、全面的に賛同しているんだ。
きっと上手く行くよ。
だから君は、お金以外の支援なら、あてにしてくれていい。
どれほど遠く離れていようとも、必ず戻ってくるからね」
――その時、ヴァンは立ち上がった。
身を乗り出して、ドレイザーの腕をがっしりと掴んだ。
ドレイザーの言葉に感動したわけではない。ある気配を察知したのだ。
「おい、レイザーよ……
いま感動の言葉を述べて、颯爽と、どこに飛び立とうとしたんだ? 行くあてもねえのによ……」
ドレイザーは、笑った。
「……負けたよ、ヴァン。……負けたよ、完全に」
「ここ一番の残念な顔するんじゃねえや! このボケが!」
「――ところで、交渉している方に会いに行ったとき、そこで働いている女の子がいただろう? 桃色の髪の?」と、ドレイザーは言った。ようやく、軽食に口をつけていた。
「ああ……とんでもない美女か。あの夫婦の娘だな。さっき行った時も忙しなく動いてた」
ヴァンの動きが止まった。次の瞬間、彼が浮かべた表情は、そういった話が、ドレイザーの口から出たことに対して、嬉しくてたまらない――といったものだった。
「……俺の記憶が正しければ、あんたがあの美少女を見たのは一度きりだ。
……そうだったんだな。
興味ねえと思ってたが、
これまでは、目にかなう女性がいなかった、ただそれだけだったんだな」
ヴァンは一呼吸置いて、
「いや、まず自分の年齢考えろ! アホか!」
「何を言ってるんだか、僕にはさっぱり分からないけどもね。
――あの子は、強いよ」
「……」ヴァンは、沈黙する。
「……まさか、雇うとか、そういう話か?」
「はは。話が早くてすむよ。
今の男ふたりじゃ、ミナコの相手が務まらないところもあるだろうしね。
……ただね、ひとつ言わせてもらうなら、僕たちのやろうとしていることを考えると、雇うではないはずだよ」
ドレイザーは、首をかしげた。「……なかま?」
ヴァンは、テーブルの一点を見つめたまま、なにやら考え込んでいる。
「……確かに、人目を引くタイプではあるのか。あれは、顔だけの話ではないよな」
「そこなんだ、ヴァン」
そう言ったドレイザーは、わずかに身を乗り出して、にっこりと笑った。
「僕が惹かれるという意味で、君と彼女は似ているんだ」
「ウゲッ――!」
言葉にならない叫びを上げたヴァンは、急ぎ周りを見回した。
誰にも聞かれていないことを確認すると、安堵の息をついた。
ヴァンは首をふって、ドレイザーの言葉の余韻を払った。
「……じゃあ、どうぞ」ヴァンは宿屋の方へ手をひらりと差し向けた。
「……ふむ、そう来たか」
「さあ。頼んだ」ヴァンは、ドレイザーを見据える。
「……緊張してしまうから……」
ヴァンはにんまりと笑みを浮かべて、
「いつか、ぶっ飛ばす」
「くれぐれも気をつけて、待っているよ。
……じゃあ、良ければ、彼女に伝えてほしいことがあるんだ――」
二言、三言、言葉を交わしたあと――
ヴァンは――本日二回目である――宿屋へ向かった。




