朱里のおつかい
紫色の双峰ーー筑波山は今日も穏やかでいて、周囲には雲ひとつない青空が広がっていた。
その麓たる下妻の鈴木家の邸宅では、いつものように母が朱里をリビングに呼んで、丁寧におつかいのお願いをしていた。
丸十パン屋でおじいちゃんが明日の朝食に食べるイギリスパンを買って、それから柳屋さんで明日お客さんに出す水羊羹を五つ買ってきてね。食べたいものがあったら一緒に買って来てもいいわよ。
朱里は母から頼まれるおつかいが好きだった。一番年下でも家族のために何かができると思えることが嬉しかったし、大抵は大地と連れ添って行くことになるのでそれも嬉しかった。
エコバッグの中にお金を入れてもらい、麦わら帽子を被せられ、朱里は意気揚々と出発する。
午前中だと言うのに既に日差しは強い。ひっきりなしにセミがジイジイ鳴いて喧しい。それに負けじと山鳩もホーホー、ホッホホーと精を出す。
大地の家の前を通りかかった時、庭で水やりをしていた大地の母が、興味深げに庭を覗き込んでいる小さな朱里の姿に気づいた。
「あれ朱里ちゃん」
朱里は麦わら帽子を持ち上げ、大地の母にお辞儀をした。
「おつかいかい? 偉いねえ。遊んでばかしの大地とは大違いだよ。大地は、朝っから梨畑に父ちゃんと出かけたよ。父ちゃんの邪魔しいしいセミ取りしてるだろうから、畑さ入ってっでみな」
朱里は頷いた。
パン屋に行く途中に大地の家の梨畑はある。そこに大地はいるのだ。
朱里は少々早足になって先を急いだ。
信号も歩道もない。あるのは土埃の上がる細い道だけ。沿道に広がるのは畑と田んぼ。遠くには筑波山。
朱里は見慣れた道をそそくさと歩いた。
「セミにしょんべん引っ掛けられたー!」聞きなれた声がする。大地だ。
「こいづ! 俺もやり返してやる!」
「大地やめろ! おめは人間だど!」大地の父の声も聞こえてくる。
梨畑の入り口にはいつもの見慣れた軽トラが停まっていた。さて入ろうと思った瞬間、朱里の脳裏に素敵なアイディアが閃いた。それは大地に会う前におつかいを済ませてしまおうということであった。
そうしたら大地はきっと、「一人でおつかい行けだのか、すげーな!」と賛嘆してくれるに決まっている。パン屋へは既に何度も行っているし、一人でもおつかいは済ませられるはず。朱里はその素晴らしいアイディアを胸に、そっと梨畑から離れ、パン屋へと急いだ。
しかし、しばらく行くと朱里の足はぴたりと止まった。
パン屋はもうすぐである。
なんなら赤い屋根が見えてもいる。その上ですましたように鎮座している見慣れた風見鶏も。
でも足がすくんで一歩も動かない。
道の真ん中にセミが落ちているのである。セミは腹を見せてじっとしている。死んでいる。ならば大丈夫だ。朱里は恐る恐るその脇を通ろうと試みたがその瞬間、
ジイジイ!
と鳴いてセミは一気に朱里の背丈程も飛び上がった。
思わず朱里は尻餅をついた。
再びセミは道に落ちてまた腹を見せて転がる。
朱里の胸の鼓動が速まる。とくんとくんとくんとくんーー
朱里は再び転がったセミを凝視する。
しばらくするとまた、ジジジジイ! 今度はぐるり、と道いっぱいに輪を描くように横跳びになって朱里の近くまで来た。
朱里は両手で顔を覆った。涙が滲んだ。指と指の間を押し広げるようにジリジリと前を見ると、セミはまた腹を見せて転がっている。
……怖い。死んだふりをしているだけで、生きている。しかも道の真ん中で、行手を阻むようにして。
通ろうとすればアレはきっとまた暴れ出す。
朱里はゆっくりゆっくり立ち上がると、そのまま家の方向へと向かって一目散に駆け出した。
脳裏に浮かぶのは、おつかいしっぱい、の文字。
ママががっかりする。おじいちゃんが朝ごはんを食べられない。わかってはいる。お客さんに羊羹を出せなくなる。お客さんもがっかりする。
でもどうにもできない。
パパも残念がるだろう。おばあちゃんもどうしたんだろうねえ、朱里ちゃんはできるはずなのにと首を傾げるかもしれない。
でもどうにもできない。
朱里の目からは次々と涙がこぼれ落ちた。気づけば麦わら帽子もどこかへ飛んで行ってしまっている。
「しゅり!」
その時、朱里の腕をぐいと強く掴んだのは言うまでもない。大地であった。
「おめ、どしたんで?」
朱里は荒々しい呼吸のまま大地を見つめた。
「泣いてんのが?」
大地は心配そうな眼差しで、食い入るように朱里を見返す。
「どした? 転んだんか?」そう言って大地は朱里の幾分汚れたスカートの裾を見下ろした。
「血は出でねえな、膝小僧さ打ったが?」
朱里は首を振る。
「おめ、おつかい途中なんでねえのが?」
朱里のエコバッグが膨らんでいないことに気づいて、大地は深刻そうに言った。
「おつかいしねえで、帰って来ちゃったのが?」
その言葉はあまりに残酷な響きを秘めていたので、朱里の双眸からは大きな涙が次々と溢れ出した。
朱里は耐えきれずに涙を拭い拭い、あっち、とやってきた方向を指差した。
大地も振り向く。逃げ水のチラチラと見え隠れする夏の道。でも、何もないように思える。
「なんか、怖いのでもあったのが?」
再び大地は朱里に向き合う。朱里は激しく二度も三度も頷いた。
「ほが。じゃ、俺が一緒に行っでやる」大地はそう言って力強く朱里の手を握り締めた。
二人は歩き出す。
エコバッグに描かれたパンのイラストを見れば、朱里の本日のおつかい先がいつものパン屋であることはすぐに知れた。大地は眉を吊り上げて、朱里のおつかいを妨げた何者かを探し出すかのように歩いた。
しばらく進むとぴたりと朱里の足が止まった。
大地は振り返る。朱里は恐怖に怯えた眼差しで指差す。
大地は手を解いてタッと駆けた。
ーー死んだセミが転がっていた。
大地がそっと手を伸ばした瞬間、しかしセミはジジジジイ!と鳴き声を上げて飛び上がり、そしてすぐに地に落ちた。
「しゅり、こいづか?」
大地は鋭い眼差しで振り返る。朱里は何度も頷いた。
大地はよし、というように小さく頷くと、セミを両手で拾い上げ包み込んだ。バタバタもがく様を手のひらに感じながら、近くのトウモロコシ畑に突進した。
姿が見えなくなり心配になって朱里は畑に近づく。すぐに大地が笑顔でトウモロコシの影から出てきた。
「もう大事だべ。セミ、奥の方のトウモロコシの葉っぱにくっつけてやってきだ。もう道さ出でぐんなっつっておいだがら大丈夫だべ」
朱里の目から今度は安堵の涙がこぼれ落ちる。
「さあ行ぐべ!」
大地はふと足元に朱里の麦わら帽子が落ちているのに気づいて拾い上げる。そのまま母ちゃんがよくやってくれるように朱里にグッと被せてやると、手を取り歩き出した。
その手はどこまでも温かくまた大きかった。朱里は力を込めてその手を握り返した。




