第1話 帰らない花嫁
濃い霧に沈む、幽黒城。
城の主、吸血鬼ジュールは小さく息を吐いた。
ページをめくる手が止まる。
「……また、か」
門の前に、娘がひとり立っていた。
門柱に止まるカラスの目の先で、質素な馬車が慌てて走り去って行く。
城に青薔薇が咲けば、この地に豊作と安寧がもたらされる。
だから領主は、盟約と称して「花嫁」を送りつけてくる。
正面から入ったふりをして、どこかで引き返す。村に戻れば、「気に入られなかった」と言えばいい。
見張りが「確かに城に入った」と証言すれば、それで済む。
「……つまらない」
目を離そうとした時、カラスがひと鳴きした。
青い婚礼衣装を引きずり、娘が門をくぐった。
「おや……」
正面には向かわない。
壁伝いに裏手へ回った。
やがて娘の姿は、建物の陰へと消える。
ずいぶんと古びた婚礼衣装だった。酷く痩せている。
これが最後の「贄」か。
薔薇が咲かなくても、困らなくなった。それで厄介者でも寄越した。そんなところだろう。
カラスが追い払う。
ジュールは視線を戻した。
◇◇◇
その夜。
喉の渇きを覚え、ジュールは厨房へ足を向けた。地下の貯蔵庫に行く早道。
扉を開けた瞬間、足が止まる。
「……なんだ、あれは」
隅に、白い塊があった。
近づくと微かに寝息が聞こえた。
――昼間の娘か。
いつの間に入り込んだのだろう。
それも、こんな場所で。
火の気のない、冷えきった厨房の隅で。
傍らには小さな手提げ袋がひとつ。
その横に婚礼衣装が丁寧に畳まれていた。
よく見ると、色褪せたそれは、引き裂かれ、装飾を失っていた。
「……花嫁、ね」
思わず苦笑が漏れた。
こんな有様で送り込むとは。
それとも——
「下女のつもりか?」
それも違う。そんな者をわざわざ寄越すわけがない。
白い塊が、かすかに震えている。
寒いのか。
「……捨て猫みたいだな」
叩き起こして追い出すか——
ほんの少しだけ、迷った。
ジュールは暖炉に火を入れる。
薪が弾け、橙の光が広がる。
娘は起きない。
ただ、そのまま眠り続けている。
朝になれば勝手に出て行くだろう。
ここには、何もない。
朝。
結局、一睡もできなかった。
いつものことだ。
ぼんやりと廊下を歩いていると、鋭い音が響いた。
厨房の方だ。
ジュールは思わず駆けだす。
扉を開けると、娘が体を丸めうずくまっていた。
視線の先、暖炉はまだ赤々と燃えていた。
――火が、怖いのか?
ジュールは無言で姿を消し、暖炉へと近づく。
火が消えても、娘は動こうとしない。
ただ、無表情で暖炉を見つめている。
「……どういうことだ」
初めて、正面から娘を見る。
長い髪が、顔の半分を隠していた。
見える側の表情には、何もない。
恐怖も、安堵も、何も。
娘は這うように布から出てきた。
すり切れた服に、傷だらけの手足。
花嫁でも下女でもない。
何者だ。
使い古され、捨てられた人形。そんな風にも見えた。
「どこへでも行け」
娘は返事をしない。
すぐに出ていく。
そう望んでいるはずなのに。
なぜか、目が離せなかった。
毎夜、ジュールは薔薇園へ足を向ける。
月明りの下で、青いつぼみが風にそよいでいた。
地に手をつくと、土が濡れていた。
「……誰が」
雨は降っていない。
まさかと思い、厨房に行くと娘が眠っていた。
暖炉は消えたまま。
「何故だ」
庭師でもないだろうに。
名も知らぬ娘の行動が、妙に引っかかる。
なぜ出ていかない?
企みでもあるのだろうか。
「……明日には出て行くだろう」
――翌日も。
娘は薔薇に水をやっていた。
さらにその翌日も。
夜、厨房を覗くと変わらず娘は眠っていた。
――食事はどうしているのだろう。
ジュール自身は食事らしいものを口にしなくなって久しい。
手提げ袋を探ると、煎った豆がわずかばかり入っていた。
「誰が持たせた……」
娘が火を使ったとは思えない。送り出した者がいる。
「ひとりでないなら帰れ」
この娘も孤独だと勝手に決めつけた自分が、ひどく惨めに思えた。
厨房の小さな窓をカラスが覗く。
娘は水をまき終わると、厨房の掃除を始めた。
黙々と、休むこともない。
ジュールは慌てて厨房に鍵をかけた。城中を好き勝手に歩き回られるなどごめんだ。
娘は開かない扉に戸惑う様子もない。
行き場を失い、また床を磨き始めた。
――ここに居着くつもりだ。
「お願いだから、出て行ってくれ」
――翌朝も。
城門へは向かわなかった。
なぜ自分は、あれを追い出さない?
この城に得体の知れない者がいる。
役にもたたない娘ひとりに、何を迷うことがあるのだろう。
深いため息をついた。
これではますます眠れなくなる。
「あれを呼ぶか……」
開け放した窓から、フクロウが入って来た。
ふっと姿が消えると、ジュールの前に魔女イゾルデが椅子に座っていた。
齢はわからないが、艶のある豊かな黒髪。あの娘とは対照的だった。
薬瓶が音もなく置かれた。魔女の作る眠り薬だ。
代価は、青薔薇のつぼみと生きたコウモリ。
「次の取引まで待てないなど。初めてだね」
「少しおかしなことが起こった」
つぼみを指でつまみ、不服そうなイゾルデが「おや」とジュールの赤い目を覗く。
「誰かの首筋に牙を突き立てたのかい?」
「獣のような真似はしない」
「それこそ、おかしなことだ」
血を嫌う吸血鬼など聞いたことがないと、イゾルデの口元が歪む。
笑っているのだろう。
ジュールは思い切りしかめ面をして見せた。
娘の話を聞かせてやる。
「あれは隠し子だよ」
「どういうことだ」
「領主の妻が、娘可愛さに押し付けたんだろう」
花嫁は領主一族から出すことに決まっていた。
ジュールが望んだわけではない。誰を寄越そうと構わないが……。
「何かの役に立つかも知れないよ」
魔女は笑ってはいなかった。
本当にそう思っている。
ジュールには到底思えなかった。
「世話をする者が必要だろう」
「僕にしろと?」
「花嫁なんだろう?」
本当におかしなことになった。
「使用人を置けばいい。あてはあるかい?」
首を振れば、魔女の姿は消えていた。
「起きなさい」
声だけが厨房に響く。
白い塊がびくりと動いた。
娘は体を縮ませ、小さな声で「ごめんなさい」と繰り返す。
初めて聞いた娘の声――
もう少しだけ、近くで見たいと思った。
「名は?」
娘は声の主を探すでもなく、床を見つめたまま何も言わない。
――ならば。
ジュールは娘の白い髪を手に取った。
「名はビアンカだ」
娘は初めて顔を上げた。
青い瞳に何も映ってはいない。
――美しいと思った。
「何をしにここへ来た?」
「……薔薇を咲かせる。それだけ」
「もう水は撒くな」
初めてビアンカの表情が動く。
「あの薔薇は特別だ。水は不要」
小さくうなづいた。今度は納得したようだ。
「では何を……」
「好きにしろ」
出て行きたければ、それでいい。
それでも。
ビアンカは、城から出ようとしなかった。




