いたずら
ゆるく傾斜がかった芝生の丘に寝転んだまま、ゆっくりと目を開けると、目の前には男の子が立っていた。
柔らかい笑顔の後ろには、桜が咲いていた。
まるでそれは、彼のものであるかのように。
「似合っている」という言葉だけでは足りないくらいに、きれいに咲いていた。
桜の精霊みたい、と思った。同時に私の心の中では、彼を表す音色がいくつも弾かれていた。
タイトルは「春の使者」。
そんなふうに勝手にイメージを膨らませている間、私はずっと彼に見惚れていた。
「浅羽望さん。いつもここにいるんですか?」
そんな彼の言葉によって現実に戻されてしまい、私は少し不機嫌になった。
「・・・・・・だれ?」
そう聞くと、彼はにっこりと笑って
「新入生です」
とだけ言った。
なぜ、名前も知らない男の子が、私の隣で気持ちよさそうに寝転んでいるのだろう。
目を閉じて思いきり太陽を浴びている彼を、私は横目で盗み見た。
すると、顔ごとこっちに向けた彼と目が合った。
「気持ちいいですね、ここ」
彼はそう言って、「んん〜」と声を上げながら伸びをした。
「いいとこ知っちゃったな。俺もこれからはここでサボろっと」
と、いたずらな少年のようにニカッと歯を出して笑った。
「新入生がサボるなんて、なに考えてるの」
と私は言った。
「浅羽さんだって、1年のときからサボってたって先生から聞きましたよ」
どうせあのカマキリ女でしょう、と小さく舌打ちをした。
あの人は、本当にくだらないことばかり言っている。全校の前では褒めておいて、直後に新入生にそんなことをネチネチ言うなんて、バカらしくてしょうがない。
私は1年前に感じた“ハラワタが煮えたぎる思い”を、再びカマキリ女によって取り戻させていただいた。
「私のは理由があるからいいの」
私は心の中にあるお湯が沸騰しているのを、素早く火を消して落ち着きを取り戻した。
けれど、冷ます時間がなかった。
言葉に少しの怒りが生じていたようで、彼はそれ何も以上言わなかった。
お湯が、完全に冷めたころ。
「浅羽さん!第1音楽室に戻りなさい」
と、カマキリ女が湧いて出てきた。
お湯が冷めてなかったら。少しでも熱を持っていたら。
彼女に皮肉の言葉でもかけてあげるのに。
私がうっとおしそうにのろのろと立ち上がると、カマキリ女の目には背後にいた彼の姿が映った。
「あら? あなたは確かピアノ科1年の・・・・・・」
カマキリ女の言葉を遮って、彼はすくっと立ち上がった。
「はい。偶然廊下から浅羽さんを見つけたんで、押しかけちゃいました」
そう言って、その場で怒りを露わにしているカマキリ女を「はいはい、授業のあとで聞きますから。早く行かないと授業の時間なくなっちゃいますよ」となだめて、うまく教室へと誘導していった。
彼がカマキリ女の背中をグイグイ押して行って、私はゆっくりとそのあとに続いた。
校舎に入ると、2人は第3音楽室のほうへと向かい、私はひとり、反対にある第1音楽室へと足を向けた。
「浅羽さん」
振り向くと、彼はカマキリ女だけを教室に押し込めていた。
「浅羽さん、またね。俺のこと、覚えておいて。俺の名前は、」
彼は最後に声を消して、私に口の動きだけを伝えた。
私は彼の口元を真似して、声に出した。
「こ」
「う」
――洸。
彼はまた、あのいたずらな少年の笑顔をしてみせた。
そのときは、その笑顔の意味を私は知る由もなく。
いや、そこに意味はなかったとしても。
彼はのちに、私にいたずらをひとつ、残していく。
それに私がようやく気づくのは、5年もあとのことだったりする。




