第1話 毒女へ届いた雇用状
「その報告書を撤回できないなら、婚約は破棄する」
セドリック・ヴァネールは、卓上の書類を指先で示してそう言った。
「灰傘茸の件で研究機関へ出した報告を、君の名前で撤回すること。結婚後は、毒のある食材の研究をやめること。どちらも応じられないなら、婚約は破棄する」
ヴァネール家の応接室は、暖炉の火が絞られていて肌寒かった。卓には二種類の紙が並んでいる。クラリス・エルモンドが持参した報告書の控えと、まだ署名欄の空いた婚約解消の書類だ。
クラリスは控えを一枚めくり、自分の筆跡を確かめてから顔を上げた。
「セドリック様。この報告書のどこにも、ヴァネール家の葡萄酒が原因だとは書いておりません」
「書いていなくても、読む者はそう読む」
怒鳴る気配はなかった。むしろ、面倒な取引をまとめようとする商人の落ち着きがあった。
「では、何が書いてあるかを、もう一度だけ申し上げます」
クラリスは控えを卓の中央へ滑らせた。三か月前、隣の地方の村で起きた小さな食中毒。同じ鍋の灰傘茸を分け合った者のうち、七人が症状を訴え、うち二人が重症化した。
「同じ料理を、同じ卓で食べています。それでも差が出ました」
彼女は二人分の欄を指した。
「こちらの方は椀に二杯。水と一緒に召し上がって、翌朝に手足の痺れが出て、三日で歩けるようになりました。こちらの方は椀に一杯半。量はむしろ少ないのです。けれど熟成酒を三杯飲んでいて、その日の夕方には起き上がれなくなりました」
「量の少ないほうが重い、と」
「はい。量だけでは説明がつきません。ですから私は、何を一緒に飲んだのか、症状が出るまでに何時間かかったのか、そこまで含めて追加で調べてほしいと書きました。同じ様式で残しておけば、次に似た事故が起きたときに突き合わせられます」
セドリックは短く息を吐いた。
「熟成酒を飲んだ者ほど重かった、とも書いてあるだろう」
「観察された事実です。原因だとは断定しておりません。断定できるだけの記録が、まだございませんから」
「原因と書かなければ、噂まで止められると思っているのか」彼は初めて声を高くした。「葡萄酒を商う家に嫁ぐ女が、熟成酒と重症化を並べて世に出すんだ。銘柄など名指ししなくていい。それだけで、うちの樽すべてに同じ疑いがかかる」
事故が起きたのは別の地方で、ヴァネール家の葡萄酒は一滴も卓に上がっていない。彼が恐れているのは事実そのものではなく、事実から人が勝手に引く線のほうなのだと、クラリスは思った。
「事実でも、我が家の商売を傷つける」
「消した事実は、次の患者を救ってくれません」
前世で、クラリスは食品を作る会社の品質保証部にいた。工場を見て回り、事故が起きれば原因を洗い、危ないものは止めた。あのとき同じ求めに応じていれば、それは不都合な観察結果の削除と呼ばれる。名前も国も変わってしまったけれど、やってはいけないことの形だけは変わらない。あの報告書は、同じ鍋を囲む次の誰かが、同じ倒れ方をしないために書いた紙だった。
セドリックは、婚約解消の書類を自分のほうへ引き寄せた。
「社交界で、君がどう呼ばれているか知っているか。——《毒女》だ」
知っていた。毒のある草や茸ばかりを写し取り、書き留めて歩く子爵家の次女。悪気のない噂ほど、正確に人を刺す。
「私はその呼び名を否定してきたつもりだ。だが今日で終わりにする」彼は言った。「毒を選ぶのか」
「倒れた方々がいたという事実を、なかったことにしないだけです」
「同じことだ」
ペンを取る指が、一瞬だけ止まった。この人と作るはずだった家が、たしかにそこにあった。胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
それでもクラリスは、署名欄に自分の名を書いた。この先の何年かを、この人と並んで数えるつもりでいた。それだけのことが、今日でなくなる。泣いて縋る理由も、勝ち誇る理由も、どちらも見つからなかった。
彼女は、自分で持ち込んだ物だけを鞄へ戻した。村で取った聞き取りの原票、報告書の控え、押し葉と写生の綴り。ヴァネール家の紙には、一枚も手を触れなかった。
「お世話になりました」
応接室の扉が閉まる音は、思っていたよりずっと小さかった。
王都の滞在先へ戻ったのは、日が傾いてからだった。玄関の卓に、見慣れない封筒が一通置かれている。蝋に押されていたのは、グランヴィル公爵家の印章だった。
鞄を置くのも忘れて、クラリスは封を切った。中身は招待でも見舞いでもない。書式の整った、正式な雇用状だった。
宛名は《クラリス・エルモンド嬢》。職名は《食卓安全調査官》。
期間は三か月限定。報酬の額と支払いの時期が明記され、王都からの旅費と、公爵家での住まいは公爵家が負担すると書かれている。詳しい調査の権限については、到着後に当主本人が付与する、と一行だけ添えられていた。
読み進めて、彼女はある一文で目を止めた。
「求めるのは安全という断言ではなく、安全か否かを確認できる手順である」
指先が、その行の上で止まった。
続く条項には、調査結果について、公爵家に都合のよい結論を求めない、とあった。
婚約を失った令嬢への救済ではない。三か月という期限を切り、専門家として正当な対価を払う。そのための書面だった。
クラリスは封筒を裏返し、発行日を確かめた。三日前。婚約が破棄されるより前だ。
《毒女》は蔑称だった。
《食卓安全調査官》は、報酬の支払われる職名だった。
指でその文字をなぞりかけて、やめた。まだ何もしていない。
雇用状には、私信が一通同封されていた。差出人はオスカー・モロー。公爵家の侍医だという。
彼は、クラリスの報告書を研究機関で読んだと書いていた。褒め言葉は一つもない。代わりに、何を評価したのかが並んでいた。
何を食べたか。どれだけ食べたか。何を一緒に飲んだか。何時間後に症状が出たか。どの程度の症状だったか。——この五つを患者ごとに一枚へ並べた記録を、自分は久しく見ていない。
原因を突き止められなかった点を、彼は欠点として扱わなかった。証拠より先に結論を書かなかった、とだけ記していた。その方法であれば、十年前の記録を別の角度から読み直せるかもしれない、と。
褒められたのではない、と思った。読まれたのだ。
そこから先は、事件の話だった。
十年前、当時十八歳だったレオナード・グランヴィル様の成人祝宴で、前公爵夫妻が亡くなった。レオナード様も重症となり、二日間昏睡した。毒味役は無事だった。そして料理からは、活性のある毒が検出されなかった。
クラリスは私信を膝に置き、しばらく動かなかった。
同じ皿を先に口へ運んだ毒味役は無事で、料理から毒も出ていない。それでも前公爵夫妻は死に、息子は二日間眠った。
記録が正しいなら、差を生んだ条件がまだ見えていない。
量か。飲み物か。時間か。それとも、当時は数える価値もないと思われた何かか。
分からない、と彼女は思った。分からないままでいい。記録を突き合わせるまでは、何ひとつ断定してはいけない。
同時に、それは引き受ける側の条件でもあった。公爵家が望む結論を、自分は約束できない。毒はなかったと書け、と言われれば、そのときは断る。三か月かけて、何も分かりませんでしたと報告することになるかもしれない。それでよろしければ、参ります。
今日、二度も署名をすることになるとは思わなかった。一度目は、失うための署名だった。
毒味を通った成人祝宴で、現公爵は両親を失った。
クラリスは、その十年前を調べ直すため、受諾欄へ署名した。




