第五章 さいごの約束 〈13〉
渚のかたわらにひざをついた母子も一安心してホッと息をついた。秋田犬シリウスの飼い主である坂本さゆり母子だ。
「生きててよかったあ。……ねえ、どうしてこんなところで寝てるの?」
さゆりの問いかけに、渚があたりを見まわすと、そこは弁天神社の境内だった。渚は手水舎のわきで眠っていたらしい。青空に澄んだ空気がまだ朝の早いことを告げていた。
渚は思いだした。自分が深い海の地の底でカナエといっしょに〈大黒蟲〉を封印してきたことを。
海水に呑まれたはずだが、身体はまったくぬれていなかった。おそらくはカカ神さまの力によるものであろう。
もちろんカナエの姿はない。思わず拝殿をふりかえって見たが、カカ神さまがなにかを語りかけてくれることはなかった。
「ぼく、お母さんをさがしていたんですってね? あのあと2日も弁天町をたずねまわっていたの?」
(……2日?)
渚はぼんやりとした表情で坂本母子の顔を見た。
首から下げた筆談用のノートをとりだそうと、ダウンジャケットの中へ手を入れた時、ダウンジャケットのそでの下で勾玉の腕輪がゆれた。
カナエとすごした数日間が渚の夢ではなかったこと〈大黒蟲〉を封印してきたことが夢ではなかったことの証しだ。
渚はノートへ書いてたずねた。
『今日はなん日ですか?』
「え? ……今日は15日だけど」
さゆりの母がいぶかしげに答えた。
(……15日?)
渚がカナエと弁天神社へきたのは13日のお昼前だったはずだ。
「なんにもおぼえてないの? 昨日の午后とか何度か大っきな地震あったじゃん」
さゆりの言葉に渚が力なくかぶりをふった。きっとその地震は渚たちが〈大黒蟲〉を封印している時のものだ。地の底では渚が感じていた以上に時間が流れていたらしい。
しかし、本当のことを話しても信じてもらえるはずがない。渚は記憶を失っているふりをすることにした。よくも悪くも話せないため、いろいろと深く追求されずにすんだ。
『ふたりはどうしてここに?』
渚がノートでたずねた。弁天中学校の避難所から弁天神社まではかなりの距離がある。犬の散歩をするにしても、ガレキの散乱する町でここまでくるのは大変なはずだ。
「シリウスがつれてきたの。きっとあなたのことがわかったのね」
さゆりの母がほほ笑んだ。
シリウスがトイレを催促したので外へつれだしたら、さゆりの手からリードをふりほどいて、ここまで駆けてきたのだと云う。
もう二度とシリウスを失うまいと母子も必死だったらしい。
(そっか。ありがとな。シリウス)
だれもきてくれなければ渚はひとりで凍え死んでいたかもしれない。渚がシリウスの頭をなでると気もちよさそうに目を細めた。
シリウスがふと渚のななめうしろを見上げると、うれしそうに尻尾をふった。
渚は気がついた。シリウスには今も渚のかたわらにいるカナエの姿が見えているのだろう。渚も肩ごしにふりかえると心の中で云った。
(ぜったい忘れない。いつでもカナエがそばにいてくれること)
11
とどのつまり、下半身の激しい筋肉痛でまともに歩くことさえできなかった渚は、弁天中学校の避難所で坂本一家に介抱されて一夜をすごした。
渚がさゆり母子へシリウスをかえした日の夕方には、さゆりの父もさゆり母子と再会していた。さゆりの父が渚に感謝したことは云うまでもない。
翌日、渚は避難所をまわっている自衛隊の給水車で、月見山の避難所まで送りとどけてもらうことができた。
この数日で被災した町のおちこちに重機が入り、最低限度の道路は整いつつあった。
5日前に渚が見た巨大なマグロ漁船はさすがに手つかずのままだったが、マグロ漁船のふさいだ道をさけるように道が1本通っていた。
座席位置の高い給水車の助手席からガレキの町を見下ろすようにながめながら、渚は自分が2日かけて必死に歩いた道のりをあっと云う間に走りぬけてしまうことに、ふしぎさとさみしさをおぼえた。
給水車は宝船町にあるいくつもの避難所をまわって月見山の避難所へ着いた。




