フローラ編①
「すまない、フローラ。サリーが熱を出したんだ」
「まあ、デクスター様、またですの?」
侯爵令嬢フローラ・ルビー・ヴェインは二つ年上の婚約者である公爵令息デクスター・ブレナン・エジャートンの言葉にため息をつく。
「しょうがないだろう。サリーは病弱なんだ。君は健康で恵まれているだろう」
デクスターは呆れたような目をフローラに向ける。初めて顔を合わせた当初は、そのクリソベリルのような緑の目を綺麗だと思ったフローラ。しかし今はそう思うことはない。
「サリーには俺しかいないんだ」
デクスターのその言葉に、フローラのアクアマリンのような青い目がスッと冷えた。
(またそれね。幼馴染の男爵令嬢、サリー・エノーラ・べリュー様のことばかり。確かサリー様の年齢は、私と同じ十六歳だったかしら)
この日はデクスターと演劇を見る予定だった。しかし、サリーが熱を出したと連絡があり、デクスターはフローラを放置してサリーのもとへ向かおうとしているのだ。
このようなことは今まで何度もあった。フローラはデクスターに約束を反故にされる回数を数えるのをすっかりやめていた。この日もきっとサリーが熱を出すなり何らかの体調不良になるだろうとフローラは予想していた。
「承知いたしました。デクスター様はサリー様の所へどうぞ」
「ようやく理解してくれたようだね」
呆れたような表情のデクスターに、フローラの心は更に冷える。
(エジャートン公爵家と繋がりが持てることは、ヴェイン侯爵家にとっても利になるけれど……)
政略により結ばれたフローラとデクスターの婚約。貴族の娘である以上政略の駒として使われる覚悟は出来ている。なるべく良い関係になろうと、フローラはデクスターに歩み寄ろうとするが、デクスターはいつも幼馴染のサリー優先でフローラを蔑ろにしていた。
デクスターの後ろ姿がどんどん小さくなる。初めて出会った時は、デクスターの赤毛を綺麗だと思ったが今はくすんで見える。
(このままデクスター様と結婚するのは憂鬱だわ……)
フローラはため息をついた。
その時、フローラの前に立派な馬車が止まる。馬車にはフローラにとって見慣れた家の紋章が刻まれていた。
「ごきげんよう、フローラ様」
「まあ、ラヴィニア様。ご機嫌よう」
馬車の窓からひょこっと顔を覗かせている令嬢は、公爵令嬢ラヴィニア・シャロン・サックヴィル。ふわふわとしたブロンドの髪に、エメラルドのような緑の目を輝かせている。フローラと同じ十六歳で、可憐な見た目の令嬢だ。
ラヴィニアは馬車から降りて来た。
「フローラ様、今日はエジャートン卿と約束があると聞いていましたが、もしかしてまたいつもの……?」
「ええ、またサリー様ですわ」
フローラは苦笑して肩をすくめた。
「エジャートン卿、本当に何を考えているのかしら?」
ラヴィニアは呆れたような表情だ。
「お兄様もそう思いません?」
ラヴィニアは馬車の中に目を向けた。
すると馬車からラヴィニアと同じ、柔らかな癖のあるブロンドの髪にエメラルドのような緑の目の、甘い顔立ちの令息が降りて来た。
「確かに、エジャートン卿には腹が立つね。フローラ嬢を放置するとは。何の為に婚約したのだか」
馬車から降りてきた令息は憤りを感じているようだ。
「ヘンリー様……」
フローラは苦笑する。
ヘンリー・ケネス・サックヴィル。ラヴィニアの二つ上の兄で、サックヴィル公爵家長男だ。
「やあ、フローラ嬢」
ヘンリーの優しげな瞳がフローラに向けられる。
ヘンリーとは、ラヴィニアを通して出会った。友人であるラヴィニアの兄ということで、気を許している。
「ねえ、フローラ様。ということは貴女今時間あるわよね? せっかくだし、私とお兄様と三人で演劇を見ない? お兄様とフローラ様が二人きりだと不貞を疑われてしまうけれど、私がいれば問題ないわよね」
エメラルドの目をキラキラと輝かせているラヴィニア。
「ラヴィニア、いきなりではフローラ嬢にご迷惑では?」
「何を言っておりますの? お兄様、これはチャンスですわよ」
ラヴィニアはニヤリと笑い、ヘンリーに耳打ちしていた。
「えっと、ご迷惑でなければせっかくですしラヴィニア様達と演劇に行きたいですわ」
フローラにとってはデクスターに約束を反故にされ暇になってしまったので、友人との演劇へ行っても問題はない。フローラはラヴィニア達と今日行く予定だった演劇に行くことにした。
「それならばフローラ様、是非馬車へ。ほら、お兄様、フローラ様をエスコートしてくださいませ」
「あの、私エスコートなしでも馬車に乗れますわ」
「いえ、フローラ様にはお兄様にエスコートしてもらわないと」
前のめりになるラヴィニア。その表情は明るく楽しそうである。
「フローラ嬢、ラヴィニアは言い出したら聞かない。迷惑でなければ僕にエスコートさせて欲しい」
照れたような甘い顔でヘンリーに見つめられ、ヘンリーに手を差し出されるフローラ。
思わずフローラの胸は高鳴った。
「……よろしくお願いします、ヘンリー様」
フローラはヘンリーの手を取り、サックヴィル公爵家の馬車に乗り込んだ。
演劇ではサックヴィル公爵家の力でボックス席に座ることが出来た。フローラは三つある席の中で端に座ろうとしたが、ラヴィニアに強く真ん中を勧められ、真ん中の席に座ることになった。席の並びはヘンリー、フローラ、ラヴィニアの順である。演劇に夢中になっていたら、隣のヘンリーから甘い表情を向けられ胸が高鳴るフローラであった。
(どうしてヘンリー様に対してこんなにもドキドキするのかしら……?)
そんな二人の様子を、ラヴィニアはニマニマしながら見ていたがフローラはそれを知らない。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
フローラが夜会やお茶会など、社交界に顔を出しながら一ヶ月程経過した。
そしてまた婚約者であるデクスターとの交流の日がやって来た。この日は王都のカフェで過ごす予定である。
(どうせまたサリー様が倒れたとか何かでデクスター様は帰って行くのでしょうけど)
フローラはもうすっかりデクスターに期待しなくなっていた。この婚約を解消したくても、届いた縁談でヴェイン侯爵家に一番利があるのはエジャートン公爵家との縁談だった。他の縁談は既に断ってしまっているからどうしようもない。
ふとフローラの脳裏に浮かんだのは、ヘンリーの姿。
(サックヴィル公爵家……ヘンリー様が私に縁談を申し込むなんて都合の良いことないわよね。婚約者がいる者に横から縁談を申し込むなんて非常識なこと、普通は出来ないもの)
フローラはため息をついた。
(ていうか……私、ヘンリー様のことが……!)
たった今自分の気持ちを自覚したフローラ。鏡を見ると、その頬は赤くなっている。
フローラはため息をつき、自身のアッシュブロンドの真っ直ぐ伸びた髪に触れた。
「フローラお嬢様、そろそろ出ないとエジャートン卿との約束のお時間に間に合いませんが」
「そうね、今行くわ」
使用人にそう言われ、フローラはヴェイン侯爵家の馬車へ向かう。
(交流の日にデクスター様は迎えにも来てくれない。もう慣れたわ)
フローラは憂鬱な気持ちで馬車に乗り込み、約束のカフェへ向かった。
「すまない、フローラ。サリーがまた熱を出した」
「まあ……」
カフェに着いてからデクスターは予想通りの言葉を発した。
「では早くサリー様の所へ」
何の感情も込めず、フローラは機械的にそう言葉を発した。
「理解が早くて助かるよ。フローラは体が丈夫で恵まれているのだから」
(体が丈夫だったら何しても良いわけではないのに。まあ、この男には通じないわね)
フローラは何も言わず、立ち去るデクスターの後ろ姿すら視界に入れなかった。
(予想は出来ていたことだし、帰りましょうか)
フローラがヴェイン侯爵家の馬車に乗り、王都の屋敷に戻ろうとした瞬間、見慣れた馬車が止まる。
「フローラ様、ご機嫌よう」
「まあ、ラヴィニア様……!」
目の前に、サックヴィル公爵家の馬車が止まったのだ。
ラヴィニアがいるということは、もしかしたらヘンリーもいるかもしれない。
フローラの鼓動が高鳴る。
「やあ、フローラ嬢」
フローラの予想通り、馬車の窓からヘンリーが顔を覗かせた。優しげな表情でフローラを見つめている。
「ご機嫌よう、ヘンリー様」
ほんの少し緊張で声が上擦ってしまうフローラ。
「ねえ、フローラ様。今日はエジャートン卿との交流の日だと聞いていたけれど、もしかして……」
「ええ、いつものサリー様ですわ」
「まあ……」
ラヴィニアは盛大に呆れている。
「だったら、この前の演劇みたいに三人でお茶会をしましょうよ。サックヴィル公爵家の王都の屋敷に珍しい茶葉が今ございますのよ。フローラ様、どうかしら?」
エメラルドの目をキラキラと輝かせているラヴィニア。
フローラはチラリとヘンリーに目を向ける。
「ラヴィニアもこう言っているし、フローラ嬢さえ良ければサックヴィル公爵家の王都の屋敷に来てくれないだろうか?」
その甘い表情でそう言われてしまえばフローラも断れない。
「では、お言葉に甘えて」
フローラはヘンリー達とお茶をすることにしたのである。
そしてこの日の夜、ヴェイン侯爵家の王都の屋敷に戻ったフローラは、婚約者であるデクスターがサリーの元へ向かう途中に事故に遭い亡くなったと聞かされた。
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