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王都の静かな包囲

朝食を終える前に、アルディエール公爵家へ三通の報告が届いた。


最初の一通は北方の国境を預かる貴族からだった。


ノルディア軍が予定していた季節演習について、終了時期を延ばしたという。


国境を越えたわけではない。


部隊を増やすという正式通知もない。


ただ、本来ならすでに後方へ戻り始めるはずだった騎兵と補給部隊の一部が、そのまま演習地域へ残っている。


二通目は鉄を扱う商会からだった。


ノルディア側の取引先が、次期契約分について現行価格での確定を保留している。


契約を破棄したわけではない。


値上げを通告したわけでもない。


ただ、これまでならすでに決まっている時期になっても、数字を出してこない。


三通目は軍馬だった。


すでに契約済みの馬のうち、次の引き渡し分について、ノルディア側の検査を理由に出荷が遅れる可能性があるという。


こちらも契約違反と呼べる段階ではなかった。


父は三通を食卓の端へ並べると、冷めかけた茶へ手を伸ばした。


「全部、違反ではない」


「そうですわね」


セラフィーナは一通ずつ読み直した。


「演習を延ばす権利はございますし、次期契約の価格をいつ提示するかも契約次第です。軍馬についても、検査そのものが架空でなければ遅延理由にはなります」


「三つとも偶然か?」


「分かりません」


即答した。


父が娘を見る。


「お前なら、もう何か読んでいるかと思った」


「読める材料がございませんもの」


演習。


鉄。


軍馬。


どれもノルディアが強みを持つ分野ではある。


同じ時期に動いたことを不自然だと感じることはできるが、それだけで誰か一人の計画だと決めれば、推測を事実へ変えてしまう。


「ただ、偶然であっても結果は同じですわね」


「何がだ」


「王家は北方へ兵を残す必要がある。商人は鉄の次期価格が読めない。軍は馬の到着日を確定できない。それぞれ別の場所で、小さく予定が狂います」


大戦争が始まるわけではない。


市場から鉄が消えるわけでもない。


騎兵隊が明日から動けなくなるわけでもない。


だから一件ずつなら耐えられる。


問題は、耐えるための判断が別々の場所で必要になることだった。


父が三通を見比べる。


「腹立たしいやり方だな」


「上手ですわ」


「褒めるな」


「上手なものを下手と評価しても役には立ちませんもの」


父は嫌そうな顔をしたが、否定はしなかった。


セラフィーナは手紙を一度まとめる。


「王宮へ写しは?」


「もう届いているはずだ。午後に北方関係の報告がある」


「わたくしも?」


「王妃陛下の小応接室へ来るようにと。正式な政策会議ではない。オルセーヌ公爵令嬢もいるそうだ」


エステル。


昨日、北区救護院への寄贈を成立させたばかりの女である。


「でしたら参ります」


父が眉を寄せた。


「気をつけろよ」


「何に?」


「それが分かれば俺が先に処理する」


もっともだった。


セラフィーナは笑って、ようやく朝食へ戻った。


昼前、マルタがノルディアへ送る報告を持ってきた。


昨日から、送信する内容は事前に確認することになっている。


『本日午後、王宮へ出向く予定。王妃主催の小規模な会合。オルセーヌ公爵令嬢も出席予定』


それだけだった。


「北方の演習や鉄のことは?」


マルタが尋ねる。


「あなたは今朝、父との話を聞いておりませんでしょう?」


「はい」


「でしたら知りませんわね」


「使用人たちの間では、少し噂になっています」


「噂を事実として送る必要はありません」


マルタは頷き、文章をそのまま送った。


セラフィーナは止めなかった。


エステルと同席するという情報は秘密でもない。


その報告がどこまで上へ届き、誰に使われるのかもまだ分からない。


分からないものを、分かったことにして動く必要はなかった。


午後の王宮では、いつもの小応接室より椅子が多く用意されていた。


王妃。


アドリアン。


外務を担当する侯爵。


王室の軍事顧問。


セラフィーナ。


そしてエステル。


正式な閣議ではない。


それでも、ただの茶会でもなかった。


エステルはセラフィーナを見ると、昨日と変わらない柔らかな笑顔を見せた。


「セラフィーナ様。昨日はありがとうございました。救護院への羊毛について、今朝には引き渡しの手続きが始まったそうですわ」


「こちらこそ、ありがとうございます。利用者の方々も助かるでしょう」


「そう言っていただけると嬉しいです」


見ているだけなら仲の良い令嬢同士だった。


実際、昨日の寄贈自体は本当に人の役に立つ。


その事実まで否定する必要はない。


全員が揃うと、外務侯爵が北方から届いた情報を簡潔に説明した。


セラフィーナが朝に見たものと大きくは違わない。


国境演習の長期化。


鉄価格の提示保留。


軍馬の出荷遅延。


さらに、来月に予定していた通商実務者同士の協議について、ノルディア側から日程を再検討したいという申し出も届いているらしい。


王妃が難しい顔をした。


「理由は?」


「どれについても、それぞれもっともらしいものがあります」


外務侯爵が答える。


演習は天候と地形条件。


鉄は北部鉱山の生産見込みを確認するため。


軍馬は検査。


通商協議は、担当者の日程。


どれも表向きには説明がつく。


「つまり、抗議できないのね」


「抗議はできますが、何に対する抗議なのかを定めるのが難しい状況です」


アドリアンが手元の資料へ視線を落とした。


「国境については、こちらも警戒水準を一段上げる。ただし増派を大きく見せれば、向こうに緊張を高めたと言われる。鉄は別の調達先を確認しておくべきだが、短期で全部を切り替える方が高くつく」


一つずつ、妥当な判断だった。


軍馬についても、到着を待ちながら予備馬の配分を変える。


通商協議は延期を受け入れつつ、文書で理由と次候補日を求める。


セラフィーナは口を挟まなかった。


アドリアンは自分で考えられる。


その様子を見ていたエステルが、少し申し訳なさそうに口を開いた。


「このような時に申し上げるのも心苦しいのですが、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」


王妃が促す。


「もちろんよ」


「これらのことを、どうかセラフィーナ様個人の問題とはなさらないでくださいませ」


部屋が一瞬静かになった。


セラフィーナはエステルを見る。


エステルは困ったような微笑みを浮かべていた。


「わたくしがレグリエへ参りましてから、いくつか不幸な行き違いがございました。けれど、セラフィーナ様は昨日もわたくしからの申し出を公平に扱ってくださいましたし、わたくし自身、この方から害意を向けられたとは思っておりません」


完璧に近い庇い方だった。


セラフィーナを責めていない。


むしろ擁護している。


だから、


なぜ今この場でセラフィーナを庇う必要があるのか。


という疑問だけが残る。


軍事顧問が慎重に答えた。


「もちろん、令嬢個人へ責任を求めているわけではありません」


「安心いたしました」


エステルはほっとしたように胸元へ手を置いた。


「ノルディアでも、わたくしの滞在中に起きたことを心配する者がいるのは事実です。でも、それをセラフィーナ様の責任だと決めつけられては、わたくしも困りますもの」


言葉は一貫してセラフィーナを守っている。


それでも、


ノルディアではセラフィーナに関わる出来事を心配している。


という情報だけは、きれいに部屋へ置かれた。


外務侯爵がエステルを見る。


「公爵令嬢。ノルディア側から、アルディエール公爵令嬢について何か正式な申し入れがあったのですか?」


「わたくし個人にはございません」


慎重な答えだった。


「ただ、帰国した者たちから、王都での出来事を不安視する声があるとは聞いております」


「具体的には?」


「そこまでのことは、わたくしの立場から申し上げるべきではないと思います」


知らないのか。


知っているが話さないのか。


セラフィーナには判別できない。


どちらでも、エステルの返答としては正しい。


ここで曖昧な国内情報を断言すれば、後から外れた時に自分の信用を失う。


エステルはそこまで安くない。


王妃が静かに息を吐いた。


「セラフィーナ、あなたはどう思う?」


「何についてでしょう?」


「あなたの名前と、今回の一連のことが結びついている可能性について」


セラフィーナはすぐには答えなかった。


朝届いた三つの報告。


延期された通商協議。


エステルの言葉。


それだけでは、誰かがセラフィーナ排除を条件として要求しているとは分からない。


ただし確認できることはある。


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


外務侯爵を見る。


「ノルディア王国からレグリエ王国へ、わたくし個人の行動について正式な抗議は届いておりますか?」


侯爵は首を振った。


「現時点ではない」


「園遊会での件を含め、わたくしがノルディアの公爵令嬢へ危害を加えたという正式な告発は?」


「ない」


今度は王妃が答えた。


「では、ノルディア側が正式に求めているものの中に、わたくしの処分は含まれています?」


少し間があった。


外務侯爵が資料を確認する。


「現時点では、そうした要求はない」


「分かりました」


セラフィーナはそこで止めた。


王妃が少し意外そうな顔をする。


「それだけ?」


「今確認できる事実は、それだけですもの」


エステルの笑みは変わらない。


セラフィーナは宮廷書記を見る。


「恐れ入りますが、今の三点は議事記録へ残していただけますか」


書記がペンを止める。


「三点と申しますと」


「ノルディア王国から、わたくし個人への正式抗議はないこと。危害を加えたという正式な告発もないこと。そして、現時点の正式要求にわたくしの処分は含まれていないことです」


外務侯爵が僅かに眉を動かした。


しかし異論は出なかった。


全て事実だからである。


エステルが先に微笑んだ。


「ぜひ、そうなさってくださいませ」


視線が集まる。


「わたくしも、セラフィーナ様が根拠もなく責められることなど望んでおりません。事実は事実として残していただいた方が安心ですわ」


上手だった。


セラフィーナの記録要求へ反対しない。


むしろ支持する。


それによって、自分がセラフィーナを陥れようとしているという疑いまで遠ざける。


セラフィーナも笑みを返した。


「ありがとうございます、エステル様」


「いいえ。昨日助けていただいたばかりですもの」


嘘ではない。


だから厄介で、だから面白い。


話は再び国境と交易へ戻った。


それぞれの問題について対処が決められていく。


しばらくして、軍事顧問が一枚の資料を置いた。


「ただ、現実問題として、ノルディア側が王都で起きた一連の出来事を対レグリエ感情へ結びつけている可能性は考慮する必要があります」


誰もセラフィーナが悪いとは言わない。


正式な抗議もない。


罪の告発もない。


それでも、


相手がどう受け取るか。


という話なら続けられる。


外務侯爵も頷いた。


「事実関係と外交上の受け止めは別ですからな」


そこへエステルが困ったように口を挟んだ。


「もし、わたくしがセラフィーナ様と同席していること自体が両国の方々へ余計な憶測を生むのでしたら、今後の一部行事については、わたくしの方が席を外しましょうか」


王妃がすぐに否定した。


「あなたは客人よ。そこまで気を遣わせるわけにはいかないわ」


「ですが」


「エステル嬢が退く必要はない」


アドリアンも言った。


声に迷いはなかった。


「君は正式な親善使節団の一員でもある。必要な場へ出るのは当然だ」


エステルは少しだけ視線を下げた。


「でしたら、皆様のご判断へお任せいたします。ただ、わたくしのためにセラフィーナ様が不利益を受けることだけは、本当に望んでおりません」


そこで初めて、セラフィーナは部屋の空気が一つ変わったのを感じた。


エステルを退出させる。


という選択肢が、今消えた。


誰かが命じたわけではない。


王妃が自分で否定した。


アドリアンも、自分で否定した。


残る問題は、


両者の同席が外交上まずい場面が今後生まれた時、誰を外すのか。


という形へ一段近づく。


セラフィーナはそこまで考えて、止めた。


まだ誰も自分を外すと言っていない。


起きていない未来を事実として扱うつもりはなかった。


「わたくしも、エステル様に席を外していただく必要はないと思いますわ」


セラフィーナが言うと、エステルが顔を上げた。


「セラフィーナ様」


「外交上必要な方が必要な場所へ出るのは当然でしょう?」


「……ありがとうございます」


本当に安堵したようにも見える。


演技かもしれない。


本心かもしれない。


どちらでも構わなかった。


この場でセラフィーナが、


ならエステルを外せ。


と言えば、それこそ相手が欲しがる材料になる。


自分から踏むほど価値のある罠ではない。


会合が終わる頃には、具体的な対処がいくつか決まっていた。


国境では警戒を強めるが、大規模増派はしない。


鉄は代替調達先を調査しつつ、ノルディアとの価格交渉も継続する。


軍馬については納期確認を文書で要求する。


延期された通商協議には、次の日程候補をノルディア側から出させる。


どれも現実的だった。


エステルは最後までセラフィーナを非難しなかった。


むしろ退出する直前にも、


「早く落ち着くとよいですわね。セラフィーナ様とは、まだご一緒したいことがたくさんございますもの」


と微笑んだ。


「ええ。わたくしもですわ」


セラフィーナも同じように返す。


その場では、それで終わった。


廊下へ出ると、アドリアンが追いついてきた。


「セラフィーナ」


歩調を緩める。


「何でしょう?」


「さっきの確認はしておいてよかった」


「正式な抗議があるかどうかですか?」


「ああ。噂と国家の意思を一緒にはできない。記録も残った」


彼はそこを正しく理解していた。


「エステル嬢も君を責めていない。少なくとも、今の段階で君を北方問題の原因のように扱うべきじゃない」


セラフィーナはアドリアンを見る。


本気だった。


彼は今、セラフィーナを守ろうとしている。


だからこそ、彼を愚かだとは思わなかった。


「ありがとうございます」


「ただ」


アドリアンの表情が少し曇る。


「向こうが何を不快に思うかと、何が事実かは別だ。しばらくは、慎重になった方がいい」


「具体的には?」


「まだ分からない」


そこも正直だった。


「分からないうちから、君に何かを控えろとは言わない。ただ、王都の空気が少し変わっている」


セラフィーナも同じことを感じていた。


「ええ」


「僕も気をつける」


アドリアンはそう言った。


セラフィーナは小さく頷く。


「お願いいたします」


屋敷へ戻ると、父はまだ王宮から帰っていなかった。


代わりにエルンストが、午後に届いた商会からの書簡を机へ置いた。


「三件ございます」


今朝とは別の商人たちだった。


一つは、北方へ鉄製品を卸している商会。


一つは軍馬関連の革具を作る工房。


もう一つはノルディア向けに加工品を出している商人。


内容はそれぞれ違う。


それでも共通していたのは、


先の見通しが立つまで、新しい投資や追加契約を少し待ちたい。


という判断だった。


王家から命令されたわけではない。


ノルディアから脅されたわけでもない。


商人たちが、自分の金を守るために自分で止まった。


セラフィーナは三通を並べる。


軍が警戒する。


商人が待つ。


王宮では、事実として何も告発されていない自分の名前が北方関係の文脈で語られる。


一つ一つなら、小さい。


誰もセラフィーナを逮捕しない。


誰も公然と責めない。


王宮への出入りを禁じられたわけでもない。


アドリアンもまだ彼女を守ろうとしている。


だからこそ、やり方としては上手だった。


壁を一枚立てれば、誰かが壊そうとする。


道を一つずつ狭くすれば、人はいつの間にか残された方向へ歩く。


「お嬢様?」


エルンストが声をかける。


「何でもありませんわ」


セラフィーナは三通をまとめた。


「こちらはすべて保管してください。返事は通常通りで結構です。急いで契約するよう圧力をかける必要もありません」


「よろしいので?」


「今、不安だから待ちたいと言う商人へ無理に金を使わせても、後でこちらの信用が下がりますもの」


判断を変えさせるより、なぜ変えたのかを残す方がいい。


「それから、今朝の三件と今日届いた分について、日付だけ一覧にしてくださいませ。意見は要りません」


「日付だけ?」


「ええ」


理由を先に決めたくなかった。


何が始まっているのかは、まだ分からない。


ただ、いつ何が変わったのかを後から追えれば十分だった。


夜になって父が戻る。


食事のあと、彼は疲れた顔で執務室へ来た。


「明日、北方関係について王宮で会議がある」


セラフィーナは顔を上げる。


「正式なものですか?」


「ああ。今日より狭い。国王、王太子、外務、軍、財務。それと関係する家から何人か呼ばれるらしい」


「お父様も?」


「呼ばれた」


「でしたら、今朝の報告も必要ですわね。写しを用意します」


セラフィーナは机の上の文書へ手を伸ばした。


父が一瞬だけ何かを言いかける。


「どうかなさいました?」


「いや」


父は首を振った。


「まだ出席者の最終名簿を見ていない」


「そうですか」


それ以上は気にしなかった。


これまでなら、王太子婚約者として北方外交へ関係する会議に同席することも珍しくなかった。


呼ばれるなら準備する。


呼ばれないなら、その理由を確認する。


今考えられるのはその程度だった。


セラフィーナは今日の記録を閉じた。


ノルディアから正式な抗議はない。


自分への告発もない。


処分要求もない。


それでも、国境では兵が止まり、鉄の値段が決まらず、軍馬が遅れ、商人が投資を待ち始め、王宮ではエステルが自分を庇っている。


誰一人として、


セラフィーナ・アルディエールを排除せよ。


とは言っていない。


それなのに、彼女の名前を避けて北方問題を語ることが、少しずつ難しくなっていた。


包囲というものは、必ずしも門の前へ兵を並べて始まるわけではないらしい。


王都は今日も静かだった。


だからセラフィーナも、まだ静かに見ていることにした。


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