●第五十九話 その黒髪の少年の名は
アストラルツリー内で一般客が立ち入り可能の最上階外周に位置する『宇宙展望台』。
大気圏外にある最高ターミナル内に配置されているそのホールは、過度な紫外線などを遮光する特殊ガラスが三百六十度の壁を形成している。最大収容人数は2000人。すでに重力の縛りは薄く、自由自在に壁を飛び移ることもできるのだ。
そんな広い広い空間のほぼ無重力を利用して、一人の少女が漂っていた。
天皇桜。
彼女は今、理由は知らないが『神山』ではなく『天皇桜』の意識を残されたまま、このホールに閉じ込められていた。
栗色の髪。小さな体。蒼い瞳。
髪の色は隔世遺伝なのでともかく、それ以外は姉、波瑠にそっくりだとよく言われた。
本来ならば愛くるしい笑みを振りまけるその顔は不安と陰りを映し、その瞳は虚ろに、輝く星々を眺めていた。
首にまかれた黒いチョーカーに、小さな手がそっと触れる。
このチョーカーは、桜と【神山システム】を接続・制御するための遠隔装置だ。脊髄の神経に直接繋げられたチョーカーのスイッチがオンとなることで、桜の身体制御は【神山システム】に強制的に委ねられ、『神山桜』となってしまう。
いわば、二重人格を切り替えるスイッチだ。
今日はそのスイッチが、なぜか一度も作動されていない。
桜はその理由を知っていた。
今日が、『天皇桜』の意識を保てる最後の日だからだ。
彼女の脳と【神山システム】が演算し、割り出した《神上の力》計画が執行されるのは今日付け。桜の身は、この計画によって世界を災厄へ誘う力へ昇華される。『天皇桜』が抹消され、『神山桜』が神となる。その前の猶予時間。
仕方ないことだよね、と桜は割り切っていた。
七月二十一日、桜は実の姉、波瑠の《神上の力》化の現場に――『神山桜』状態で立ち会っていたのだ。そもそも波瑠を《神上の力》化させる計画を練ったのは【神山システム】だし、計画失敗後の事後処理のほとんどを『神山桜』が行なっていた。
そんな『自分』が抹消されるのは当然の報いだと思っている。
大好きな姉に向ける顔がない。
大好きな姉を傷つけた『自分』が許せない。
自分の無力が悔しい。
自分にもう少し力があれば――【神山システム】に意識を支配されないほど《雷桜》を使いこなせていれば、こんな悲劇は起こらなかったはず。
だけど、いくら悔やんでも、現実が覆ることはなかった。
姉と別れて五年。
奇跡が起こるのを待ち続けた。
奇跡は起こらなかった。
どころか世界は自分たち姉妹を、さらに深い暗闇へと引きずりこんでいく。
《神上の光》が姉を縛った五年間。
三年前――『神山桜』状態でやらされた天皇波瑠捕獲の任務と。
その時の、狂気に堕ちた姉の表情。
自分がお姉ちゃんっ子であることは理解している。
その生涯で桜の側にずっと一緒にいてくれたのは、波瑠だけなのだ。
あの蒼髪にもう一度触れたい。
優しく抱きしめてもらいたい。
誰よりも素敵な笑顔を、監視カメラや衛星越しの映像ではなく、自分の側で、触れ合える距離で見たい――
「…………」
桜は、自分で自分の華奢な体を抱きしめる。
一度すぅ、と深く息を吸い。
「佑真さん。お姉ちゃん、今どのあたりにいると思いますか?」
このホールにいる部外者に、声をかけた。
「さあなあ。案外、もうアストラルツリーのふもとまで来ていたりしてな」
お気楽な声が返ってくる。
赤いパーカーの上に黒のウインドブレーカーを重ね着。夜空のように美しい黒髪。少し瞳は鋭く、背が高く、顔立ちは少年らしさを残しながら、凛々しく整っている。
彼のことは、姉の動きを調べる過程で自然と知ることができた。なにより七月二十一日の決戦、あの場に一応立ち会っていた桜は、佑真の強い意思と二種の《零能力》を生で見た。
密かに会ってみたいと思っていた人といざ対面してみると――それはもう。
気さくで、親しみやすくて、好意しか抱けなかった。
そんな少年は宇宙を興味深げに見据えたまま、
「今のアストラルツリー内部の警備状況を考えると、桜のトコまでたどり着くのはあと三十分かそこらじゃねえか? すっげー量の警備ロボットだったけど、波瑠は強いから」
「それを突破するために、本来なら訓練を受けなきゃ乗れないはずの『十分で宇宙まで連れて行く一人乗り宇宙エレベーター』で上がってきた佑真さんは豪快ですよね……いえ、このフロアにたどり着いた瞬間Gに耐えられなくてゲロってましたけど」
桜が嫌そうに向けた視線の先には嘔吐物がふわふわと以下略。
「おう、でも強引な突破はそれだけじゃないぜ。【メガフロート】地区へ続く道路も全部封鎖されていたから海上を伝って不法侵入して来たし、路上じゃロボットみたいなのと能力者がバトってたからそれに巻き込まれないよう避けてきたし、最終的には戦車を時速300キロのド派手走行で振り切ったからな!」
「決まり顔の場面じゃないですよ。下手したら殺されてます……」
「ま、エアバイク二号はその代わり、弾頭で爆発されておじゃんになっちったけど……あいつはこの四ヶ月間、むしろよく頑張ってくれたぜ」
今までありがとよ、と手と手を合わせて拝みだす佑真。呆れて愛想笑いしか出ない桜。
この人が、ずっと会いたかった『零能力者』なのだから、複雑だ。
超能力者でも無傷で乗り切るのが難しい激戦地区と化した【メガフロート】地区を、この零能力者は危険を顧みずに単身で乗り込み、目的地――桜の下まで現れたのだ。
それも、波瑠よりも圧倒的に早く。
正気ではないと思う。
実際、本人も自身の行動を正気ではないと自覚しているらしい。
それでも尚、彼がここまでやってきた理由は、大まかに二つ。
【神山システム】から桜を助け出し。
自ら地獄へ戻ってしまった波瑠とともに三人、普通の日常へ戻る。
そのためだけに、危険の中へ自ら飛び込んできた。
その二つを知るまでに、彼には多数の障害があったそうだ。
一般学生ゆえの情報量の少なさ。知識の少なさ。
零能力者という根本のハンデ。
移動手段はエアバイクのみ。
直立戦車をはじめ『兵器』への対抗策は一切なし。
死に対するリスクの大きさ。
彼はこれら障害を、他者の協力を得て乗り越えた。
情報不足はステファノ・マケービワという知り合いに助けてもらい――最終的には、【神山システム】が演算した二種の神上計画まで知った。
零能力者ゆえの戦力のハンデはキャリバン・ハーシェルという少女の助けを借り――アストラルツリーにたどり着く手前まで、徹底的に戦闘を避けてこられたのは彼女の偵察のおかげだ。
そんな彼を送り出したのは『寮長』という相性で親しまれているらしい女性。約束を破ることを謝罪した上で、彼女は波瑠と桜を取り巻く五年前の因縁を佑真に語り継いだそうだ。
これら協力を得るまで、彼は何回頭を下げたのだろう。
波瑠と桜を助けたい――そんな、佑真の自分勝手な『お願い』を聞いて、協力者たちは何を感じ、どういったキッカケで『手伝ってやろう』と思ったのだろう。
そして、そんな彼を。
単身で乗り込んできた、と表現するのは果たして適切なのだろうか?
(お姉ちゃんのときも、こんな感じだったのかなぁ……)
頑なに真っ直ぐで。一言も『助けて』なんて言ってないけれど、助けを必要としている自分たち姉妹のために頑張っている。
100パーセント他人に尽くせる人。
零能力者という勘定を入れたとしても――そんな真っ直ぐな人に好意を向けない人はいない。
【神山システム】の力を借りて彼の過去を調べたこともある。記憶喪失、不良時代。彼もまた、数多くの困難を乗り越え、友達と優しい教師に囲まれた普通の学生生活を送っている。
彼は絶望の中で、人の持つ優しさを知った。
だから、辛かったり困っていたり、立ち止まっていたりする他者を見かけると、前へ進む勇気を与えたくなるんだと思う。
たとえ、その人に降り注ぐ不幸が、どれだけ大きなものであろうと。
彼は大きさというちっぽけな問題から目を逸らし、手を差しのべる。
波瑠を救い出した――あの時のように。
桜の前に現れてくれた――今のように。
「……」
桜は手を胸元に添える。心臓の拍音を確かめる。
「佑真さん」
呼びかけると、佑真はすっかり伸びきった夜空の黒髪をなびかせ、振り返った。
桜はもう一度だけ、確かめることにした。
「本当に――天皇劫一籠の計画を止め、わたしを助けるつもりですか?」
「ああ、本当だ」
力強い首肯を返される。
鋭い眼光を宿した視線が――桜のサファイアカラーの瞳を捉えた。桜は視線を逸らせない。佑真から視線を逸らしてはいけない、という錯覚に襲われている。
「集結の493人分の波動徴税による《神上》計画ってのも、桜と【神山システム】を使った《神上》計画も全部、誰かが悲しむことになる。桜や波瑠が悲しむことになる。その計画を知っちまったのに、黙って見逃すわけにはいかないよ」
無茶苦茶だ。
「そりゃ、集結のほうはもう手遅れかもしれない。すでに480人以上が殺害され、計画は今日が大詰めだ。もっと早く知ることができれば、救えた命があったかもしれない……そう考えると、のうのうと生きていた自分が許せない。だからこそ集結は絶対に潰す。波瑠を殺させないためにも、オレ自身の手でぶっ潰す」
集結は頂点の超能力者だ。
大量の殺人を――彼は、起こってから知ったはずなのに。
当事者じゃないはずなのに、ここまで怒りを露わにできる理由は何?
「それともちろん、桜のほうもだ。ぶっちゃけオレは【神山システム】をどうすりゃいいかなんて知らないが、お前には頼りになる姉ちゃんがいる。波瑠は頭いいから、きっとお前をなんとかしてくれるよ。大丈夫、波瑠が暴走しそうになったらオレが止めるし、お前が波瑠を攻撃しようとしても、オレが必ず波瑠を守ってみせるから」
どうして――。
どうして、あなたは希望を信じられるの?
あなたは零能力者じゃないの?
あふれ出して止まらない疑問の渦を、桜は一言で解決させた。
彼が天堂佑真だからだ。
他の理由なんて、一つも彼には必要ない。
ただ目の前にいる人を助けることに、そもそも理由は必要ないんだ。
「だから桜、もう少しだけ待っててくれ」
ぽん、と佑真の大きな手が、桜の頭に乗せられる。
大好きな姉と波長が似ている。雰囲気が、空気が似ている。
自分の弱さをさらけ出しても受け止めてくれそうな優しさが、二人はそっくりだ。
「全部終わったら一緒に帰って、波瑠のカレーでも食おうぜ。あのすっげえ美味いやつ」
「うん」
「波瑠の昔のこと、オレ、あんまり知らないからさ。いろいろ教えてくれよ」
「もちろん。わたしほどお姉ちゃんを語れる人はいませんから」
「おー、頼もしいね。あとは――お前とも、仲良くなりたいかな」
「そうですね……じゃあ、お姉ちゃんを守り抜いてくれたら、仲良くしてあげます」
「はっ、そうきましたか。じゃ、約束だな」
佑真はすっと、拳を突き出す。
その意味をすぐに理解した桜は、同じく拳を突き出し、佑真のとコツンとぶつけた。
「お前も波瑠も絶対に助けるよ。一緒にオレん家まで連れて帰ってやる」
「もし約束を破ったら?」
「ハッ、愚問だな。生憎だが、オレは約束を達成するまで諦めないんでね。つーか、超能力も使えないクズのオレにだって、信念の一つくらいあるんだよ」
諦めが悪いことだけが取り柄だぜ、と口角を上げる佑真。
それって長所なの? と笑みを零す桜。
「一つ下のターミナルが、最後の『実験場』でいいんだよな?」
「うん。そこに今、No.2のお姉ちゃんを退けるためだけに――さっき教えた人たちがいます。計画が演算通りに進んでいれば、佑真さんはぴったりのタイミングでたどり着くから、たぶん即戦闘だと思います」
「マジかよ――ま、ここまで来たらやるっきゃないか」
最後に、【神山システム】と当事者のみが知る情報が、桜の口より直接佑真へ伝達される。
このやり取りが、【神山システム】の演算結果に初の番狂わせをもたらすこととなる。
「じゃあな桜。またあとで」
「うん。またあとで」
零能力者がエレベーターに乗り込む。
桜のチョーカーが音を鳴らしたのは、直後のことだった。




