第2話 食卓安全調査官
グランヴィル公爵家の大食堂には、料理の匂いがなかった。
案内の使用人が扉の前で足を止め、振り返る。
「エルモンド令嬢、こちらでございます」
「エルモンド調査官と、お呼びしなさい」
廊下の先から来た白髪の男が、静かにそう訂正した。侍医のオスカー・モローだと名乗る。
「その方は雇われてここにおられる。呼び方を間違えると、扱いも間違えます」
クラリス・エルモンドは、手にした荷を持ち直した。衣装箱ではない。調査記録の綴りと筆記具、採取瓶、封蝋。自分が使う道具だけが入っている。
大食堂の扉は閉ざされ、隙間から流れてくる空気は冷たかった。扉の金具にも框にも曇りはなく、手入れは行き届いている。ただ、匂いだけがなかった。
この家では、食卓だけが動いていないように見えた。まだ結論にはせず、その観察だけを頭の中の欄へ書き留めた。
執務室の扉は開いていた。机の向こうの男が、書類を差し出す文官へ短く指示を出している。
「早霜で収穫を落とした村へ、備蓄を開け。今日のうちに配給を始めろ」
「原因の調べは、いかがいたしますか」
「原因も責任も調べる。だが食料は、その結果を待てない。順番を間違えるな」
文官が下がると、男はこちらを見た。レオナード・グランヴィル。二十八歳の現公爵。血色はよくない。それでも背筋も声も、指示を出していたときのまま揺れていなかった。
「エルモンド嬢。掛けてくれ」
卓へ一枚の書面が置かれる。公爵家の印と、レオナード自身の署名があった。
条項は多くない。十年前の記録と、現在の厨房、仕入れ、調理記録の閲覧。厨房と食材庫への立入り。試料の採取と、書き換えを防ぐための封印。関係者への聞き取り。疑わしい食材や料理を、確認が終わるまで止めること。
クラリスは目を上げた。
「証拠が揃う前でも、危ないと疑った料理を、配膳の前に止められますか」
「止められる。疑った根拠は、その場で記録しろ。証拠が揃うまで、配膳はさせない」
「記録の閲覧を断られたときは」
「私に言え。断る権限は、この家の誰にもない」
「人の処分は、私が行うのですか」
「それは君の仕事ではない」レオナードは言った。「渡すのは裁く力ではなく、止めて調べる力だ。誰かを犯人と呼ぶのも、職を解くのも、私の責任で行う」
最後の一項に、クラリスはしばらく指を置いた。結果が公爵家に不利であっても、原因が分からなかったという結論であっても、報酬は減らさず、三か月の途中で解雇しない。
「不正や、証拠へ手を加えることまで守られる、という意味ではありませんね」
「当然だ」彼は答えた。「守るのは、結論を理由に君を切らない、その一点だけだ」
「公爵家に都合のよい結論は要らない」レオナードは言った。
「そのような結論を作る技術は、持ち合わせておりません」
かつての婚約者は、都合の悪い観察を消せと言った。この人は、都合が悪くても変えるなと言う。求められている物が、まるで逆だった。
書面を鞄へ収め、退出しかけたところで、扉が叩かれた。
運ばれてきたのは盆が一つ。銀の蓋はない。麻布に包まれた保存肉と、乾いたパン、封をした水差しだけだった。定刻の昼食です、と使用人が告げる。
「見ていくといい」レオナードが言った。「これも君の調査対象だろう」
クラリスは椅子へ戻った。
彼は布を解き、蜜蝋の封を明かりへ向けた。指の腹で縁をなぞり、傷や剥がれがないかを確かめる。次に包みの結び目、そのあとに水差しの封。順番は決まっているらしかった。最後に、腰の短剣で自ら封を切る。
手つきは震えていない。何度も繰り返して型になった動きだった。
パンを割り、肉を薄く削いで口へ運ぶ。食べられないわけではない。自分で封を確かめられる物なら、彼は普通に食べる。
廊下の向こうからは、使用人たちの昼食を作る音と匂いが届いていた。温かい料理がないのは、この部屋の卓だけだ。
「エルモンド嬢」彼は言った。「君も、私に安全だと言うのか」
「いいえ」クラリスは答えた。「私を信じなくて結構です。信じなくても確認できる形にします。手順を残し、誰が行っても同じ結果になるようにします。そのうえで召し上がるかどうかは、公爵閣下がお決めください」
短い間があった。
「——エルモンド調査官」レオナードは呼び直した。「厨房の監査を始めてくれ」
厨房へは、オスカーが案内した。
湯気と刃の音の中で、大柄な男が振り返る。料理長のベルン・ケスラー。オスカーの紹介は短かった。公爵家が三か月雇った食卓安全調査官だ、とだけ告げる。挨拶を返すベルンの目は、彼女の荷にあった。
クラリスは、まず厨房そのものを見た。俎板は用途で分けられ、刃物は研がれて所定の位置にある。食材庫の棚は乾き、古い物が手前に並んでいた。
「よく管理されています」
「疑いに来た方の褒め言葉は、たいてい前置きです」ベルンは手を止めずに言った。「三か月で報告書を置いて去る方に、十年守った厨房を任せろと」
「任せていただく必要はありません。見たいのは、普段どおりの工程です」
「その普段どおり、が一番危ない」
「十年前も、同じことを言われました。普段どおりにしていろと。それで前の料理長は、暗殺犯として扱われた。厨房は今日まで疑われ続けています。書いて帰る方には、その先がない」
クラリスは口を挟まなかった。理由のある警戒は、崩す物ではなく、条件として数える物だ。
「二つだけ、先に申し上げます」彼女は言った。「一つ。公爵閣下を、安全か分からない料理の実験台にはしません。二つ。あなた方が同じようにできない方法は、安全な工程とは呼びません。私が一度だけ上手にやれても、成果とは呼べませんので」
ベルンは、そこで初めて手を止めた。しばらく彼女を見てから、顎で調理台の奥を示した。
「……そこまで言うなら、見せます。触るときは、断ってからにしてください」
「そういたします」
午後の仕込みは、使用人用の冬の献立だった。調理台に白鈴芋が積まれている。
「下ごしらえの手順を、皆さんに一つずつ伺ってもよろしいですか」
返ってきた答えは、全員同じだった。薄く切って、一晩水にさらす。芋の弱い毒は水へ溶けるので、正しく処理すれば、日常的に食べられる。厨房では当たり前の注意で、誰も間違ったことは言っていない。
ただ、切り終えた切片を並べてみると、厚みは三通りあった。
「どなたも間違っていません」クラリスは言った。「ただ、《薄く》の意味が、人によって違います」
彼女は同じ仕入れの芋を、偏りが出ないよう三つに分けた。重さを量り、同じ器を三つ並べ、水の量もそろえる。
一つ目は、ベルンがいつもどおり目分量で切った物。二つ目は、クラリスが幅板を当てて切った物。板といっても、刃を同じ位置へ導くだけの、清潔な木の当て板にすぎない。
「三つ目を、同じ板でお願いできますか」
ベルンが顔を上げた。
「同じ板を使えば、私の手でも同じ厚さになると」
「なるかどうかを、見ます」
彼は板を当て、黙って手を動かした。
夕刻、三つの器へ同時に水を注いだ。札を掛け、糸を回して封をする。札には群の別と、重さ、水の量、開始時刻、十二時間後の終了予定時刻を書いた。検査が終わるまで調理にも配膳にも回さないこと、という一行も添えた。
「見ただけで、毒が残ると分かるのですか」ベルンが言った。
「見ただけでは決めません。だから明日、同じ条件で確かめます」
クラリスは筆を置き、三つの器を見た。
「最初に検査するのは芋ではありません。この《薄く》という言葉です」
三つの器の札へ、同じ開始時刻が記された。次に三つの封の糸を切るのは、十二時間後だった。




