今日は食べるだけですわ
翌朝、屋敷の玄関にはいつもより少し多くの人が集まっていた。
護衛が二人。
ノアン。
マルタ。
もう一人の侍女。
そしてセラフィーナ。
市場へ出る人数としては珍しくない。
ただ、ノアンが帳簿を持っていなかった。
マルタも買い付け予定を書いた紙を持っていない。
護衛の一人が携えているのも、普段通りの武器だけだった。
セラフィーナは全員を見回す。
「では参りましょうか」
ノアンが確認するように尋ねた。
「本当に、何も持たなくてよろしいのですか?」
「お財布は必要ですわね」
「そういう意味ではなく」
「分かっておりますわ」
セラフィーナは微笑んだ。
「今日は何も調べません」
昨日、魔術秤を調べた帰りに口にしたことを、使用人たちは半分ほど信じていなかったらしい。
ノアンに至っては、朝になれば気が変わって帳簿を持たされると思っていたようだった。
「市場へ行かれるのに?」
「市場へは買い物と食事のために行ってもよろしいでしょう?」
「もちろんです」
「でしたら、そういたします」
言い切って外へ出ると、後ろで侍女が小さく息を吐く音がした。
安心したのかもしれない。
ここ数日、同行した者たちもよく働いていた。
セラフィーナが一つ気づけば、ノアンが記録を取り、市場へ確認へ走り、侍女たちは屋敷側の予定を組み直す。
護衛も市場、倉庫、役所と移動が増えた。
マルタもグランデルへ入ってから、侍女としての仕事に加えて新しい土地の生活へ馴染まなければならない。
誰も不満は言わなかった。
だからといって、休ませなくてよい理由にはならない。
人間は壊れるまで使えば高くつく。
その理屈はレグリエにいた頃から変わらない。
ただ今日は、それだけでもなかった。
屋敷から市場までの道には、普段より多くの人がいた。
通りの上には色鮮やかな布が渡されている。
建物の軒先には小さな旗。
市場へ近づくにつれて、焼いた肉と香辛料、甘い菓子、果物を煮た匂いが重なっていった。
定期市の日である。
毎日開いている常設の店に加えて、周辺の村や別の地区からも露店が出る。
昨日の帰路で準備だけ見たが、実際に始まると印象はかなり違った。
「随分、人が多いのですね」
侍女が言う。
「昨日までは荷物の方が多く見えましたのに」
「今日は人を相手にする店が増えておりますもの」
答えたところで、ノアンがセラフィーナを見る。
「今のは調査でしょうか」
「会話ですわ」
「失礼いたしました」
少しだけ口元を緩めながら言うので、本気で謝っているわけではない。
セラフィーナは咎めなかった。
その程度の冗談を言えるようになったのなら、むしろよい。
彼らは祖国を捨てたわけではない。
セラフィーナについてきた。
その結果として、家族や知人の多くをレグリエへ残し、知らない国で暮らし始めている。
セラフィーナ自身が選んだ国外退去ではない以上、彼らにとっても望んだ形の転居ではなかった。
それでも今朝、市場へ向かう侍女の足は少し軽かった。
護衛の一人も、露店の看板を普段よりよく見ている。
そうした変化は悪くない。
市場へ入って最初に足を止めたのはマルタだった。
串に刺した肉を焼く露店である。
炭火の上から脂が落ちるたびに炎が上がり、香辛料を混ぜた煙が通りへ流れている。
マルタはほんの一瞬だけ店を見て、そのまま歩こうとした。
セラフィーナは声をかけた。
「食べたいのですか?」
「いえ」
早い。
「そう」
「……少しだけ興味はあります」
「でしたら食べましょう」
マルタが困った顔をする。
「皆でですか?」
「一人で五本召し上がりたいのでしたら止めませんけれど」
護衛の一人が咳払いをした。
笑いを堪えたらしい。
マルタは耳を少し赤くして、
「一本で十分です」
と答えた。
店主へ人数分を頼む。
肉は薄く切られ、間に香りの強い野菜が挟まれていた。
表面には甘辛いソースが塗られている。
セラフィーナが代金を払おうとすると、店主が一瞬だけ彼女の衣服と護衛を見た。
高位貴族だとは分かっても、具体的に誰かまでは知らないようだった。
「辛いのは平気ですか、お嬢さん」
「どれほどですの?」
「この辺の人間なら普通です」
答えになっていない。
しかし、それが可笑しかった。
「では普通で」
店主が笑って串を渡す。
食べてみる。
最初に甘みが来た。
その後から香辛料の辛さが追いかけてくる。
レグリエで使うものより、少し土っぽい香りが強い。
ただ辛いだけではなく、脂の多い肉とよく合っていた。
「いかがですか?」
マルタが聞く。
セラフィーナは一口分を飲み込んでから答えた。
「美味しいですわね」
「それだけですか?」
ノアンだった。
「何を期待していらっしゃるの?」
「香辛料の流通経路や原価のお話を」
「いたしません」
「本当に?」
「本当に」
今度は護衛も隠さず笑った。
セラフィーナも少し笑う。
追放されてから、こんな会話をした記憶はあまりなかった。
レグリエを出るまでの三日間は、別れと書類と荷造りで埋まっていた。
グランデルへ来てからは、監察条件、両替、市場、計量、物流、魔術秤。
何もしていない日がない。
だからこそ、食べ物を食べて、
美味しい。
で終わらせることが、思ったより新鮮だった。
二つ目の店では、平たい生地に柔らかいチーズと香草を載せて焼いたものを買った。
三つ目では、小さな果実を蜜で煮て冷ました菓子。
マルタは甘いものの方が好みらしい。
侍女は最初の肉串が気に入ったらしく、別の店でも似たものを買っていた。
護衛の一人は、濃い色の飲み物を試して顔をしかめた。
「苦い」
もう一人が受け取る。
「どれ」
一口飲み、
「本当に苦いな」
と返した。
店主が呆れた顔をする。
「そりゃ苦い飲み物なんだから当たり前だろう」
「なぜ売れているんだ?」
「苦いのがいいんだよ」
「分からんな」
「じゃあ飲むなよ」
至極もっともだった。
セラフィーナは聞きながら、また笑った。
ふと気づく。
この者たちが、自分の前でここまで気軽に土地の者と話しているのを初めて見た。
レグリエでは当然だった。
顔馴染みの商人。
いつもの使用人仲間。
知っている店。
行きつけの道。
そういうものが最初からあった。
ここでは何もない。
だから、一つずつ作るしかない。
それはセラフィーナだけではなく、同行した全員にとって同じだった。
通りを進むうち、見覚えのある紙が視界の端へ入った。
穀物を扱う露店ではない。
乾燥豆を並べる商人の卓上に、商品の価格と数量を書いた札がある。
その下に、小さくもう一つ数字が添えられていた。
比較重量。
昨日まで市場で試していた形式とよく似ている。
ノアンも気づいたらしい。
「セラフィーナ様、あれ――」
セラフィーナは先に首を振った。
「今日は見ません」
「でも」
「気になります?」
「かなり」
「では明日ご覧なさい」
ノアンが名残惜しそうに振り返る。
セラフィーナ自身も少し気になった。
誰が使い始めたのか。
昨日の商会と関係があるのか。
豆でも本当に重量比較が適切なのか。
エティエンヌが見たら何と言うか。
確認したいことはいくつも浮かぶ。
だが、今ここで立ち止まらなくても明日も市場はある。
緊急性はない。
それなら、今日は食べるだけでよい。
見つけたものを全部、その場で解かなければ気が済まないわけではない。
必要な時まで置いておくこともできる。
「……セラフィーナ?」
聞き覚えのある声だった。
振り向く。
レオナールがいた。
昨日までの倉庫で見た服装より少し軽い。
それでも完全な私服ではなく、護衛らしい男が二人離れてついている。
市場役や役人の姿はない。
「レオナール様」
「何をしている?」
「見てお分かりになりません?」
セラフィーナは手に持った焼き菓子を少し持ち上げた。
レオナールがそれを見る。
次にセラフィーナの後ろにいる一行を見る。
全員、何かしら食べ物を持っている。
「……食ってるな」
「ええ」
「今日は市場の調査じゃないのか」
ノアンが、待っていましたと言わんばかりの顔をした。
セラフィーナはその視線に気づきながら答える。
「今日は何も調べませんわ」
レオナールの顔に、明らかな疑いが浮かんだ。
「本当に?」
「皆様、随分わたくしを何だと思っていらっしゃるのかしら」
「入国してから、両替商を見て、袋を量って、市場制度を調べて、荷車を埋めて、昨日は魔術秤を開けていた女」
「開けたのは技師様ですわ」
「そこだけ訂正するのか」
マルタが俯いた。
肩が僅かに動いている。
笑っている。
セラフィーナは仕方なく認めた。
「では訂正いたします。美味しいものがあるかどうかは調べておりますわ」
レオナールが一拍置いて笑った。
「それは調査なのか?」
「重要な確認ですわね」
「何が分かる」
「今のところ、串焼きは美味しかったです」
「それだけ?」
「それだけです」
レオナールはまた笑った。
これまで彼がセラフィーナを見る時には、必ずどこかに警戒があった。
今も消えたわけではない。
外国から来た政治的問題を抱える公爵令嬢。
その認識は変わっていないはずだ。
ただ、今の笑いは政治家のものではなかった。
そのことをセラフィーナは記憶した。
だからといって何か意味を決める必要はない。
「レオナール様は?」
「見回り半分、私用半分だな」
「お仕事ではございませんか」
「お前よりは休んでる」
「今日はわたくしも休んでおります」
「その言葉を聞いたのは初めてだ」
「知り合って何日ですの?」
「十分濃かった」
否定しにくかった。
レオナールは通りの奥を示した。
「甘いものまで食べるなら、あっちへ行った方がいい」
「おすすめですの?」
「俺が食べるわけじゃない」
「では、どなたのおすすめ?」
「うちの兵たち」
少し意外だった。
辺境伯家の後継者が、市場の菓子について兵の評判を知っている。
セラフィーナがそう思ったことが顔へ出たのか、レオナールが言った。
「何だ」
「いいえ。よくご存じですのね」
「この辺で勤務する人間がどこで飯を食ってるかくらいは知ってる」
「お安いから?」
「安い。量がある。あと店の婆さんが、金のない若い兵に時々一つ余計に渡す」
セラフィーナは少し視線を止めた。
今の話だけなら、店を覚えている理由は十分だった。
兵の食事は勤務へ影響する。
若い兵の懐事情も、領地を預かる側には無関係ではない。
ただ、レオナールの口調は制度を説明するものではなかった。
その店の老婆を知っている人間の言い方だった。
「行ってみるか?」
レオナールが尋ねた。
「ええ」
セラフィーナが答えると、彼は先に歩き出した。
案内された露店は、市場の中央から少し外れたところにあった。
派手な飾りもなく、行列も長くない。
焼いた小麦生地を細長く巻き、その中へ煮た果実と砕いた木の実を詰めている。
店に立っている老婆は、レオナールを見るなり眉を上げた。
「あら。今日は兵隊じゃなくて女の子を連れてきたの」
レオナールが露骨に嫌そうな顔をした。
「そういう言い方をするな」
「じゃあ何。税の取り立て?」
「違う」
老婆がセラフィーナを見る。
その衣服から、普通の客ではないとは分かったらしい。
しかし態度は変わらない。
「お嬢さん、甘いの平気?」
「好きですわ」
「じゃあ一つ食べてきな。こいつの顔を見ながらでも甘く感じるくらい甘いから」
「余計だ」
今度はセラフィーナが笑った。
老婆から受け取る。
生地は外側だけ少し固く、中は柔らかい。
煮た果実は酸味が残っていて、蜜ほど甘くない。
木の実の食感が加わる。
確かに美味しい。
「いかが?」
老婆に聞かれた。
「とても」
「そう。じゃあもう一個どう?」
「いただきます」
レオナールが横から言う。
「随分気に入ったな」
「美味しいものを美味しいと言うことに、何か問題がございます?」
「いや。もっと考えて食べるのかと思ってた」
「食べ物は考えても味が増えませんもの」
「昨日は秤を見て楽しそうにしていただろう」
「秤は考えると面白くなりましたわ」
「変わってるな」
否定はしなかった。
二つ目をマルタへ渡す。
三つ目を侍女へ。
護衛たちも自分で買う。
ノアンだけが財布を出してから少し迷った。
値段を見ている。
セラフィーナはその顔を覚えた。
だが代わりに払わなかった。
給金は十分渡している。
本人が買うかどうかまで決める必要はない。
結局、ノアンは一つ買った。
一口食べたあと、
「これは買って正解でした」
と真顔で言った。
「よくできました」
反射的に口から出た。
ノアンが固まる。
セラフィーナ自身も、言ってから気づいた。
その言葉を使う相手は、長い間ほとんど一人だった。
胸の奥が少しだけ引かれる。
けれど、取り消すほどのことでもない。
ノアンは事情を知らないのか、単に意味を違って取ったのか、
「ありがとうございます」
と嬉しそうに答えた。
セラフィーナは菓子へ視線を戻した。
言葉は誰か一人の所有物ではない。
自分もそうだった。
アドリアンの所有物ではない。
考えれば当たり前のことなのに、思ったより胸へ残った。
その後は、レオナールも自然に一行へ混ざった。
ずっと隣へいるわけではない。
顔を知る店では挨拶をし、途中で露店の主人から道路脇の排水について相談されれば短く話を聞く。
答えがその場で出ない時には、
「役所へ話を回しておく」
とだけ言う。
約束できないことを約束しない。
一方で、子供から手を振られれば普通に返す。
老人に呼び止められれば立ち止まる。
そういう人だった。
セラフィーナは観察していた。
いや、観察していることへ気づいて、少し可笑しくなる。
何も調べないと決めた日にまで、人を見ることだけは止まらないらしい。
だからといって、それを帳簿へ書く気はなかった。
通りの端で、小さな少女が果実飴を落とした。
表面へ砂がつく。
少女は泣きそうな顔で拾い上げた。
露店の店主が気づき、
「それはもう食べるな」
と新しいものを一本渡した。
母親らしい女性が代金を払おうとするが、店主は手を振る。
「一日に一本くらいは落ちるものまで勘定してるよ」
少女はすぐ笑った。
何でもない光景だった。
そこに制度はない。
政策もない。
セラフィーナが介入する余地もない。
それでも、しばらく見ていた。
グランデルへ来てから、彼女はこの国の欠点ばかり見つけていたわけではない。
両替条件。
違う計量。
空荷。
異なる魔術規格。
それらは問題だった。
だが問題のある国と、悪い国は同じではない。
市場では人が笑っている。
商人は稼ごうとしている。
職人は働いている。
子供は菓子を落とし、店主は新しい一本を渡す。
兵は安くて量のある店を知っている。
その店の老婆は、若い兵へ時々一つ多く食べさせる。
こういうものも、この国だった。
セラフィーナは少し前まで、グランデルを第三国として見ていた。
レグリエでもない。
ノルディアでもない。
自分を追放した二国の外側にある場所。
それ以上の意味は、まだなかった。
今は少し違う。
美味しい店を一つ知った。
市場へ来れば何を食べたいか考えられる。
同行した者がどの食べ物を好むかも分かり始めた。
それだけのことだった。
だが、暮らすというのは、案外そういう小さな情報が増えることなのかもしれない。
午後になり、人出がさらに増えてきたところで、レオナールは別方向へ行くことになった。
「俺はここで」
「お仕事ですの?」
「半分な」
「残り半分は?」
「昼を食いに来ただけだった」
セラフィーナは彼を見る。
「わたくしと同じですわね」
「俺は最初からそう言ってる」
「では、何を召し上がったのです?」
レオナールが止まった。
「……まだ何も」
「まあ」
思わず声に少し笑いが混じる。
市場へ来て。
菓子の店まで案内して。
人へ挨拶して。
相談を聞いて。
本人は何も食べていない。
「人のことばかり見ていらっしゃるからですわ」
言ってから、少しだけ妙な感じがした。
普段なら、自分が言われる側の言葉だった。
レオナールも気づいたらしい。
「お前に言われたくない」
「今日は食べておりますもの」
「今日だけだろう」
「今日があれば十分でしょう?」
レオナールは一度黙ってから、
「そうかもな」
と答えた。
それから近くの肉串の店へ向かう。
どうやら本当に昼を食べるらしい。
セラフィーナはその後ろ姿を少し見てから、自分たちも屋敷へ戻ることにした。
帰路、ノアンが荷物を見た。
食べ物だけではない。
侍女が買った小さな布。
護衛の一人が手に入れた革紐。
マルタが選んだ香りの弱い石鹸。
生活のために絶対必要というほどではないものが増えている。
それが少し新鮮だった。
「楽しかったですか?」
セラフィーナが尋ねる。
全員が一瞬だけ顔を見合わせた。
主人から休暇の感想を聞かれるとは思っていなかったらしい。
侍女が最初に答えた。
「はい。とても」
護衛の一人も頷く。
「市場そのものを見て歩いたのは初めてでした」
「いつも市場へ行っているでしょう?」
「いつもはセラフィーナ様が何か見つけるので」
「わたくしのせいですの?」
「かなり」
真顔だった。
セラフィーナは反論しようとして、やめた。
間違ってはいない。
ノアンが笑う。
マルタまで小さく笑っている。
セラフィーナも笑った。
「では、たまには何も見つけない日にいたしましょう」
屋敷へ戻ると、玄関でアルノーが待っていた。
ずっと市場へ同行していたわけではない。
人員を交代させながら監察を続けていたらしい。
「お戻りですか」
「ええ」
「本日の市場での面会について、確認だけ」
やはり仕事は残る。
セラフィーナは頷いた。
「レオナール様とは偶然お会いしました。事前の約束はございません。市場内を一部ご一緒しましたが、政治的な協議はしておりませんわ」
アルノーは記録する。
「商人との契約は?」
「ございません」
「大口の購入?」
「いいえ」
「市場役への指示、制度上の申し入れ、商人への帳票利用依頼は?」
セラフィーナは少し笑った。
「本日はございません」
アルノーの筆が一瞬止まった。
「……本当に?」
今日二度目だった。
セラフィーナは少しだけ眉を上げる。
「ベルティエ様まで?」
「これまでの記録から確認しただけです」
「今日は食べただけですわ」
アルノーは彼女が抱えている包みを見る。
菓子。
石鹸。
布。
食べ物。
確かに政治活動には見えない。
「承知しました」
いつもの調子で記録を閉じる。
だが帰り際、
「珍しい日もあるのですね」
と付け加えた。
セラフィーナはとうとう声を出して笑った。
その日の夕方、執務机には帳簿を広げなかった。
市場から届いた書簡も、急ぎでないものは明日へ回した。
代わりに、昼に買った菓子を侍女が茶と一緒に出した。
朝に食べた時より、生地は少し柔らかくなっている。
それでも美味しかった。
窓の外には、見慣れ始めたグランデルの町並みがある。
まだ知らない道の方が多い。
制度も。
人も。
土地も。
分からないことだらけだった。
けれど、知らないものすべてを問題として解く必要はない。
美味しいものなら、美味しいと知るだけでもよい。
セラフィーナは茶を一口飲んだ。
アドリアンから届いた手紙は、今日一度も開かなかった。
意識して避けたわけではない。
ただ、思い出す必要がなかった。
そのことに気づいた時、胸の奥へ小さな違和感が生まれた。
嬉しいとも、寂しいとも、まだうまく分類できない。
だから無理に名前を付けなかった。
今日覚えたのは、もっと簡単なことでよい。
マルタは甘い果実菓子が好き。
侍女は辛い肉料理を好む。
ノアンは値段を見て迷った菓子を、結局とても気に入った。
護衛たちは苦い飲み物が苦手。
レオナールは人に店を勧めておきながら、自分の昼食を忘れる。
そしてセラフィーナは、煮た果実と木の実を巻いたあの菓子が好きだった。
空の帳簿へ書くほどのことではない。
だからこそ、覚えておこうと思った。




