第三章 ガレキの町 〈6〉
渚はひとりで屋根を下りると大きなベニヤ板の上に立った。ベコボコとたよりない音がする。
(かみつかれたりしないよな?)
一瞬近づくのをためらった渚に気づいた秋田犬が体を起こすと、舌をだしてあえぎながら、くるっと丸まった太く長い尻尾をパタパタとふった。人なつっこい犬であるらしい。
(すぐにひっかかったひもを外してやるからな)
安心した渚が声のでない口でそう云いながら、犬のうしろへまわる。
カナエも緋ばかまのすそを地面へすって汚さないように、ももとふくらはぎではさんだまま、正座のような体勢で犬の前へふわふわと近づいた。
「よしよし。もう大丈夫だからね」
カナエがやさしく犬の頭をなでると、犬もうれしげに目を細めた。
(え? カナエそいつにさわれるの? そいつもカナエのこと見えてるの?)
「渚、知らないの? 犬とか猫はユーレイとか〈闇蟲〉なんかも見えるんだよ」
(いや、ふつう知らないって)
「もー、ちょーカワイー!」
きゃらきゃらとはしゃぎながら犬の身体をなでまくるカナエに渚があきれた。
(カナエ、ひもがのびてたら外せないだろ)
「え? あ、そっか。めんごめんご」
カナエと犬がじゃれあうせいで、犬のリードがピンとはっていた。
「よいコだから、ちょっとうしろ下がろうね」
カナエの言葉に犬がちょっとあとずさっておすわりした。ひっかかっているリードがゆるんでパタリとベニヤ板の上に落ちる。
渚は残骸にひっかかっていたリードのもち手の輪になった部分を外した。
リードの外れたことに気づいた犬がうれしそうに立ち上がった。しかし、リードからつたわる犬の力が心なしか弱い。
(ねえカナエ。こいつおなかが空いてるんじゃないかな?)
渚がリードを手にしたままたずねると、
「うん。昨日から飲まず食わずだもん」
とカナエがうなづいた。
(じゃあ、乾パンと水をわけてやんなきゃ。どっかに水を入れる器とか落ちてないかな?)
渚はカナエに犬のリードをあずけ、背負っていた銀色の防災袋をおろすと、あたりを見まわした。
(ちょっと見てくる)
「あんまりはなれないでね」
(あ、そっか)
渚とカナエの20mだ。それ以上はなれると、カナエの姿は消えてしまう。
渚は屋根にかかっていないベニヤ板のまわりのガレキに目をこらした。ごろごろと転がる廃材の下には、さまざまな生活用品が泥にまみれてうまっていた。
昨日までだれかがここでしあわせに暮らしていたのだろう。きっと自分の家も思い出といっしょに泥の中なのだろう。そう思うと渚は少しせつなくなった。
渚はガレキの下から場ちがいなほど明るいピンクのシリコンスチーマーを拾った。ゴムのようにやわらかく、電子レンジで煮物をする時に使う容器だ。
もちろんフタはなかったが、適度にはば広で適度に底があさい。とりあえずの犬の水飲み皿としてはじゅうぶんだ。
(カナエ、これでどう?)
容器についた泥を小さな水たまりで落としてカナエに手わたすと、
「うん、よいね。ありがとう」
カナエが防災袋から新しい水のペットボトルをとりだして水をそそぎ、犬の前に置いた。犬がちゃぴちゃぴとはずんだ音をたてて水を飲んだ。よほどのどがかわいていたらしい。
「大丈夫だよ。あわてなくてよいから、ゆっくり飲んで」
カナエの言葉に犬の挙動が落ちついた。さっきよりもしずかに水を飲んでいる。
(こいつ、どっからきたんだろ?)
「弁天町だって」
(やっぱ、カナエは動物の心が読めるんだ?)
「さすがにこのコも人の言葉や文字がわかるわけじゃないから、自分の住所までは知らないって。ほら、ここに書いてある」
カナエが犬の首輪を指さした。
首輪の茶色い皮の部分に油性マジックで「べんてん町4の9の17 坂本」と書いてあった。子どもの字だ。
「こっちがこのコの名前」
首輪に金属の小さなプレートがついていた。「Sirius」と彫られている。
(これなんて読むの?)
英語のわからない渚がカナエにたずねた。
「シリウス。おおいぬ座の星の名前だよ」
(ふうん。思いっきり日本の犬なのに、カッコイイ名前だね)
渚がシリウスの頭をなでると、シリウスがイヤそうにかぶりをふった。
「水飲むのにじゃまだって」
(……悪かったな)
ぶ然とする渚の顔を見てカナエが笑った。
「でも、これで最初の目的地が決まったね」
(目的地?)
「渚のお母さんをさがすためには、まず弁天町の避難所をまわるしかないじゃん。弁天町4丁目近辺の避難所へいけば、このコの飼い主の坂本さんも見つかるかもしれないし」
(シリウスは飼い主といっしょじゃなかったの?)
「このコの記憶から読みとった感じだと、首輪に住所を書いたのは、さゆりちゃんって云う渚より少し年下の女のコ。地震の時はお母さんと車でどこかへでかけていて留守だったみたい」
(じゃあ、シリウスはひとりで津波に呑まれたのか。よく助かったな)
「リードは短い木の杭にひっかけられていただけだから、最初の津波で簡単に外れたんだね。ひき波で沖へ流されたんだけど、漂流してたこのベニヤ板にのることができて、何度目かの津波でここまで流されてきたみたい」
カナエがそう云いながら乾パンをいくつも手のひらにのせると、水を飲みおえたシリウスの鼻先へさしだした。
シリウスがカナエの手から乾パンを食べる。
「やっぱり、ちょーカワイー! ……や、手のひらなめないで。生あったかい、ぬふっ、くすぐったい!」
渚には、シリウスが津波を生きぬいたことは、渚の母が生きている希望のように感じられた。
(……そうだ、カナエ。カナエたち神さまはきずなが強くなれば、よその町にもついていけるって云ってたよね。シリウスについてる弁天町の神さまと話とかできないの?)
弁天町の神さまがシリウスについていれば、渚の母・恵子にもついているであろう弁天町の神さまと意識がつながっているはずである。
そのため、弁天町の神さまにたずねれば、渚の母の居所がわかると渚は考えたのだが、楽しげにおかわりの乾パンをシリウスに与えていたカナエが、申しわけなさそうに首をふった。
「動物は人間ほど長期記憶がしっかりしていないから、管轄をはなれちゃうとついていけなくなっちゃうんだよね。私の神さまの力も弱いせいで、すぐこのコに気づいてあげられなかったし」
(そうなんだ……)
「でも今は私が宝船町のとしてシリウスの守護と祝福を24時間ばっちりサポートしてるからまかせて!」
エヘンと神さまのプライドを誇示するカナエに渚は落胆した。
(そう云うことじゃないんだけど……まあ、しょうがないか)
しゃがみこんだままほおづえをつく渚へ、とりあえずおなかのくちくなったシリウスがすりよった。
「なんか元気ないね。さっき邪険にしたことおこってるの? あやまるから元気だして、って云ってる」
シリウスの気もちをカナエが通訳した。
(おこってないよ。……おまえいいヤツだな)
渚がシリウスの頭をやさしくなでると、シリウスもうれしげに目を細めて渚の腕へ頭をこすりつけた。
(よっし。それじゃ、ぼくは母ちゃんを、シリウスは飼い主をさがしに出発しよう!)
渚がひざに手をあてて立ちあがると、防災袋に乾パンやペットボトルをかたづけたカナエが力強く云った。
「行こう。渚、シリウス!」
シリウスも尻尾をふって「ワン!」と一声元気にほえた。




