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80話

季節は五月を迎えていた。

凍てつく冬が去り、春の温かな息吹が大陸全土へと戻りつつあった。

リデルは馬を走らせていた。

グランツから下された密命を受け、特使として東方のティーガル辺境伯領へと向かう途上であった。

その長旅の道中、立ち寄るべき拠点があった。

北部本領貴族・ラングレー公らの討伐に向け、大規模な軍備を進めているバートン家の陣営である。

眼下の訓練場では、整然と隊列を組んだ兵士たちが素早く動いていた。徹底された規律、寸分の狂いもない統一された身こなし──バートン家の率いる兵らの練度は、以前にも増して一段と磨きがかかっているようであった。

リデルは感銘を覚えつつ、傍らに立つラムズが静かに話しかけてきた。

 

「……ラングレー公らの討伐開始を二ヶ月も前倒しにさせたのは、そうした理由からですか」

 

ラムズは訓練に励む兵士たちから視線を外さぬまま、重々しく答えた。

 

「ああ」

 

リデルは前方を見つめたまま、言葉を重ねた。

 

「ティーガル家に聖母派が接触を図るとすれば、狙いは双方の停戦仲介以外にあり得ない。私はその真偽を探るべく、ティーガル辺境伯領へ特使として赴く。それと並行し、後憂となるラングレー公の討伐をなるべく進めておきたい」

 

「相変わらず、精力的なお方だ」

 

ラムズはふっと口元を緩めた。

その声には、単なる世辞ではない本心が混じっていた。

 

「……ですがね」

 

ラムズは静かに言葉を継いだ。

 

「それは、推測ではなく『事実』ですよ、リデル様」

 

「何だと?」

 

リデルは思わず視線をラムズへと向けた。

 

「ティーガル家と、マルシア殿下率いる北方軍閥との和議──それはすでに一週間前、教皇ゲオルクスの手によって手打ちが済んでおります」

 

「……なに?」

 

リデルの目が鋭く細まった。

 

「和議が成立しただと? 確認は取れているのか」

 

「ええ。間違いございません」

 

「……どこからの情報だ」

 

「私独自の情報網からです」

 

ラムズはわずかに口元を歪め、不敵な笑みを浮かべた。

 

「私もそれなりの立場になりましたからな。昔のように、単なる一家臣というわけではありません」

 

「……ふん」

 

リデルは再び視線を前方の訓練場へと戻した。

 

「お前は、相変わらず隙も油断もない男だな」

 

「……お褒めいただき、光栄に存じます」

 

「褒めてなどいない」

 

二人はしばらくの間、無言で並び立ったまま兵らの訓練を眺めていた。

 

「お前がそこまで奴らの動きを警戒していたということは──」

 

リデルが静かに切り出した。

 

「ギリアス・ティーガルという男について、何か掴んでいるのか?」

 

「私とて、人並み程度の噂話しか存じ上げませんよ」

 

ラムズは視線を動かさぬまま答えた。

 

「戦に滅法強く、苛烈にして英雄的。旧態依然とした腐敗を正し、義理と情にも厚く、領民からは絶対的な支持を集めている。……平たく言えば、『理想的な統治者』という評判ですな」

 

一拍の間。

 

「……ただ」

 

「何だ?」

 

「私個人の見解は、世間の評判とは少しばかり異なっておりますが」

 

リデルはラムズの横顔を見つめた。

 

「どういう意味だ?」


「『エルドラ事件』の噂は、ご存じですかな?」

 

ラムズは訓練場を見下ろしたまま尋ねた。

 

「ああ」

 

リデルは短く答えた。

 

「先代のティーガル辺境伯と、その一族が暴徒によって凄惨に殺害された大事件だろ」

 

「左様です」

 

ラムズは静かに言葉を続けた。

 

「あの悲劇の結果、棚からぼた餅のような形でギリアスが辺境伯家の頂点に収まったわけですが……これがどうにも胡散臭い」

 

「怪しい……とは?」

 

「エルドラ事件を引き起こした暴徒たちですがね……実はそのうちの数名が、ギリアスの息がかかった手下であり、裏で暴動を過激に煽った中心人物だったという話があるのです」

 

ラムズは少し間を置き、声を低くした。

 

「しかも……その暴動の首謀者たちは、現在のギリアス体制において要職へと取り立てられていると来ている」

 

リデルは無言のまま、じっと耳を傾けていた。

 

「つまりお前は、あのエルドラ事件そのものが、ギリアスによる自作自演の乗っ取り劇だったと言いたいのか」

 

「あくまで可能性の話です」

 

ラムズは慎重に言葉を選んで答えた。

 

「決定的な確証はありません。ですが、この程度の不穏な噂話の一つや二つは、現地でも確実に流れているはずなのです。それにもかかわらず……現地民から彼に対する反発の声など、ただの一度も聞こえてこないとのことです」

 

「……」

 

「よほど領民から深く慕われていると同時に……逆らえばどうなるかという、底知れぬ恐怖を植え付けられているのでしょう」

 

リデルはしばらくの間、静かに訓練場を見つめていた。

 

「……ふん」

 

やがて、冷ややかに呟いた。


「主家を罠に嵌めて乗っ取った、筋金入りの『姦臣』というわけか。……お前のような奴だな、ギリアス・ティーガルという男は」

 

ラムズはくっくっと声を殺して笑った。

 

「いいえ」

 

「何がだ」

 

「私はむしろ……リデル様こそ似ていると思っておりますがね」

 

リデルは眉をひそめ、ラムズを見た。

 

「……どういう意味だ?」

 

「悪行を成してもなお周囲から許され、深く慕われる者──それは、凡人には到底窺い知れぬほどの巨大な器量と力を持つ人物である……と、私は考えております」

 

ラムズは力強い視線を投げかけた。

 

「……貴方や、あのグランツ様のようにね」

 

リデルはその言葉を静かに受け止め、何も反論しなかった。

 

「……そして、元家臣からのささやかな忠告ですが」

 

ラムズの口調から軽薄さが消え、わずかに真摯な響きが混じった。

 

「……どうか、お気をつけください」

 

「私がしくじって下手を打つとでも?」

 

「いいえ」

 

ラムズは再び訓練場へと視線を戻した。

 

「貴方はどうも……良くも悪くも、関わった『人間に火をつけてしまう』傾向がおありのようですので」

 

「……」

 

「出会う人々に、必要以上の強烈な影響を与えてしまう。それが時に、誰にも止められない予測不能な方向へと燃え広がることがある。……ご自覚はおありですかな?」

 

リデルはしばらくの間、沈黙を守り続けた。

 

「……覚えておこう」

 

やがて、短くそう答えた。

ラムズはそれ以上、何も重ねて言おうとはしなかった。

眼下の訓練場では、兵士たちが指揮官の号令に合わせて力強く動いている。

春の爽やかな風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。

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― 新着の感想 ―
このラムズとの味方とは言えずとも互いに認め合っている関係がずっと好きです
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