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第1話:戻らない日常

 朝の現場は、音でできている。


 木材を打つ乾いた音。釘を叩くリズム。丸ノコが回る甲高い回転音。

 誰かの「そこ押さえろ!」という声に、「はい!」と返す声が重なる。


 湿った木の匂いと、少し甘い削りカスの匂いが混じっていた。


 仲村大輔は、その中に紛れていた。


 ヘルメットをかぶり、軍手をはめて、言われた通りに動く。

 資材を運び、道具を渡し、指示が来るまで待つ。


 それだけの役割。


 正社員じゃない。

 現場ごとに呼ばれるだけの、不安定な立場。


 今日があっても、明日がある保証はない。


 それでも——


 「……まあ、こんなもんやろ」


 小さく呟く。


 普通の生活。

 特別でもなんでもない、ただの一日。


 戻ったはずだった。


 全部終わって、全部切って、

 “あっち側”とは関係のない場所に。


 大輔は腰のメジャーを引き出した。


 柱と柱の間を測る。

 大工の指示で位置確認をしているだけだ。


 何度もやっている単純な作業。


 メジャーの目盛りに視線を落とす。


 「……九一〇」


 無意識に、口の中でなぞる。


 九百十ミリ。


 一瞬、手が止まった。


 「……またか」


 小さく漏れる。


 頭の奥に、言葉が浮かぶ。


 三尺。


 その響きだけが、妙に鮮明だった。


 大輔は眉をひそめ、メジャーを引き戻す。


 「関係ない」


 吐き捨てるように言う。


 思い出すな。

 あれはもう終わった話だ。


 そう決めたはずだろう。


 別の柱に移る。


 もう一度、測る。


 「……九一〇」


 同じ数字。


 当たり前だ。木造の現場なら、柱の間隔が揃っているのは普通のことだ。

 むしろ、揃っていなかったら困る。


 それでも——


 「……揃いすぎやろ」


 ぽつりと漏れる。


 少し位置を変えて測る。

 やはり大きくはズレない。


 偶然じゃない。設計通り。


 分かっているのに、引っかかる。


 「おい、大輔」


 後ろから声が飛ぶ。


 振り返ると、大工の男がこちらを見ていた。


 「どうした? 手ぇ止まってるぞ」


 「ああ、いや……なんでもないっす」


 慌てて答える。


 メジャーを腰に戻し、視線を外す。


 「ならええけど。次、こっちな」


 「はい」


 短く返して、また動き出す。


 誰にも言えない。


 言ったところで、どうなるわけでもない。

 変な顔をされるだけだ。


 ——三尺。


 その言葉が、頭の奥に残る。


 消そうとするほど、輪郭を持つ。


 「……うるさい」


 小さく吐き出す。


 木材を運ぶ。

 足場板の上を歩く。

 釘を拾って渡す。


 体を動かして、考えないようにする。


 それでも、ふとした拍子に——


 声がよぎる。


 「もうええって」


 笑いながら言う、あの声。


 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ、耳の奥で鳴る。


 大輔は顔をしかめた。


 「……終わった話や」


 それ以上は続けない。

 続けたら、戻れなくなる気がした。


 養生シートの端を掴む。


 風でめくれかけていたそれを直すために、軽く引いた。


 ぱさり、と音がする。


 その瞬間、木くずと細かいホコリが、ふわっと舞い上がった。


 「っ、くしゅん」


 くしゃみが出る。


 鼻の奥がむずむずする。

 目も少しだけ滲む。


 軽く目をこすって——


 そのとき。


 視界の端に、違和感が走った。


 一瞬だけ。


 何かがあった。


 赤い——


 点。


 大輔は反射的に目を向ける。


 だが、もう何もない。


 柱と梁。組み上がりかけの骨組み。

 いつもの現場の景色があるだけ。


 「……」


 数秒、動けずにいる。


 何も起きない。

 何もない。


 ゆっくりと息を吐いた。


 「……気のせいか」


 そう呟く。


 疲れてるだけだ。

 寝不足か、埃のせいか。


 変なものが見えるなんて、そんなわけがない。


 そう思おうとする。

 思い込もうとする。


 それでも——


 胸の奥に、わずかに残る違和感が消えない。


 (間)


 「……やんな?」


 小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


 返事はない。


 ただ、木を打つ音だけが、変わらず響き続けていた。

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