第7話(4)
大通りは混んでいると嫌なので、出来る限りの裏道を駆使してなつみの家を目指す。こういう時、単車は小回りがきくから便利だ。
(別れの言葉だったらどうしよう)
嫌な考えが何度も頭をよぎる。
――死にたくなるの……。
なつみが前に言っていた言葉が耳に蘇る。
焦る気持ちを何とか落ち着けようと努力しながら苛々と赤信号に引っ掛かっていると、ふとあゆなに「今から行く」と言ったことを思い出した。やばい、びっくりし過ぎて忘れてた。
つって、なつみの様子を見ないわけにはいかない。
信号が青に変わる。発進させながら、心配してるだろうかと気になった。不安にさせたくなくて「行く」と言ったのに、煽ってどーする。
なつみも気がかりだけどあゆなも気がかりで、ちっとも内心落ち着かず、なつみの家についた時には渋谷を出てから三十分が経過していた。
あゆなに電話……。
「啓一郎」
「ごめん、待たせて」
なつみの家の前には既に和希の姿があった。端に寄せて停止させて単車を降り、寄りかかっていた壁から体を起こす和希に駆け寄る。
「行こう。なつみの部屋は?」
俺は家の場所こそ何とか知っているけど、部屋番号までは知らない。和希がアパートを見上げる。三階建ての綺麗で可愛らしい建物だ。
「三階の一番手前。灯りついてる」
言われて見上げると、その部屋には確かに灯りがついている。
何もなければいーんだけど。
「電話、俺もかけてみたけど出なかった」
「やっぱり」
「とりあえず行ってみよう」
和希に促されてアパートの中に入る。階段を三階まで上がり、部屋の前に立った。誰も人の気配のない静かな廊下。和希が指を伸ばしてチャイムを鳴らす。
「……」
出る気配がない。
思わず顔を見合わせた後、和希がもう一度チャイムを鳴らした。けれどやはり、中からはことりとも音がしなかった。
緊張した嫌な汗が滲む。和希が真剣な顔でドアを見上げた。
「灯りはついてるんだから、いるんだろうけど」
「なつみっ」
近所に迷惑かとは思ったけど、声を上げて名前を呼ぶ。中からは静寂が返るばかりだ。
「鍵は?」
普通はかかってるに決まってるんだが。開かなければ、管理会社か警察に連絡した方が良いだろうか。
思いながらドアノブに手を伸ばす。期待もせずに何気なく回し、するっと動いたのはかえってびっくりした。
「開いてる」
言っている間にも、扉の隙間から中の柔らかい光が漏れてくる。思わず再び和希と顔を見合わせた。……不用心な。
「入ってみよう」
「うん」
ドアを開けて、和希が先に中に入る。狭い玄関口のところで中の様子を窺うように声をかけた。
「……なつみ? いるんだろ?」
返事はない。
「入るぞ? なつみ?」
少し迷うようにしてから靴を脱ぐ。それに続いて中に入った。
広くはないけれど、こじんまりとした綺麗な感じだ。玄関を入ってすぐにキッチンと通路を兼ねたスペースがある。その奥にワンルームがあり、きちんと整理された女性らしい部屋の中、折りたたみのシンプルなテーブルの前になつみが横たわっていた。すぐそばに携帯電話が放り出されている。
「なつみっ?」
その、ぴくりとも動かない姿に青ざめた。血相を変えて駆け寄り、和希がなつみを抱き起こす。
なつみは完全にされるがままで、自発的には身動きひとつしない。死んじゃったんじゃないだろうな。緊張と嫌な汗で全身が強張る。
以前のあの暗い声音が耳から離れない俺は、どうしてもそれがありえないとは思えなかった。内心どきどきしていると、和希がなつみを抱えたまま腕を取る。
「……大丈夫。生きてるよ」
よ、良かったぁ……。
片膝を立ててなつみの隣にしゃがみこんだまま、思い切り肩の力が抜ける。
「脈がかなり速いな」
言いながら和希はなつみの腕をそっと下ろして、その向こう……テーブルの下から何か引っ張りだした。幾つも使われた痕跡のある、錠剤。
「睡眠薬」
えっ。睡眠薬って大量に服用するとまずいんじゃなかったっけ? 俺、飲んだことないけど。
まさか自殺未遂……?
和希はもう一度テーブルの下に視線を走らせると、なつみをそっと床に横たわらせて立ち上がった。
「病院に連絡しよう。なつみに毛布かけてやって。体が冷えてる」
言って携帯を取り出す。
「わ、わかった」
頷いて俺は、部屋の奥のベッドから毛布を引っ張り出した。なつみの死んだように動かない姿を見て胸が詰まる。顔は紙のように白く、死人のようだ。
電話で感じた激しい感情のアップダウン……睡眠薬のせいなのか、軽い精神障害みたいなものなのか、俺には良くわからないんだけど。
「どう?」
電話を終えたらしい和希がなつみのそばにしゃがみ込むのに気づいて、顔を上げる。俺を安心させる為か、和希は小さく微笑んだ。
「すぐ来るよ」
「なつみ、睡眠薬って……自殺?」
和希がテーブルに置いた錠剤を見遣って尋ねる。和希は目を伏せて、静かに答えた。
「違うと思うよ。今時の睡眠薬、この程度じゃ死ねない。それこそ腹一杯食うくらいじゃないと致死量になんないはずだから。そのくらい、なつみも知ってると思う」
そうなんだ? 俺は知らなかったけど。
「睡眠薬自殺とかやってた頃とは、薬の種類が違うんだよ。今の睡眠薬ってのは安全だから。致死量摂取する前に多分吐いちゃうし、死のうと思ったって死ねないはず」
「でも……」
「ただ、いつから使ってるかわからないから何とも言えないけど、通常範囲より多く服用したんだとすれば、眠る時間が長くなるかもしれない。病院で点滴とか受けないと衰弱しちゃう可能性もあると思うんだ」
だから病院に連絡したんだよ、と和希はため息をついた。
「命に別状は、ないと思う。素人判断するわけにはいかないから、医者に見てもらえばはっきりすると思うけど」
悲しげに目を細めてなつみを見下ろす和希の横顔を見ながら、ラリってるみたいななつみの声を思い出した。
「なつみ、電話でどうだった?」
「何か、子供返りしちゃってるみたいに……」
気にするかもしれないと思えば躊躇ったが、正確に伝える為に仕方なく口を開く。
「和希のこと、しゃべってた」
堪えたように和希が顔を伏せる。
「『和希がわたしのことを嫌いって言うんだ』とか『無理してたのかな』とか……言ってたけど……」
「……」
「で、『迷惑かけてごめんね』ってぷつっと電話、切れて……」
膝に肘をついて顔を片手で覆って俯いたまま、和希がぼそりと言った。
「中毒症状だよ、多分」
「中毒症状?」
首を傾げている俺の目の前で、和希が身を乗り出す。横たわるなつみを越えてテーブルの下に手を伸ばした。……ブランデー。
「啓一郎の方が良く知ってるんじゃないの?」
何で俺?
「一時期渋谷辺りで流行ったりもしたみたいだよ。睡眠薬と酒を合わせて飲むと、薬の種類と酒の量、飲むタイミングで頭がトぶ。場合によっては、酒飲まなくても……眠気を堪えて活動してるとアップ系のトび方したりもするみたいだけど」
「……」
どうしてそれで、『俺の方が良く知ってる』になっちゃうの?
「基本的にはダウン系のクスリみたいな症状が起きるらしいんだよ。知覚障害、記憶障害、感情のアップダウン」
「記憶障害や知覚障害?」
「記憶障害は簡単に言や健忘症ってところかな。知覚障害は多分、幻覚、幻聴……その類、だろうな」
引き寄せて手で玩んでいたブランデーの瓶を床に置いて弾きながら、和希がため息をついた。
「睡眠薬と酒は、絶対一緒に飲んじゃいけないんだよ。併用すると睡眠薬の血中濃度が加速的に高くなる。中毒症状って言うか、ひどい副作用を引き起こすらしいんだ」
言って和希は、死んだように眠るなつみの髪をそっと撫でた。
「眠れなかった、のかな……」
「……」
「意図的にやったわけじゃないと思うんだ。単に眠れなくて、薬だけで眠れるか不安になって酒も口にしただけだと思うけど。でも……」
それだけ眠れずにいたってことなんだろうか。
「俺、どうしたらいいのかな……」
顔を伏せたまま、掠れた声で和希が呟く。俺に聞くでもなく、多分無意識に。
和希にとっても、これは多分結構キツい。
ストレートに言えば「重過ぎる」。だけどなつみにだって制御出来るもんじゃなかったんだろう。意図してるわけじゃないわけだし、特に和希の話が正しければ今回のこれは事故なわけだし……でも、自殺とか図ったわけじゃないにしろ、こんなになったのは間違いなく和希への想いが発端なわけだし。
答えようがなくて、俺は黙ったままなつみの髪を撫でる和希の手を見ていた。
沈黙の中、遠くから少しずつ、救急車の音が近づいてくるのが、聞こえた。
◆ ◇ ◆
(……寝てるかな)
寝てるよな。
空が、下の方だけほんの僅かに白んできている。鳥のさえずりが聞こえ始め、明け方独特の冷たい澄んだ空気が街を包んでいた。
「……」
四時。
(はぁぁぁ)
なつみは、搬送された病院でも昏々と眠り続けていた。
目が覚める気配がまるでなく、ただ和希の言うように命に別状があるわけじゃないので、ともかく目が覚めるまで病院で点滴をしながら眠らせて、目が覚めてから様子を見るということだった。
和希は、なつみについていると言って病院に残っている。
目が覚めた時に和希がそこにいることが、なつみにとって良いのか悪いのか俺にはわからない。
でもなつみが乗り越えなきゃいけないことで、直接関わっているのは和希だから、俺にはこれ以上何も出来ないし、言えない。
そして俺は病院を出て一人、今更っちゃあ今更、あゆなの家へ向かった。
病院を出た時点で、既に三時半。電話なんかかけられるはずもなく、ほとんど無意味とわかっていながらあゆなのアパートの前で単車を停めた。
眠りに包まれた静寂の中、俺の吐く白い息がまだ暗い空に吸い込まれていく。
(どうするかな……)
九時には俺は、事務所にいなきゃいけない。
毎週新人アーティストを発掘してコラムを載せてるとかゆーサイトの取材があって、その足でそのまま西日本へGOだ。
シートに跨って両足で単車を支えたまま、携帯を取り出して手の中で玩ぶ。こんな時間にかけるわけにはいかないけど、このままにしておくことも出来なくて、ため息を繰り返す羽目になっている。
メールなら、大丈夫かな。あんまり得意じゃないんだけど。
単車を駐車して、降りる。メットを外してシートの上に置き、単車に軽く寄りかかってそのまま躊躇っていると静かな足音が聞こえた。
「あゆな」
周囲を気遣ってか、足音を忍ばせて階段を下りてくる。長い髪が風に舞い上がった。
「……馬鹿じゃないの」
何も言わずに、単車に寄りかかったままの俺のそばまで来てからあゆなが口を開く。言葉が出ない。
「こんな時間、寝てるわ普通」
「……うん」
寒そうに、あゆなが自分の体を両腕で抱えるように交差させて俺を見上げた。寝不足のせいか、目が赤い。
……泣いた跡? 泣く理由なんて、ない、よ、な?
「どうして」
「こんな時間にバイクの音なんかしたら、新聞配達かあんたしかいないじゃない」
「……」
「馬鹿ね、ホント」
「うん……」
口調の割りに怒っている素振りを見せず、あゆながおでこを俺の肩にこつんとぶつける。
「何かあったのかと、思っちゃったじゃない……」
「ごめん……」
どう伝えて良いのかわからず、短く謝罪だけする。俺の肩に押しつけられたままの頭をそっと撫でた。冷たい風に晒された髪が、既に冷え切っている。
「電話、かけられなくてごめん。……あゆな、俺に電話しなかったんだね」
「出られるんだったら、かけてくれると思ったわ。かけて来ないんだから、かけても出られないんだと思ったの」
「うん。……さんきゅ」
信じてくれて。
「なつみさん?」
顔を俯かせたまま、小さく問うのが聞こえる。
「……うん」
「……馬鹿」
馬鹿馬鹿ゆーなよ……。
うまく言える自信がなくてそれきり黙った俺に、あゆなもそれ以上何も聞こうとはしなかった。
それにこんなこと、べらべら言う話じゃない。なつみの傷を吹聴するわけにはいかない。
「連絡出来なくて、本当、ごめん」
黙ったままのあゆなに、言葉を紡ぐ。会えなくなる前に俺は、あゆなにちゃんと伝えなきゃならない。
「いきなりこんなんで、わかってもらえる自信がないんだけど」
「……」
「朝も言ったけど、あゆなと付き合おうと思ってる。大切にしたいと思ってる。そこに嘘はない。……本当だよ」
「由梨亜ちゃんは、いーの」
おでこを肩に押しつけたまま、押し殺すような掠れた声で問う。その名前を聞くだけでも胸が痛み、俺は視線をあゆなから逸らしながら言葉を押し出した。
ごめん。確かに忘れてるわけじゃ、ないんだけど。
「言ったろ。諦めたって。……忘れるって」
あゆなが俺を想ってくれる気持ちが嬉しい。迷惑とか面倒だとかそんなことは全然なく、素直に嬉しいと思える。……情けなくなっている時に「会いたい」と思う。抱き締めて、愛しさを覚える。
好きになりたいと思ってから始めるんじゃ……駄目だろうか。
「忘れたって言えば、嘘になる。でも忘れる。あゆなのことを好きになりたいって思ってるよ」
あゆなから答えはない。
自分でも言い方が下手だなと思う。
せめて由梨亜ちゃんのことは忘れたと言い切ってしまえば良いのに。
馬鹿正直にもほどがある。ふざけんなってひっぱたかれても文句は言えない。別の女を忘れていない男なんか嫌だと言われたってしょーがない。「何であんなことしたんだ」と言われれば答えに詰まるしかない。
でも本音だから、嘘はつけない。……好きだとは、まだ、口に出来ない。
「由梨亜ちゃんを忘れたとはまだ言えない。でも、彼女のことを忘れて、あゆなのことを好きになれると思ってる。泣かせないよう大切にしようと思ってる。……それが、俺の今の気持ち」
「……」
「ちゃんと言わなきゃって思った。俺の由梨亜ちゃんへの気持ちをあゆなが知ってて、だから不安になんのも当たり前で。だからこそ、嘘も何もない俺の気持ち、あゆなに伝えなきゃと思った。……そういうの抱えたその上で、俺はあゆなが俺の彼女なんだって思ってる」
嘘つかなきゃいいってもんでもないってわかってる。
でも、本音をまんまぶつければ、少なくとも変に勘ぐるようなことはしなくて済むような気がするから……。
「嫌だったら、俺のこと、振って」
由梨亜ちゃんを忘れてないままあゆなの気持ちに甘えたのは確かに俺だから、「最低」って殴られても仕方がない。それであゆなを失うのは嫌だけど、自分の行動の責だから何も言えない。
それきり、俺も口を閉ざす。沈黙を風がさらった。空が少しずつ、朝を迎える準備を始める。
「……いの」
「え?」
あゆなの掠れた声が耳に届く。
問い返すとあゆなは、赤い目で俺を拗ねるように睨み上げた。さっきはただ赤かっただけの目が、今は微かに潤むように遠く差し込み始めた朝日と街灯を映し込んで煌めく。
「ばっっっかじゃないの……」
また馬鹿?
「ずるいわよ。嫌って言えるわけがないじゃない」
「……」
「少なくとも好きになってくれるつもりがあるんなら、待つしかないじゃない」
言葉のない俺の袖を掴んであゆなが俯く。その髪をまた、風が、舞い上げる。
「わたしの気持ちも、朝、言ったわ」
「……」
「ゆっくりでいいから、好きになってね、って。……あんたが由梨亜ちゃんのこと忘れてないことくらい、最初からわかってるわよ」
「……」
「あんたの気持ちなんか、筒抜けよ。言ったでしょ、どんだけ自分の顔が馬鹿か覚えておきなさいよって」
……顔が馬鹿。
「馬鹿馬鹿言うなよ。本当に馬鹿のような気がするじゃん」
「……馬鹿じゃないつもりだったの?」
「……」
目を半開きにしてじとっと睨んでやると、赤い目のままであゆなが吹き出した。やっと見せてくれた笑顔。
それを見て、素直に愛しく思った。
笑って欲しい。悲しい顔をさせたくない。
自分の中で覚悟が決まったような気がする。
「不安になって欲しくないから、もう一度言う……」
俺の胸元、すぐそばに立つあゆなの冷えた体を抱き締める。小柄と言える俺より更に小さい体。
「俺と、付き合ってくれる?」
俺の腕の中、あゆなが両手で顔を覆った。
「うん……」
小さく頷いたあゆなと唇を重ねる。
閉じた瞼の裏に、ゆっくりと昇ってきた朝の光が横から差し込んでくるのを感じた。