第7話(3)
ロッカールームを出ながら、中西が呟いた。黙ってその言葉を受け入れる。
「お姫様が大暴れしなきゃいーけどなー」
「しないよ」
どことなく食べ物の匂いのする廊下を歩きながら、その言葉につい苦笑した。
美姫は別に俺の彼女になりたいわけじゃない。多分お構いなしでこれまでのスタンスを貫くだろう。あゆなだってわかったって、平然とあゆなの前で俺にタックルをかけてくるに違いない。
急いで追いついてきた健人と三人で連れ立ってフロアに入る。他のスタッフと挨拶を交わしながらオープン準備を始めた。
「橋谷くん、少し痩せた? だいじょぶ?」
芽衣子がテーブルセットをしながら声をかけてくる。答えようと口を開き掛けると、それより早く通りがかった健人が口を挟んだ。
「だいじょぶだいじょぶ。彼女作る余裕があるくらいだから」
「うるせえ」
ばしっと健人のふくらはぎを蹴飛ばしてやる。「いてー骨折れたー」などと言いながら去っていく健人を見送って、芽衣子が目を丸くした。
「えー、嘘ー。何だ狙ってたのに」
「嘘つけ」
「ほんとほんと。だって一発当ててお金持ちになるんでしょ? 家買ってもらおーと思ってたのにー」
けらけらと笑う芽衣子を横目で睨みつける。
「柳原サン、男性をそういう基準で見るのはどーかと思いませんか」
「他に基準値ないもーん」
ないんかい。
まだ複雑な胸中を見つめなおしている暇もなく弄ばれながらテーブルを拭いていると、俺が拭いた後にテーブルセットをしながら芽衣子がちらりとこちらを見た。
「ま、仕事に引きずられて別れないよーにね」
まだ始めたばっかだっつーの。
テーブルの下に落ちていた昨夜の名残の紙ナフキンの袋を拾い上げて、手の中で丸めながら目を細める。
「何だよそれ」
「だってさあ、良く聞くじゃん。売れたら別れるとかさあ」
前提が間違ってます。
「売れるとは限らない」
「そりゃそーだけど。わたしの友達、ダンサーのコと付き合ってたのね。高校ん時だけど。今、その彼氏、椎名とかのバックダンサーやってんだわ」
「へええー」
椎名あゆみは、女性に人気がある大物シンガーだ。俺は良く知らないけど、名前と顔だけはしょっちゅうテレビだとか広告だとかで見るから知っている。
「それに抜擢された頃に、やっぱ別れてんの」
手の中にゴミを握ったままで布巾を折り代えて、他のテーブルに移動しながらぼそりと口を開いた。
「売れたいとは思ってるよ、そりゃ。でもそもそも売れるかわかんないし、それと恋愛は直に結びつかないんじゃないの」
「そーかなあ」
「大体付き合い始めたばっかで先なんかわかんないし、そういう不吉なことゆーのやめてくらさい」
顰め面の俺のクレームに、芽衣子が笑った。
「そだね。ま、うまくやんなよってことだよ。どっちも頑張れぇ」
「はーい……」
答えながら、いつだか頭によぎった考えが頭を掠めた。
――環境が変わることで変わっていく何か。
でも、このままの状態を続けているわけにはいかない。
何かが変わるなら、変わらないよう努力をしながら、上を向いて頑張らなきゃな……。
◆ ◇ ◆
バイトを終えて、同じ上がり時間の健人とロッカールームに戻る。
ちなみに美姫は今日も見事に襲撃したが、用事があったのか二十二時頃には自発的に帰って行った。
「せめて美姫ちゃんわけろよなー」
わけのわからない健人のぼやきを聞き流してロッカーを開ける。ネクタイに指を引っかけて緩めながら、上着のポケットを漁って携帯を引っ張り出した。開いて不在着信の表示に気がつく。……十六件。ええ? 十六?
誰だろう。
何気なく開いて操作をし、ぎょっとした。
(なつみ?)
着信履歴にずらーっと並ぶ同じ名前に、失礼ながら少しばかり寒くなる。だってでも、ちょっと怖いよね?
何かあったんだろうか。
この前様子が妙だったことを思い出し、慌てて掛け直そうとして思い止まった。長くなりそうな気がする。あゆなに電話するって約束したし、初っ端から待たせるわけにもいかないし、だったらなつみは後で掛けた方が良い気がするじゃん?
帰り支度を整えて、単車を停めてある駐車場に向かいながら、とりあえずあゆなに電話をかけた。駅前の横断歩道前の混雑を避けて裏道に入ると、数回のコール音が途切れてあゆなが電話口に出る。
「あ、俺。橋谷」
「うん」
「今終わって……あゆな、眠くない? 遅くなってごめん」
「ううん、平気。お疲れさま」
……?
答えるあゆなの声が妙に儚く聞こえて、首を傾げる。元気がない?
「あゆな? どうした? ……元気ない?」
俺の問いに、あゆなが慌てたような声を出す。
「え? あ、ううん……そうじゃなくて」
「本当?」
「うん。元気がないわけじゃ、ないんだけど……その、ね。あの……」
「……何? 俺のこと?」
歯切れの悪さが、俺を不安にさせた。やっぱあんたじゃ嫌だわとかそういうことだろうか。ないとは言えない心当たりがあるだけに、心配になる。
「あゆな?」
言葉を選ぶような沈黙の後、あゆなはまだ迷うような口振りで「馬鹿なこと聞くけど」と前置きをした。
「わたし、啓一郎の、彼女、なの?」
「……」
俺は今朝からそうなったと思ってるんですが。
俺、そんなわかりにくい言い方をしたんだっけ? いやでも、付き合おうって言ったんじゃなかったっけ? それともあゆなはそれを受け入れたつもりがなかったとか?
困惑して、駐車場へ向かう足を止める。こっちへ向かってくる酔っ払いを何となく眺めてから空を仰ぐと、冷たい夜風が俺の頬を撫ぜて通り過ぎた。
「俺は、そう思ってる」
「そう?」
「……えーと。俺の一方的な思い込みでした?」
それ、切ねー。
苦笑いしながら尋ねると、あゆなが慌てたように声を張り上げた。
「違うの。そうじゃなくて、そうじゃない、んだけど……あの、あのね。実感が持てなくて。夢だったような気がしちゃって」
一生懸命言い募るあゆなの声が潤んでいく。
「わたし、わたしが自分に都合良く解釈しちゃったんじゃないかとか、いろいろ考えちゃって……」
「あゆな……」
「……好き過ぎて、信じられないのよ」
………………………………な、なんかあゆなが可愛くなってる。
その言葉についばーっと赤くなり、携帯を持つのとは反対の手で顔を覆って目を閉じた。どきどきしてる自分が何か、あー……もうなあー……。
「別に、夢じゃないよ。あゆなは、俺の彼女だよ」
「……うん」
沈黙。
妙にしおらしくなっちゃってるあゆなにペースが狂い、どう扱って良いのかわからなくなってしまう。何だかそれがくすぐったく、俺はそわそわしながらわざと意地の悪い口調で言った。
「あゆなサンたら俺にベタ惚れじゃん?」」
「ばば馬鹿言わないでよ誰があんたなんか」
……。
『誰があんたなんか』って。
「調子、出たじゃん」
くすくす笑いながら歩き出す。駐車場に辿り着いて隅に停車してある自分の単車のそばまで来ると、俺は足を止めた。
「まんまの、いつも通りのあゆなでいてよ。俺、お前の態度悪いのも口が悪いのも慣れてるから」
そうか。『寛大な彼氏』って俺のことだったのか。
いつだかあゆながカレーを作ってくれた時の会話をふと思い出す。
「失礼ね」
「事実でしょー?」
唇を尖らせていそうな、でもさっきより張りのある声に安心した。
順番逆だけど、関係だけ先に進んじゃって、でも多分だからこそあゆなが俺を想ってくれる気持ちを痛切に感じることになった。それが俺の気持ちを優しくさせるし、優しくしたいと思わせる。
「別に、言いたいこと言えば良いから。今までみたいに」
「啓一郎、悪態つかれるのが好きなの?」
「どんだけMだよ? 俺」
憮然と呟く俺の耳に、あゆなが吹き出すのが聞こえた。良かった。ようやく笑ってくれて。
「あゆな、もう寝る?」
「え? ううん。まだ、寝ないけど」
「……今から行って良い? 少しだけ」
またしばらく会えなくなる。
だからせめて、あゆなが不安にならないように。俺にはあゆなを大切にするつもりが、付き合っていくつもりがあるんだってことをわかっていて欲しい。
それに……。
(ちゃんと話さなきゃ)
俺の気持ち。
じゃないと何か、フェアじゃない。
「すぐ、帰るから」
「うん」
せっかく強気に戻ったあゆなの声が、泣きそうに潤む。
「ちょっとなつみに電話しなきゃなんないんだけど、終わったらすぐ、向かうから」
「……待ってるね」
「うん。待ってて」
単車に寄りかかりながら通話をオフにして、そのままなつみの着信履歴を呼び出す。
その病的な件数に気が重くなったけれど、放っておくわけにはいかない。
この前みたいに意味不明な長電話だったら早く切るよう努力しようとは思うけど、寂しいんだろうと思えばそう邪険には出来ないんだよなあ。
躊躇いながら、通話ボタンを押す。繰り返されるコール。
(……?)
つい先ほどまで狂ったように着信があったわりに、出ない。一度切ってもう一度かけ直す。けれどなかなかコール音が途切れることはなく……。
(何だ?)
嫌な予感。
(ま、まさか手首切ったりしてねーだろーな)
とんでもない考えが頭をよぎったので、コール音が途切れた時には、思わず安堵のため息が漏れた。
(考えすぎ……)
馬鹿なことを考えた自分に小さく笑い、口を開く。
「なつみ? 橋谷だけど」
「けぇいちろぉ……?」
「う、うん」
……?
寝ぼけたみたいな声に、一瞬言葉に詰まる。おさまった心臓の鼓動が、また加速した。明らかに様子がおかしいぞ。
「なつみ?」
「かずきがぁ……」
和希?
「うん」
「わたしのことぉ、きらいって……」
え?
「なつみ?」
問いかける声に対する返事はない。
ただ、受話器の向こうで半ば独り言みたいに何か言っているのが微かに聞こえる。まるで気が狂ってるかのような雰囲気が漂ってきて、俺は薄ら寒くなった。
「まえにぃ……みんなでいっしょにはなび……」
どこか幼さの残る、幼女のような声と話し方。夢見ているみたいな無邪気さに、背筋が寒い。
「……たのしかった」
「あの、なつみ」
「うみで……いっぱいいろんなはなび、やって……。あいはらくんの、おじさんのいえ……。おさかな、おいしかったね……」
「……」
「よっぱらってたわたし、さがしにきてくれたでしょ……?」
俺は知らない話だ。クロスとは別枠の話だろう。ずっとクラスメートだったニ人には、そっちで独自の交友関係がある。
「むり、してたのかな……」
どう答えて良いかわからない。悲しげでさえなく、なつみは無邪気な声で呟いた。却って痛々しい。
「かぜぇ、ひいたとき……」
「……うん」
切れるわけがなかった。
淡々と和希との思い出を語るその胸中を思うと。
「ごはん、つくってくれて……」
「……うん」
「うれしかった」
それきりなつみは沈黙した。その沈黙をどうとらえて良いのかわからなくて俺も口を開けずにいたが、ややしてあまりに沈黙が長いことに気づく。
「……なつ……」
「けぇいちろぉ……」
い、いた。良かった。
「めーわくかけて、ごめんね……」
ぷつッ……。
(えっ?)
不意に何の前触れもなく切れた電話に焦る。
「なつみっ?」
すすす凄ぇ不吉な終わり方……。
(何か、ラリってるみたいだったな)
慌てて掛け直すがなつみが呼び出し音に応えることはなく、俺は焦ったまま小さく舌打ちした。代わりに和希のメモリを呼び出す。
発信ボタンを押して和希が出るのを待ちながら、なつみの話し方とかに覚えがあることに気づいた。吹き抜ける冷たい風が、焦る気持ちを煽る。
(……クスリ?)
ああいうトビ方をしている奴を見たことがあるような気がする。
(でもまさか)
なつみに限って、クスリなんかやるわけがない。
それは絶対、ない……。
「どうした?」
コール音が途切れて聞こえた和希の声で、我に返った。鼓動が早くなっていることに気がつく。
「あ、俺」
「わかってるよ。どうしたの?」
寝てたんだろうか。少し、掠れた声。
「和希、今、出られる?」
「え? 出られないことはないけど。何で?」
「なつみん家、向かって。俺も、行くから」
「え?」
正しいのかどうかわからない。火に油になるのかもしれない。
でも、なつみが切実に求めてるのは間違いなく和希で、俺には正直もうどうしてあげて良いのかわからない。
「どうしたの?」
「お前、なつみに嫌いだなんて言ったの?」
「はあっ?」
俺の言葉に、いきなり目が覚めたみたいにぶっ飛んだ声が上がった。
「誰がっ? 俺がっ? 言うわけないだろっ?」
だよね。
(じゃあやっぱりさっきのは……)
幻覚、あるいは幻聴?
いずれにしてもなつみの妄想の類だ。
「あいつ、ちょっとヤバいかもしんない」
聞けば聞くほど、本当に仲良かったんだなと思う。
フラれてるとは言え、なつみが和希のこと諦められなくたって仕方がない。
俺が見ている範囲でもそうだったんだから。見ていない範囲まで含めれば……。
「え?」
「いいから、なつみん家、向かって。でも、俺が行くまで待ってて」
渋谷にいる俺より和希の方が多分、つくのは早いはず。
「わかったけど、何があったの?」
「電話、狂ってるみたいにかかってきてて、通じたと思ったら何か……ちょっとトんでるみたいになってて……で、電話がいきなり切れた」
「……」
「だから。俺、もうどうして良いのかわかんないよ」
わかったと短い返事の後、電話が切れる。携帯をポケットに突っ込んで、単車のエンジンをかけた。
なつみの家はそう何度も行ったことがあるわけじゃないからうろ覚えだけど、一度だけ、俺が送ったことがある。行ってみれば道は多分、わかるだろう。




