第二章 泣き虫の神さま 〈2〉
カナエの云うように、この神社は渚が幼いころからお気に入りの遊び場であり、祖父との思い出の場所でもある。
3年前に亡くなった渚の祖父は、この神社から海をながめるのが好きだった。
渚は赤ん坊のころから祖父へつれられて、ここへきていたと聞いている。カナエの言葉に、神社で祖父とかくれんぼした記憶がよみがえる。
「ちっちゃい渚がひとり遊びしてる時は、トト神さまが渚のおじいさんの代わりに、かくれんぼの相手をしてたんだって。よいなあ……」
カナエが小さくため息をついた。手のひらの上で淡く光る透明な宝玉を愛おしそうに見つめるカナエの瞳がうるんでいた。
(……カナエ?)
今にも泣き出しそうなカナエの表情に心配して、渚が声をかけた。
「私もトト神さまとかくれんぼとかして遊びたかったな。……この宝玉には、トト神さまの千年におよぶ記憶と知識のすべてが入ってるんだって。私の図書館みたいなもんね。私がこれから〈産土神〉として生きていくために必要だからって、のこしてくれたの」
のこしてくれた、と云う言葉が渚の胸に小さく引っかかった。
(……トト神さまは今どこにいるの?)
カナエはとびらの方へ顔をむけた。視線はずっと遠くを見つめている。
「海の下の地の底。今日の震源地。そこに〈大黒蟲〉ってよばれる巨大魚がいるの。それが地震と津波を引き起こした。トト神さまたちには、7日前から今日の災厄がわかっていて、人々の夢や意識へ警告を発しつづけていたんだって。3日前に私が生まれたから、トト神さまは私にお役目を引きついで、少しでも地震や津波の被害から町を守るため〈大黒蟲〉を鎮めにいったの。海ぞいの町のたくさんの神さまが、海へ向かうのを見た」
(……たくさんの神さまが地震を鎮めにいって、こんなヒドイことになってるのかよ!? なんだよ! 神さまなんてなんの役にもたたないじゃないか!)
津波に呑みこまれる町をぼう然とながめているしかなかった渚の絶望と恐怖が、やり場のない怒りとなって爆発した。
「ふざけたこと云わないで! 神さまたちががんばってくれてるから、この程度ですんでるんだよ! 渚だって、私が助けなきゃ、今ごろ(つなみ)に呑まれてたんだよ!」
カナエもくちびるをふるわせながら、どなりかえした。カナエの神さまらしくない剣幕に、渚はたじろいだ。
「私がどんな想いであなたたちを助けようとしたかわかる!? 私だって生まれてからこの3日間、ずっとあなたたちによりそいながら、地震が起こることを警告しつづけてたんだよ! 今日だって、私、何度も云ったよね? 早くにげなきゃダメだって! だれひとり死なせなくなかったから、必死でさけびつづけていたのに!」
カナエの瞳から涙がひとしずくこぼれ落ちた。
「あなたたちが、もっと自然や地球に対して謙虚な気もちをもっていたら、私たちの言葉はとどいていたはずなのに! 渚は安全なところから見ているだけだからわからないでしょうけど、私はたくさんの人たちが津波に呑まれて亡くなっていく姿を、よりそいながら見ていることしかできないの! 今こうしている間も、私の目の前で町の多くの人が苦しみながら冷たい海の底へ沈んでいく。ガレキの下で冷たくなっていく。私はその姿から目をそむけることができない。助けてあげることができない。これがどれほどつらくてくやしくて苦しくて哀しいことか、渚にはわからないでしょう!? 私に力があれば、渚の友だちだって、もっと助けてあげられたのに……」
(ちょっと待って! みんなは……、みんながどうなったか知ってるの!?)
カナエは激情にかられて云いすぎたことに気がついた。渚を動揺させないためにも、だまっておくべきことがらだった。しかし、もう手おくれである。
カナエはため息をつくと、しずかに語り出した。
「……公民館に着いてた3年生のうち32人は、公民館の屋上へ避難して助かってる。公民館は水に浸かってるから、みんなまだ屋上で寒さに凍えながら身をよせあってる。とっさの判断で公民館より高いところへ避難しようと走った4年生25人と5年生13人も無事。ぐるっと遠まわりして宝船高校体育館の避難所にいる。みんなも渚みたいに引っぱり上げようと手をのばしたけど、私の手をつかめたのは、5年生の石井君て人と、渚のクラスメイトの大橋さんだけだった。ふたりも高校の避難所で無事」
大橋さんは教室を出る時、背中についていた蛍光灯の破片をとってくれた女の子だ。
特別親しいわけではないが、知りあいの無事を聞いて渚はうれしくなった。心なし声にならない言葉がはずむ。
(じゃあ、大塚先生は? 田辺っちは? 樋口は? 瀬戸川は?)
カナエはくちびるをかみしめながら目をふせた。不自然な間に、渚はその意味するところを察したものの実感できずにいた。
(え……? 大橋以外にも、クラスで無事だった人いるんだろ?)
渚のすがるようなまなざしに、カナエはうつむいたまま答えなかった。
(なあ、ウソだろ? カナエ……)
「うっく……、ひっ……」
カナエは肩をふるわせながら嗚咽をもらしていた。ひざの上の両こぶしが白くなるほど強く緋ばかまをにぎりしめていた。
渚は自分が小さな女の子を泣かせてしまったことにあわて、そして後悔した。
カナエは自分と同じ年くらいの姿をしているが、生まれてまだ3日しかたっていないと云う。しかも、その3日間、きたるべき災厄にそなえて、町の人々に警告を発しつづけていたと云う。
そして、この悲劇である。
〈神さま〉とは名ばかりのいたいけな少女は、うれしいことや楽しいことを味わうより先に、多くの人々の苦しみや哀しみと今も向きあっているのだ。
渚はカナエが自分の想像以上につらい想いをしていることに、おそまきながら気がついた。
(あの……、ごめん、カナエ。ぼく、自分のことばっかり考えてた。……そうだよな。カナエはぼくなんかよりぜんぜん年下なのに、つらくないわけないよな。それに、助けてくれてありがとう。ホントは一番最初に云わなくちゃいけなかったのに……、ヒドイことばっか云って、ごめん)
「ひっく……、うわぁーん!!」
渚の言葉にカナエは顔を上げて号泣した。カナエは生まれてから3日間、自身のつらいお役目にずっと耐えてきたのだ。
だれに気づいてもらえるわけでもない。
だれに感謝されるわけでもない。
それでも、必死に人々を守ろうと全力をつくしてきた。しかし、多くの人々を助けることができなかった。
内心、自分の非力さに打ちひしがれていたのだが、カナエは生まれてはじめて人に感謝されたのである。
「ありがとう」の一言が、カナエの胸の奥であたたかく大きな光となって全身へしみわたった。自分のしてきたことがまったくのムダではなかったことに、ほんの少しだけ心なぐさめられた。
カナエは哀しくて、そしてうれしかった。
一方、渚は困っていた。自分の言葉でカナエは泣きやむどころか、ますます激しく泣きじゃくっていたからである。
どうにかしてなだめようと、おろおろしながら近づいた渚は、突然、胸に頭つきをくらって、あおむけに倒れた。
カナエが渚の胸に顔をうずめて泣いていた。渚は倒れたまま胸に押し当てられたカナエの顔や涙のぬくもりを感じていた。
(……神さまもあたたかいんだな)
渚は妙なことに感心しながら、空いている右手をカナエの頭におそるおそる乗せた。これでもなぐさめているつもりだった。
(ぼくもカナエを助けてあげられるだろうか?)
黄色いハダカ電球に照らされた神社の天井を見つめながら、渚は思った。