42◆ピンチ
「ぜーんぜんだめね、ピクリとも動かないわ」
複雑な術式をフォレックスに編み込むまではたぶん上手くできているのだろうが、「公爵家だって元王族だから」とセシリアは自分の指を護身用の短剣でちょっとだけプスリと、血を滲ませて魔法を発動させてみようと試みたのだが、結果はこの通りである。
だけど絶対にできると思っていたわけでもなく、うっかりできちゃったりしたらいいなと思う程度だったので落胆もない。
そんなことをしている間に会議は終わったらしく、マリウスが地下室へ戻ってきた。
「セシリア、地下じゃわからないがもう朝だ。食事にするかい?それとも眠るならゲストルームを準備するが」
「お食事をしながら会議の内容を伺いましょうか」
「メンバー限りの内容なんだけどね」
「私の記憶を残したのが運の尽きですわね」
「そのようだ」
マリウスはそう言ってセシリアに王宮の魔法術者用帽子を被せる。
「それを深く被っておいて。城の中では君が何者かわかる人物がいるかもしれない」
「心得ました」
「では、僕の部屋へ案内しよう」
マリウスはセシリアから秘法の書を取り、台座へ置く。両手が空いたセシリアは後ろで括った髪をどうにか帽子の中にしまい込んだ。
「本は持っては行かないのですか?」
「次に使う者がいるのでそれはできないな。だけど問題ないよ」
先ほど目を通した時に術は全部頭に入れたらしい。もう何度思うかわからないが、どういう頭をしているのだろうか。
マリウスの部屋は学園に入る前は離宮にあったが、今は城の中にある。アレスが東棟、マリウスが西棟となっているので、アレスとは顔を合わさず行けるだろう。
二人で廊下を進んでいる、その時だった。
「マリウス殿下」
マリウスに掛かった声にセシリアはとても聞き覚えがあった。現れたのはカーン公爵である。
セシリアはとっさに家紋入りの腕輪を嵌めた腕を後ろに隠し、帽子を一層深く被りなおした。纏めた髪は帽子の中に納まっているので、一目ではセシリアとはわからないだろうが、心臓は早鐘を打っている。
「なんだ、カーン公爵」
いつも通りの平然とした態度で返事をするマリウスの後ろでセシリアはさりげなく小さく縮こまる。
「正午出立とのことですが、お見送りをすることが叶わないため、今ご挨拶を。これから一度屋敷に戻り、セシリアに事の次第を伝えることになっておりまして」
「ああ、そう」
そのセシリアは今マリウスの後ろにいるのだが。きっと今、カーン公爵家の迎えが学園に向かっていることだろう。
「セシリアにもよろしく伝えておいてくれ」
何をだ、と言った本人もセシリアも思う。
「…その者は、見覚えのない従者ですな」
カーン公爵がマリウスの後ろにいる魔法兵士らしき人物に目を向ける。しかし王国軍の軍服ではないのに、帽子だけは被っている。如何にも怪しい。
帽子を取ってみろ、と言われたら一体どうしようか。さすがのセシリアも心が焦る。かつてないほど危機的状況だ。
マリウスがセシリアを隠すように前に立つと、カーン公爵に小声で呟く。
「…王家に伝わる文字を読める者だ」
「!何ですと!?」
カーン公爵は驚愕してマリウスの顔を見た。秘法の記された書は王家に伝わる文字で書かれており、王族以外は如何なる者も読めないことは彼も知っているのだ。
「秘密裡にその言葉を伝えていた者が過去にいたのだ。秘法の書の解読のために力を借りることにしたが、王家からしたら暗号文字を他へ伝えることはタブー…カーン公爵、お前にだから言ったのだ。この意味はわかるな?」
「御意に。決して他には漏らしませぬ」
「王には僕がデリア領で直接お伝えする」
「かしこまりました。…しかし、そんなことがあるとは…」
マリウスは「お前んちだよ」と言いたいのをぐっと我慢して喉で止める。
そうして歩き出した二人をカーン公爵がまじまじと見送るが、自分の娘だとは全く気付くことはなかった。
マリウスがちらりと自分の後ろを振り返ると、顔を俯かせながら笑いをこらえて肩を震わせるセシリアが見えた。そんな場合じゃないだろうと突っ込みもしたいところだが、正直マリウスも笑い出しそうになっている。そのまま真顔を保ちながら自室まで行くのは相当骨が折れた。
そして、部屋に入ったとたん、セシリアは笑い崩れた。
「マ、マリウス殿下…あそこであの話題…ほんと…だめ、おなか痛い…」
「よせ、移る…笑わせるな」
「いや、殿下が悪い…父上…ま、間抜け…」
「…『しかし、そんなことがあるとは…』」
「ちょっと!モノマネ!」
不謹慎極まりないとは思うが、おかしいものはおかしいので仕方ない。
非常事態に神妙にしてようが愉快にやっていようが、そんなことで状況も変わらないし結果にも影響はないのでよしとする。
ひとしきり笑い終わってからマリウスはメイドに食事を申し付けた。