抱きしめる
しばらく過去の話が続きましたが、今回からまた現在に戻ります。
第12話「観念」の続きになります。
何年もの眠りから覚めたような、不思議な満足感を抱いていた。
外はまだ薄暗くて、時計を見ると、5時間ほどしか眠っていない。
なのに、心も体も、まるでまだ夢の中のふわふわした世界にいるみたいに、軽かった。
起き上がって薄いレースのカーテンを弛ませると、遠くの方で太陽が起き上がろうとしている姿が見えた。
おいしいコーヒーを出してくれると評判の喫茶店の主人が、注文されてから豆をミルにかけてじっくりと挽くみたいに。
私がカーテンを開けるのを待ちわびていた太陽は、その丸いボディをゆっくりと空に広げていった。
“夜明けの儀式”をぼーっと眺めたあと、陽に映し出された私は、自分が裸同然の格好でそこに立っていたのに気づいた。
はっとしてベッドを振り返ると。
そこに、岬さんの姿はなかった。
ベッドの脇に脱ぎ捨てられた柔らかいフリースの上下を拾い上げて、またそれを着た。
そして再びベッドにもぐり込むと、岬さんの纏っていた香りがした。
それはヒマワリの油を少しだけ含んだ、男の人のにおいだった。
ヒマワリの心地よい束縛に包まれながら、私は布団の中でうずくまった。
こうしていると、まだ幼かったころの自分を思い出す。
あのころ私はいつもうずくまって、そのうち自然と眠るようになるのを、じっと待っていた。
今みたいに、誰かの香りに包まれることもなく。さっきまでのように、誰かが側で抱いていてくれることもなく。
眠りにつくまでのあいだ、布団の中に孤独を招いていた。
何百匹にもなった羊たちは、孤独を埋めてはくれずに。
頭の中でメエメエとうるさく叫び続けては、いつからか、私の眠りを阻止する敵にまでなっていた。
しばらくの眠りのあと、私はベッドから起き上がり、寝室を出た。岬さんの残り香は、はじめからなにもなかったように消えてしまっていた。
10時だった。すっかり太陽は熱を帯びていて、まだ午前中だというのに、とても暑い。
ピアノの上には、6度目のヒマワリと小さなメモが置いてあった。
「今、4時です。もうすぐ外は明るくなってきます。そのまえに僕は帰ります。気づきましたか? ヒマワリがまた新しくなっているのを。次もまたヒマワリです。8月も半ばに入って、もう真夏日といってもいいくらいですね。だから、やっぱりヒマワリです。それでは、また。 岬」
それは、とても丁寧な字で書かれていた。
もう一度ヒマワリに目をやると、みずみずしくて、きれいすぎて。
その姿も香りも、昨夜、全身で私を包んでくれた、岬さんそのものを表しているようだった。
* * *
「私は・・・・・・」
姉が帰ったあとの、岬さんの追及。
もう隠してはいられない、と、ついに観念した私は、頭の中を駆け巡っていく過去の記憶を掴まえて、彼にすべてを話そうと、そう思った。
けれど、急に、分からなくなった。
なにを話せばいい?
なにを話さなければいけない?
というよりも、このひとはなんの関係もないじゃない。
そして私は、そのあとに続く言葉を迷って、結局やめた。
途中まで言いかけたままの口は、それから動くこともなく、ゆっくりと閉じられた。
岬さんは、無理に聞こうとしなかった。
そのかわりに、有無を言わさないような強い力で、私を強く抱きしめた。
そのあとは、そうすることが自然だったかのように、2人は抱き合ったのだ。
岬さんは初めて私の寝室に入った。
私は初めて、男のひとに抱かれた。
2人ともなんのためらいもなく。
そうすることが運命だったと思えるくらいに。
お互いの息づかいしか聞こえない空間の中で、同じ時間を、初めて共有したのだった。