私を呼ぶ声①
幼い時に母が行方居不明になった主人公。ある日、寝坊した主人公が閉じかけた踏切に飛び込もうとしたところを、怪しげな男に制止される。その男の出で立ちを不審に思った主人公が逃げるように走り去った後、男は服の袂から小さな小瓶を取り出し、その口を踏切に向けた。
街明かりに消されて、片手で数えるまでもない星を眺めながら、宮路渚はゆっくりと動く夜空を窓越しに見つめていた。氷が溶け出して、上と下で二層に分かれ始めた麦茶が「カロン」と音を立てる。渚は麦茶を飲み干して、ほとんど見えない星空鑑賞を終わりにした。
――星座なんてわからないけど、いつか満天の星空を見たいな。長野とかに行けば見られるのかな。
そんなことを考えつつ、瞼の裏で輝く星々をひとつひとつ撫でているうちに渚は眠ってしまった。星と星の間の闇に脳が溶けていく。
「な……さ。なぎ……さ。……へ……って」
鼓動の異常な早さに渚の目がかっと開く。息も荒い。まだハッキリしない視線を天井に定めて、とりあえず呼吸を整えていった。ここ数日、渚はこんな起き方をすることが増えていた。
なぜ目を覚ましたのか思い出そうとしても、掴めそうになるとするりと指の間を落ちていき消えてしまう。なんとも言えない疲労感に、渚は寝不足になっていた。
呼吸が落ち着いたところでゆっくりと体を起こし、改めて深呼吸をする。息を大きく吐き出したところで、ようやっと時計を見た渚の心臓が跳ねた。
「なぎさー! 起きてるかー!」
1階から渚の父、宮路康太の声が響く。今更声をかけてきても遅いと、渚は心の中で舌打ちをする。父はどこかのんびりしていて、そこに渚はとてもイライラさせられる。なぜ母はこの人と結婚したのだろうとさえ思っていた。
その理由を聞きたくても、母はいない。渚が7歳の時にいなくなったからだ。きっと帰ってくると、父は何度も幼い渚に言い聞かせていたが、結局渚が14歳になった今も戻ってきていない。そのことを考えると渚は無性に腹が立って仕方がなかった。
「行ってきます。お母さん」
写真の中では、小さい渚と母が笑っている。母の顔は渚の中で、写真の顔のまま動かない。
今日の1時間目は国語だ。担当の天野先生は遅れてもきっと許してくれるだろうが、内申点は落としたくない。もうすぐ中学最後の夏休みなのだから、ここで落としてしまっては今までの苦労が水の泡だ。なんとか授業が始まるまでに教室に着きたい。そんなことを考えながら、渚は勢いよく家を飛び出した。
ジリジリと焼ける太陽の中を、息も絶え絶えに渚が走っていると、目の前の踏切がけたたましく鳴り始めた。
「嘘でしょ!? 待って待って!」
ここは開かずの踏切。一度閉まったらなかなか開かない。大音量で警報音が鳴り響き、容赦なくバーは下りてくる。完全に閉まる前に走り抜けようと渚が足に力を込めた時、突然後ろから大声が降ってきた。
「よしなせぇ!」
渚の足がもつれてテンポが狂う。なんとか転ばずに踏ん張ったものの、踏切のバーは無情にも渚の目の前で通せんぼをして、電車はこれ見よがしに目の前を通過していった。1時間目に遅刻確定の瞬間だった。
「いやぁ、危なかったでさぁ。もうちょっとでお前さん、粉々になってやしたよ?」
「うるさい……」
「え?」
「うるさい! あんたのせいで遅刻確定じゃない!」
「それは八つ当たりってもんでさぁ。遅刻するような時間に起きたのが、そもそも悪いんでやんすよ」
「なっ!」
「この踏切は事故も多い。駆け込み侵入は、お勧めしやせんね」
のらりくらりと渚の八つ当たりをかわしてしまうこの男は突然現れた。さっき渚が通った時にはいなかったし、何より佇まいの雰囲気が独特すぎて、渚の寝起きの脳みそではまず処理が追いつかない。
着物を着ているのに、その下にはちぐはぐなTシャツにぶかっとしたズボン。帯は締めているが、いかにも今慌てて出てきましたというようなだらしない格好だ。それなのにちゃっかりとお洒落なハットを頭に乗せて、靴も高そうな物を履いている。手を着物の袖に入れている姿が、いかにもな『浮世離れ感』を演出していた。
服装の次に渚の目が行ったのは、この男の瞳だ。まるで人間の瞳のようには見えない違和感を覚えた。急に渚の全身を鳥肌が駆け抜ける。あまり関わってはいけない。そう本能が警告音を出していた。
「そう怖い顔しなさんな。取って食ったりしやせんよ」
肩をわざとらしくすぼめてみせるのが、余計に胡散臭いこの男。渚は男を睨んだままカバンを強く抱きしめる。
「別に。そういうんじゃないけど」
「そんなら命の恩人にもっと愛想良くしてくだせぇ。まるで蛇に睨まれてるみてぇで、背中がゾクゾクしてきやがる」
「蛇、嫌いなんだ」
「好きか嫌いかで言ったら、嫌いでさぁ。あの冷たい感じが」
「なんで? 目とかまん丸で可愛いのに」
「『今時女子』の考えるこたぁわからんことばっかでさぁ」
わけわからん男に、わけわからん女扱いされるのは心外だと渚が言い返そうとした時、踏切がまるで他人事のように開いた。渚は言い返そうとした口をぽかんと開けたまま、「どうぞお通りなさい」と言わんばかりに障害の無くなった線路を見つめる。謎の男が、喉で声を殺すように笑う。
「開きやしたよ。これならまだ間に合うんじゃねぇですか」
「い、言われなくてもわかってる!」
「もう飛び込んだりけっつまずいたりしないでくだせぇよぉ!」
授業に間に合うかどうかよりも、早くこの場から立ち去りたい。もう二度と会いたくない。
その一心で渚は、ぐんぐんとスピードを上げて駆けて行った。あっという間に、その姿が陽炎の中に消えていく。
カバンを小脇に抱えてもの凄いスピードで走って行く渚の後ろ姿を、まるで思い出を眺めるような目つきで謎の男は見つめていた。
その輪郭がぼやけて誰ともわからなくなると、急に眼光をきつくして踏切の装置をにらみつける。先程から、お化けが怖くて隠れている子供のように、装置の周りの空気が微かに揺れているのを男は感じ取っていた。
「さて、ここいらでおいたしてるってぇ噂になってるのはお前さんのことか。自分が死んだことを信じられないのかなんなのかは知らねぇが、赤の他人まで巻き込むたぁ、随分お粗末な魂さねぇ」
言い終わるが早いか、男は袂から黒ずんだ小瓶を取り出した。形は壺にも似ているが、手のひらにすっぽり収まるほどの大きさしかない。男はそれの口を塞いでいる木蓋を取り、真っ直ぐと踏切装置に向けた。
『おぉぉぉおぉぉおぉ』
上空で吹き荒れる低くこもった風の音のような、何かの呻き声のような不気味な音が、男の手の中の小瓶に吸い込まれていった。男の周りに小さな渦風ができる。風が止むと音も止み、辺りは何も無かったように静かになった。男が小瓶の口を木蓋で閉じて、何かぶつぶつと唱えるとお札のような紙を貼り付ける。
また踏切が作動し、けたたましい音と共に電車が風を起こす。電車が通り過ぎて、鉄が錆びたような臭いの風が止むと、あっけなく踏切のバーは気をつけの姿勢に戻った。
「さぁて、これで一件落着。人間の都合を全部物の怪のせいにされちゃあたまりやせんからね。それに、縁も繋がりやしたし。……やっと、ようやっとでさぁ、澪さん」
男はまた懐かしそうに、もう見えない後ろ姿の陽炎を見つめた。突然強風が吹いたと思うと、男の姿はどこにも見えなくなっていた。
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