王太子殿下はよくできました
「セラフィーナ。少し時間をもらえるか」
王宮へ着いたばかりの婚約者からそう声を掛けられ、セラフィーナは足を止めた。
アドリアン・レグリエ王太子は十九歳。
明るい金髪と青い瞳を持ち、背も高い。
王太子として人前へ出る時には隙のない青年だが、今朝は綺麗に整えていたはずの前髪が少しだけ乱れていた。
考え事をしている時、無意識に触る癖がある。
「もちろんですわ。何かありましたの?」
「案はあるんだ。ただ、どうにも気に入らない」
「ご自分でお作りになった案が?」
「ああ」
それは少し面白かった。
セラフィーナは侍女を伴ったまま、アドリアンの執務室へ向かった。
机の上には川の地図と、何枚かの報告書が広げられている。
資料の量は多くない。
一晩中読み漁ったというより、必要なものを選んで並べたらしい。
「リューネ川ですのね」
「知っているのか?」
「名前くらいは」
レグリエ王国の中央を流れる大きな川だった。
上流には小麦畑が広がり、下流にはセルヴァ港がある。
海と河川を使った交易で栄えるレグリエにとって、穀物を船で運べる川は重要だった。
今年は雨が少ない。
そのため、上流の農民と下流の港が同じ水を巡って揉めていた。
アドリアンが一枚目の陳情書をセラフィーナへ渡した。
「上流のローデン領だ。このままでは畑へ回す水が足りないと言っている」
二枚目。
「こちらはセルヴァ港。上流で水を取りすぎると川が浅くなって、荷を積んだ船が通れなくなる」
「なるほど」
どちらも困る。
そして、どちらの言い分も間違っていない。
セラフィーナは顔を上げた。
「殿下のお考えは?」
アドリアンは別の紙を差し出した。
「双方に少しずつ我慢してもらう」
「どのように?」
「ローデンには今より取水を減らしてもらう。セルヴァには、一日に出す大型船の数を減らしてもらう。それで損が出た分は、王家が一部補償する」
セラフィーナは紙へ目を落とした。
十分にまともな案だった。
水そのものが足りないなら、皆で負担を分ける。
片方だけを犠牲にしない。
それでも生活が成り立たない者には国が補償する。
十代の王太子が自分でまとめた案として、何も恥じるところはない。
「よくできていると思いますわ」
「君までそう言うのか」
「皆様も?」
「水利局も、父上も、大きな問題はないと言った」
「では、何がお気に召さないの?」
アドリアンは机へ両手をついた。
「両方を少しずつ困らせているだけなんだ」
セラフィーナは黙って聞いた。
「畑の収穫は減る。船も減る。国は両方へ金を払う。誰か一人に全部押しつけるよりはましだ。でも、何一つ良くなっていない」
そこまで気づいているのなら、やはり悪くない。
アドリアンは昔から、自分で納得していない答えをそのまま通すことを嫌う。
幼い頃なら、正解だと言われれば受け入れていた。
今は、
正しいこと。
より良いこと。
の違いを考え始めている。
セラフィーナは川の地図を眺めた。
上流には畑。
下流には港。
農民は水が欲しい。
船乗りも水が欲しい。
一見すれば、それだけの話だった。
けれど、畑で小麦を作る理由は、畑へ置いて眺めるためではない。
「殿下」
「何だ?」
「ローデンで採れた小麦は、どうやって王都まで来るのです?」
アドリアンの顔から、少しだけ苛立ちが消えた。
「どうやって?」
「ええ」
地図を見る。
上流。
川。
下流。
港。
「……川だ」
「どの港から?」
アドリアンの指が地図を下る。
途中で止まった。
「セルヴァ」
セラフィーナはそれ以上何も言わなかった。
アドリアンは机の書類へ手を伸ばした。
セルヴァ港から運び出される荷物の記録。
一枚。
二枚。
「待て」
声が低くなる。
「セルヴァから出る穀物の多くがローデン産だ」
「そうなのですね」
「つまり、ローデンが水を全部畑へ回して小麦を守っても、セルヴァから船が出せなければ運べない」
ようやく顔を上げる。
「逆もそうだ。セルヴァが水位を守るために上流へ水を取らせず、ローデンの小麦が枯れたら、今度は船に積む物が減る」
アドリアンはしばらく地図を見た。
それから、少し呆れたように笑った。
「こいつら、相手を困らせたら自分も困るじゃないか」
「そのようですわね」
「なら、半分ずつ我慢させるのは違う」
セラフィーナは紅茶へ手を伸ばした。
答えはもう彼の中にある。
ここから先まで教える必要はなかった。
「同時に水を欲しがるから足りないんだ」
アドリアンが呟く。
「殿下?」
「船は一日中、同じ数が動くのか?」
今度は自分で船の記録を見る。
しばらくして、一本の行を指でなぞった。
「朝が多い」
「そうなのですか?」
「セルヴァの大型船は朝にまとめて出る。午後になるとずっと少ない」
アドリアンが顔を上げる。
「畑の水も、一日中同じ量が必要なのか?」
「それは専門の方へ聞いた方がよろしいでしょうね」
「ああ」
すぐ呼び鈴へ手を伸ばした。
そこで一度止まる。
「セラフィーナ」
「はい」
「もし畑の水を使う時間をずらせるなら」
少しだけ笑っている。
「朝は船を通す。船が減った後に、畑へ多く水を回せる」
「できるのでしたら、両方ともあまり我慢しなくて済みますわね」
「それを聞いてみる」
今度こそ呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして、水利を担当する官吏と農務担当の技官が執務室へやってきた。
アドリアンは余計な説明をしなかった。
「船が多い朝は川の水位を保ち、午後から上流へ多く水を回すことはできるか」
農務技官が少し考えた。
「小麦畑でしたら可能です」
答えは早かった。
「一日中、同じ量を流し続ける必要はございません。午後から夕方へ多く回しても問題はありません。ただし、急に全ての畑へ適用するのではなく、区画を分けて試した方が安全でしょう」
「船側は?」
水利担当の官吏が記録を見る。
「午前中の水位を今まで通り保てるなら、大型船への影響はかなり抑えられます。午後は船が少ないので、その時間に上流の取水を増やす方が影響も小さいでしょう」
アドリアンがセラフィーナを見る。
嬉しそうだった。
それでも、すぐに決定はしない。
「なら、まず一週間だけ試す」
二人の官吏へ向き直る。
「全部変えるな。ローデンの一部の畑だけでいい。問題が出たらすぐ元へ戻す」
「承知いたしました」
「僕が最初に作った制限と補償の案も残しておく。これで駄目ならそちらへ戻す」
水利担当の官吏が頷いた。
「それがよろしいでしょう」
それで会議は終わった。
驚くほど簡単だった。
新しい税もない。
大工事もない。
誰かへ大金を払う話でもない。
同じ川の水を、
朝は船。
午後は畑。
と使う時間をずらしてみるだけ。
官吏たちが退出すると、アドリアンは大きく息を吐いた。
「昨日の夜から何を悩んでいたんだ、僕は」
「よい案を考えていらしたでしょう?」
「でも、これならもっと簡単だ」
「簡単だから悪いわけではありませんもの」
アドリアンは椅子へ座り直した。
「君は最初から分かっていたのか?」
「何がです?」
「ローデンとセルヴァが互いに必要だってこと」
セラフィーナは少し考えた。
小麦の行き先を尋ねた時には、その可能性を高く見ていた。
しかし、船の多い時間までは知らなかった。
畑への取水をずらせるかも知らない。
そこは専門家へ聞かなければ分からないことだった。
「ローデンで作った小麦を、どうやって運ぶのか気になっただけですわ」
「それだけ?」
「ええ」
アドリアンが疑わしそうに見る。
「君の『それだけ』は、たまに恐ろしい」
「まあ。婚約者へ向ける言葉ではありませんわね」
「褒めてるんだ」
「でしたら、もう少し上手に褒めてくださいませ」
アドリアンは少し考えた。
「君はものすごく頭がいい」
「随分と直接的になりましたわ」
二人で笑った。
アドリアンは机の端に置いていた最初の案を手に取る。
「でも、君が答えを言わなかった理由は分かる」
セラフィーナは彼を見る。
「僕に考えさせたかったんだろう?」
しばらく答えず、それから微笑んだ。
「殿下は、ご自分で考えられる方ですもの」
「やっぱり」
「何です?」
「昔からそれだ。君は答えを知っていても、すぐには教えない」
「殿下がご自分で辿り着けるのでしたら、その方がよいでしょう?」
「意地悪だと思ったこともある」
「まあ」
「子供の頃だぞ」
「今は?」
アドリアンは最初の草案を見た。
「今は、ありがたいと思っている」
少しだけ意外だった。
セラフィーナはその顔を見つめた。
以前より随分成長した。
政治の知識だけではない。
自分が何を知らないのかを認められるようになった。
誰かに助言を求めても、それを恥だと思わなくなった。
しかも最後に決めるのは自分だと理解している。
将来、王になる人間として悪くない。
むしろ、かなり良い。
「昨日のお考えも、十分によくできていますわ」
「今日の方がいいだろう?」
「今日のお考えは、もっとよかったです」
アドリアンが少し姿勢を正した。
その顔があまりにも分かりやすかったので、セラフィーナは笑いそうになった。
「よくできました」
「やっぱり子供扱いしてるだろう」
「しておりませんわ」
「その言い方で?」
「よくできた時には、よくできたと申し上げているだけです」
「僕が王になっても言うのか?」
「必要でしたら」
「絶対やめてくれ」
そう言いながら、嬉しそうなのだから面白い。
「では、お父様へのご説明も頑張ってくださいませ」
「一緒に来てくれないのか?」
「殿下のお考えなのでしょう?」
「そうだけど」
「でしたら、殿下が褒められてくださいな」
アドリアンは一瞬だけ黙った。
それから笑う。
「分かった。行ってくる」
自分の書類をまとめ始める。
その様子を見てから、セラフィーナも立ち上がった。
午後には救護院へ行く予定がある。
「夕食は?」
「今日は家族といただきますわ」
「明日は?」
「王宮へは参りません」
「明後日?」
「予定がございます」
アドリアンが露骨に残念そうな顔をした。
「三日後には来ますわ」
「三日もある」
「殿下、お仕事をしてくださいませ」
「してるだろう」
それは確かだった。
セラフィーナは笑いながら執務室を出た。
翌日から、ローデン領の一部で新しい水の使い方が試された。
朝。
川の水位を保ち、大型船を先に通す。
昼を過ぎて船が減ると、上流の水門を開き、畑へ多くの水を回す。
仕組みはそれだけだった。
最初の二日は、農民たちも不安そうだったらしい。
本当に午後からの水だけで足りるのか。
港側も、上流で水を増やした後に船が動けなくならないかを心配した。
だから一度に全部は変えなかった。
一部の畑だけ。
一週間だけ。
問題があれば元へ戻す。
アドリアンが決めた通りだった。
七日後。
結果が王宮へ届いた。
朝の大型船は、一隻も止まらなかった。
試験対象となった小麦畑にも、目立った乾燥は出なかった。
ローデン領からは、対象地域を増やしたいという申し出が届いた。
セルヴァ港からも異議はない。
そして王家が用意していた補償金は、一枚も使われていなかった。
同じ川。
同じ水。
誰かから新しく奪ったわけでもない。
使う時間を変えただけで、農民も船乗りも仕事を続けられた。
報告を受けたアドリアンは、その日の午後にはアルディエール公爵邸へ使者を寄越した。
封書の中には正式な報告書とは別に、小さな紙が一枚入っていた。
『うまくいった』
それだけ。
セラフィーナは思わず笑った。
父オーギュストが向かいの席から顔を上げる。
「何だ」
「アドリアン殿下からですわ」
「河川の件か?」
「ええ」
父も既に概要は知っていたらしい。
「良い仕事をしたと聞いた」
「でしょう?」
少し誇らしげな声になった。
オーギュストが娘を見る。
「お前が考えたわけではないのか」
「違いますわ」
「何をした」
「質問を一つ」
「何と?」
「ローデンの小麦は、どうやって運ぶのですか、と」
父は少し黙った。
それから報告書へ目を落とす。
農地。
川。
港。
しばらくして、納得したように頷いた。
「そこからか」
「そこから先は、殿下がお考えになりました」
「なるほど」
「ですから、殿下の功績ですわ」
自分の名前を載せる理由はなかった。
質問一つで誰かの成果を奪うつもりもない。
何より、アドリアンが自分の名前で成功した方が価値がある。
セラフィーナは小さな紙をもう一度見た。
『うまくいった』
十九歳の王太子が送ってくる文面としては、少しだけ子供っぽい。
だが、それも悪くなかった。
次に王宮へ行った時は、きっと本人の口から同じ話を聞かされる。
少し得意げに。
その時には、もう一度言ってあげようとセラフィーナは思った。
よくできました、と。




