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75話

「……ホンマ、アホや」

 

独走したローデンス第一皇子を「保護」──もとい、足止めし軟禁するために現地へ派遣した部隊から届いた急報を読み終え、教皇ゲオルクスは吐き捨てるように呟いた。

 

「あの皇子、天上レベルのアホや……」

 

彼はそのまま重厚な執務椅子へ、力なくぐったりと崩れ落ちた。

普段の精悍でギラつく彼からは、到底想像もつかないほどに落胆しきった姿であった。

 

「……ワシらがどれほどの巨額の金使って、兵隊を集めとると思っておるんや」

 

ゲオルクスは天井の壮麗なフレスコ画を見上げながら、呻くように言葉を絞り出した。

 

「来春の大攻勢のために、こちらはどれだけのカネと時間を注ぎ込んできたと思っとる。それが全部……あのアホ皇子一人の愚行のせいでパァや」

 

同席していたレオール枢機卿も、言葉を失っていた。

何かフォローの言葉をかけようと口を開かけたが、結局は何も言えなかった。

 

『現地で皇子が勝手に結んだ口約束など、我が方に守る義務などございません』

そう断言することなど、政治的にほぼ不可能であったからだ。

ローデンス第一皇子には、実権など一切ない。それは疑いようのない事実であった。

しかし彼は、帝室ベルドルナ家の長男であり、現帝国における正統な皇位継承者である。教皇ゲオルクスと並び、聖母派の掲げる「正統性」という最高の権威を体現する象徴的存在であった。

しかも公的には、教皇および都市国家連合と緊密な盟友関係を結んでいることになっている。

もし教皇が、ローデンスの結んできた停戦協定を「無効だ」と突っぱねて反故にすればどうなるか──。

連合内部に決して少なくない数が存在する「皇室崇拝派」の勢力が、一斉に教皇への不信感を募らせ、最悪の場合は敵対へと回るだろう。都市国家連合の結束に、決定的な亀裂が入ることは火を見るより明らかであった。

そして何より、事態を絶望的にしていたのは──この勝手な停戦協定によって「実際に得をする者も多い」という紛れもない事実であった。

グランツ陣営の脅威に直接晒され続けてきたリガニア大公ボイドにしてみれば、この停戦が成立すれば北からの圧力が一時的にもストップする。諸手を挙げて大歓迎するに決まっていた。

先の霊峰陥落により、次は自分たちが直接攻撃されるのではないかと怯えていた都市国家連合の西部地域の諸都市も同様だ。戦火の恐怖に怯えていた者たちにとって、この停戦協定はまさに願ってもない朗報であった。

それだけではなかった。

連合を牛耳る有力商家や大銀行の幹部たちの中には、ゲオルクスの主導する「大規模な帝国本領進出構想」そのものに、元から強い難色を示していた者が少なくなかったのだ。

それどころか彼らの一部には、グランツ陣営と正面から血みどろの泥沼劇を演じるより、彼らが進める帝国再統一戦争を陰で静観し、その過程で必要となる膨大な戦争物資を売りつけて巨額の富を貪る方が、遙かに賢明で儲かる───

そうした機会主義的で日和見な意見も、連合内部には平然と存在していたのである。

「南部都市国家連合」という緩やかな自治勢力の集合体が、これまで聖母派と足並みを揃えて一つの方向を向いていられたのは、ひとえにゲオルクスの圧倒的なカリスマ性と、各勢力に対する緻密極まりない利権分配と政治調整の手腕によるものであった。

だが、ローデンスが現地で独断で結んでしまった停戦協定は、その絶妙な均衡とまとまりを根本から叩き潰しかねない病原菌であった。

しかも愚かなことに、ローデンス自身がすでに現地で「余が和平をもたらした」と声高に吹聴してしまっている。今さら「無かったこと」には絶対にできないのだ。

では、この協定を大人しく遵守するのか?

遵守すれば、その協定期間である丸一年の間、グランツ陣営は停戦対象に含まれていない北部の本領貴族──ラングレー公らを一方的に叩き潰しにかかるのは確実であった。聖母派は指をくわえてそれを静観するしかなくなる。

かといって、協定を無視して来春の大攻勢を強行するのか?

そうなればローデンスの面目を公然と潰すことになり、連合内部の決定的な亀裂を招く。停戦を支持していた勢力が一斉に反発し、内分解体に陥るだろう。

まさしく、進むも地獄、退くも地獄であった。


「……今回は、あまりにも運が悪すぎました」

 

静寂を破り、レオールが重々しく口を開いた。

 

「しかし猊下、兵力においても財力におきましても、依然として我が方が圧倒的に優位であることに変わりはございません。我らの優勢が揺るがないことだけは確かです」

 

それは、絶望的な空気を打払うための必死の慰めであった。

 

「……それはちゃうな」

 

ゲオルクスは、天井を見つめたまま低く呟いた。

 

「何が……でございますか?」

 

「『運が悪かった』っちゅう話やない」

 

ゲオルクスはゆっくりと上体を起こした。

重厚な椅子の背もたれに深く体を預け、鋭い眼光で正面を見つめる。

 

「今回の一件……ワシらと同じように、向こうにとっても完全に『想定外』だったハズや」

 

「はい。ローデンス殿下が単身で現地へ動くなど、誰一人として予測できるはずもございません」

 

「せや。あの敵の若造、リデル・バートンかて、あの愚か者皇子が自分の目の前に現れるとは夢にも思っとらんかったはずや」

 

ゲオルクスは、組んだ指先にぐっと力を込めた。

 

「だがな……奴はそのまったく予測不能だった想定外の状況で、瞬時に手早く動いたんや。そして『一年間の停戦協定』という完璧な妙手を、ワシの喉元にねじ込んできおった」

 

「……」

 

「千載一遇のチャンスっちゅうのは、誰の元にも平等に降ってくる。……だがな、それを逃さず一瞬で掴み取るには、相応の力量が必要なんや」

 

ゲオルクスは静かに、噛み締めるように続けた。

 

「リデル・バートンとかいうあの小僧は……そんな特大級のチャンスを逃さず掴み取るだけの力量を持っとる。……ちゅうことや」

 

一拍の重苦しい間が置かれた。

 

「……厄介やで、ホンマに。あの陣営には……グランツがもう一人おるようなもんや」

 

レオールはその言葉を耳にし、息を呑んだ。

何か反論を試みようと口を動かしたが、声が出なかった。

「グランツが、もう一人」──その言葉の持つ途方もない絶望感と重圧が、重く部屋の空気を支配していた。

誰も口を開かない、重苦しい沈黙が続く。

ゲオルクスは静かに立ち上がり、窓の外へと視線を向けた。

寒々と凍てつく、冬のくすんだ灰色空が広がっていた。

やがて──ゲオルクスがぽつりと呟いた。

 

「……まあ、ええわ」

 

「……猊下?」

 

「レオール」

 

「はい」

 

「ワシらの元に届いておる、例の『手打ちの仲介』の件や」

 

レオールは一瞬、記憶を探るように眉をひそめた。

 

「あ、あの件でございますか?」

 

「あれや。ワシが全責任を持って引き受けてやる、と今すぐ先方にお伝えしい」

 

レオールの顔色が、一瞬で青ざめた。

 

「し、しかし猊下……!」

 

「何や」

 

「それでは……奴らに、帝国本領への本格的な進出を許してしまうことになります!」

 

レオールは周りを憚るように、声を抑えながら必死に翻意を促した。

 

「ええんや」

 

しかしゲオルクスは、冷たくその言葉を遮った。

 

「ですが──」

 

「今は何をおいても、グランツ陣営の勢いと流れを叩き切るのが最優先や」

 

静かな、だが一切の揺らぎのない声であった。

 

「向こうが想定外の『妙手』を打ってくるちゅうなら、こっちは『禁じ手』を使うまでのことや」

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