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13 濃灰

 影虎は、閉めた鉄の戸に背を預けた。このままずるりとしゃがんでしまいたいのを、どうにか堪える。

 ごろごろと重い音を零す濃灰の雲を見上げ、いつの間にか詰めていた息を大きく吐き出した。湿気がじっとりと絡みつく。蝉がうるさい。喧しい。煩わしい。うるさい。厭わしい。

「くそっ」

 影虎は苛立ちそのままに、固めた拳を扉に叩きつけた。けたたましい金属音と共に、拳がじくりと熱く痛んだ。

 疲れた、と。紫呉は言った。

(……そうだな)

 力なく腕が垂れる。

(俺も疲れた)

 このままここにいては動けなくなってしまいそうで、影虎は無理にでも足を動かし、屯所へと向かった。鍵を返しにいかなくてはいけない。

 重い足を引きずりながら、ふと思う。立会人がいなかった。鍵を借りる際、立会いのことを口に出されることもなかった。もしかすると、莉功がそのように掛け合ってくれているのかもしれない。ならば礼を、と思ったが、莉功にそのことを確認するのも、礼を述べることすらも、面倒に思った。このまま誰とも会わず、ひとりどこかに籠ってしまいたいような気がしていた。

 しかし、そういうわけにもいかない。今日は確か午後から、愛染街の南方――朱窟へと行く予定になっていた。弐班の隊員は、有事の際以外は壱班と同様の仕事に就いている。訓練に参加することもあれば、人手の足りぬ壱班の部隊に振り分けられて任に就くこともある。

 手の中で鍵の束を玩びながら、ゆっくりと歩く。監舎から屯所まで、遠い距離ではない。この、中庭と呼ぶにも憚られる小さな庭だって、屯所と監舎を隔てるにはあまりにも狭い。

 けれど、今の影虎にはとても大きく、広く感じた。屯所までの道のりが遠い。遠くて良い。辿り着かなければ良い。誰とも接したくない。

(――そうだな、疲れた)

 庭の中ほどで、影虎は歩みを止めた。頤から垂れた汗が、ぽつりと地面に染みを作る。

 声は、届いただろうか。

 主に、己の声は。

 紫呉に叩きつけた影虎の声は、まぎれもなく本心だった。望むのならば、何だってくれてやる。俺が与えられるものなら全て、何だって。

 向けられた背は、何を語っていたのだろう。揶揄だろうか。拒絶だろうか。分からなかった。それが怖かった。

 ふと上げた視線の先、蝉が死んでいた。庭の隅に咲く朝顔の傍らだ。その朝顔も、続く暑気にうなだれて今にも枯れてしまいそうだった。

 ギ、と錆びた音がして、戸が開いた。屯所側の戸だ。

「何してんの、そんな暑いとこで」

 庭の真ん中に立ち尽くす影虎に、莉功は訝しげに首を傾げてみせる。

「鍵の貸し出しからわりと時間経つから。様子見にきたんですよー」

 影虎に問われる前に莉功は答え、こちらに向かってくる。その途中、蝉の屍骸に目を留めて、恐る恐るといった様子で足を運ぶ。屍骸の側を通り過ぎようとした時、蝉は途端にヴヴヴヴと体を震わせて地面を這いずるようにして飛んだ。

「ほらやっぱり生きてた! ほらやっぱり生きてた!!」

 叫びながら莉功は蝉から逃げるように、足早に影虎のもとへと向かってくる。何故だかその後ろを蝉もついてくるものだから、莉功は一層にわあわあと叫んで、影虎を盾にするようにして蝉から逃れる。その情けない姿に、影虎は思わず笑ってしまった。

「蝉、苦手なんすか」

「普段どうでも良いけど蝉爆弾は嫌い」

 鳴きながら地面の側を飛ぶ蝉を影虎は引っつかみ、茂みの方へと逃がしてやる。ジ、ジ、と声はするが、ひとまず姿の見えなくなったことに安堵したのか、莉功はほっと大きく息を吐いた。影虎から手渡されようとする鍵をしばし見つめる。何だと首を傾げれば、蝉爆弾掴んだ手、とぼそり言われる。それを聞き、影虎は面白がって無理やり押し付けるようにして鍵を返した。

 まるで汚れた雑巾を持つかのように指先だけで鍵の束を摘み、莉功は屯所へと引き返す。その背を影虎も追った。先程よりもずっと、足取りは軽いような気がした。

「このあと、もうちょいしたら影虎くんには俺の部隊と一緒に来てもらいます。橋おりるくらいに」

「隊服は?」

「ナシで。そのまんまで良いよ。朱窟あたりね。見回り強化っつーか何つーか。してもあんま意味ねえだろうけど、しなきゃなんねえのよ」

 すれ違う隊員の敬礼に適当な敬礼を返しつつ、莉功はいかにも面倒だという調子で言う。

「俺としてはね、朱窟あたりで中毒者がごっちゃりしててくれる方がありがたいんだけど。売人があの辺で売っててくんなきゃ、中毒者の連中はもっと表に出てくるだろうから面倒じゃん? つか、壱班的にはだいたい皆そう思ってるんだろうけどさ」

 莉功の言う通りだ。愛染街の南方、朱窟と呼ばれる地域はいわゆる阿片窟となっている。治安も悪い。だが壱班は、積極的のその周辺の治安強化をしようとはしていない。膿は、一箇所に集わせている方が都合が良いからだ。

 莉功が言ったように、売人が朱窟以外でも阿片を売り出すと面倒なことになる。売人が訪れず、阿片を手に入れにくくなった中毒者は、阿片を求めて愛染街の表へ表へとやってくるだろう。そうして縄張りを広げられるよりは、あの場所だけで好きに膿んでいてくれる方が厄介ではない。

 いや、今でも朱窟以外で売り買いをする者はいるだろう。しかし、それはごく少数のはずだ。朱窟へと赴いた方が、売買の取引は確実にできるのだから。何もそれ以外の場所で取引を行う必要はない。それに、朱窟の方が壱班の目は届きにくいのだから。

 壱班としての総意は、現状維持だ。とはいえ、何もせずにいるわけにはいかない。何もせずにいれば、破天の輩がそれを材料に難癖をつけてくるだろう。民の壱班への信頼だって失いかねない。

 だから、何かをした、という行動だけは残さなくてはいけない。その為の見回り強化だ。

 鍵を返却しながら、莉功が「そうだ」と、今まさに思いつきましたという様に言った。

「紫呉くんね、暴れるでもねえし文句言うわけでもねえ模範的で優等生な囚われ人だし、いつでも出して良いんだよ。十日ぐらいかなって思ってたけど、俺たちの権限で短くも長くもできる。や、今すぐ出せってのは無理だけど、すぐに手続きは取れる。もともと、俺ら部隊長の命令に背いたってだけだし。そんなに重い咎ってわけじゃない」

 振り向いた莉功は、影虎の様子をつぶさに見守っている。

「影虎くんはどうしてほしい?」

「――俺は……」

 どうしたいのだろう。どうしてほしいのだろう。

「……あいつが、それを望むのなら」

 こちらを見る莉功の視線から逃れるように、影虎は俯いた。

 じ、と注がれる視線は、そのうちに逸らされた。

「時間まで仮眠取って良いよ。疲れてんだろ?」

「いや、何かすることあるなら手伝います。書類の整理とか」

「寝とけ」

 命令、と苦笑まじりに告げられる。影虎の返答を待たぬまま、莉功は「時間になったら呼びにいく」とだけ告げ、職務に戻った。

 ひとり残された影虎は、しばし逡巡してから仮眠室へと足を向けた。何でも良い、何かをしていた方が気がまぎれるかと思ったが、身体は確かにまだ休息を求めている。

 頬を軽く叩き、影虎は気を引き締めた。莉功に気を使わせてしまった。見るからに疲れた顔をしていたのだろう。腑抜けた面を晒すのは厭だ。如月紫呉の『影』は腑抜けかと罵られるのは赦せない。

 く、と喉を震わせて嗤う。洋の言葉を思い出した。

『――強がり、意地っ張り、見栄っ張り、矜持の高さを見せたくない程度の矜持の高さ、人の手助けを良しとしない頑固さ。困った方だと心得ておりますよ』

 その通りだ。困った奴だ。

 自嘲も顕わに、影虎は仮眠室へと足を向けた。

 仮眠室の戸を開き、他の隊員を起こさないように静かに靴を脱ぐ。隊員たちのいびきを聞きながら身を横たえて、目を閉じた。

 眠って、起きたら、いつも通りにふるまえるはずだ。重い足だっていつものように動く。

 だから、大丈夫だ。



 莉功の呼び声で目を覚ました。浅い眠りだ、覚醒はすぐに訪れた。先程よりも、身体は軽い。

「俺んとこの部下は先に向かってます。俺らも別に一緒に行動する必要はねえし、あっちじゃ適当にぶらついててくれたら良いよ」

 寝汗を肩口で拭い、影虎は頷いた。私服の薄物に着替えた莉功が、眼鏡を押し上げながら小声で言う。仮眠を取る隊員の顔ぶれは少し入れ替わっていたが、まだ何人かが大きないびきをかいて、仮眠と言うにはずいぶんと本格的な睡眠を取っていた。

「先に行った部下ちゃんたちは制服なので、制服のあいつら見て何か怪しげなことしてる奴とかいたら、それとなく貼りついたり顔覚えといたりしといて」

「了解」

 長靴を履いた爪先を、トンと床に打ちつける。義足の調子も良さそうだ。

 先を歩く莉功の背に、声を投げかける。

「莉功さん、さっきはありがとうございました」

「は? 何が」

「立会人の免除、してくれてたんじゃないんすか」

「あー……。ま、さっきも言ったと思うけど、紫呉くん模範的で大人しいからね。あとお前さんたちならあの場所に一人で向かわせても、精神的につらーいってなることもねえだろうし」

 だから別に礼はいらねーしー。と、やけに間延びした声で莉功は言う。いつもそうだが、莉功は礼を言われるのを得意としていない。気恥ずかしいのかもしれない。

 やけに足早にざかざかと外を目指す莉功の隣に、影虎は並んだ。

(大丈夫だ)

 さっきよりもずっと楽に言葉が出てくる。

 午後の陽射しは、今も厚い雲に覆われていた。それでも暑いことに変わりはなく、ただ歩いているだけなのに、じっとりと肌が汗ばんでくる。微かにそよぐ風すらもなく、息苦しいほどに辺りは夏に満ちていた。

 愛染街を目指し、歩く。影虎が眠っている間に一雨降ったのか、地面は微かに濡れていた。とはいえ厚い雲はまだ晴れず、今も立ち込めている。この様子だと、また一雨降るかもしれない。

 湿気は朝よりも増している。暑さも、朝よりひどい。道を行く人々は、手ぬぐいを首にかけ、または巾で厭わしげに汗を拭っていた。日傘を差す女性の姿は目に涼しげであるが、その女性とて暑さに茹だった顔をしている。俥引きもいつもの威勢は無く、腹掛けに股引といったほぼ半裸のいでたちで、俥の影でぼんやり座り込んでしまっていた。

 華芸町も、人通りが少ない。しかし夏の今は町を訪れる人も少なく、また、見世を開く香具師の数も少ない。愛染街への橋の側は、常ならば人だかりが出来ているほどだ。けれど今日は誰も見世を開かずに、幼い兄妹が飴細工を売り歩いている姿が見えるだけだった。


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