ハゲよ さらば
「大変っすよね、玉木さん。」後輩の鹿田の言葉は相変わらず軽い。鹿田の契約書の不備のため、取引先に頭を下げに行く道中なのに。俺は苛立ちを夏の暑い日差しのせいにして誤魔化すように襟元を広げ、空気を入れ替える。
「暑いっすね。」鹿田は依然軽いままだ。全く誰のせいなのか。頭の中で鹿田の額に【馬】とサインペンで書く想像をした。そうすると、少し気が楽になった。少し笑って、鹿田の顔を見る。
「なんすか?顔になんかついてます?」鹿田の額に【馬】と浮かび、【馬鹿田】になっている。俺はあり得ない出来事にひきつった笑顔しか見せられなかった。
取引先回りは何とか終わった。鹿田の額の【馬】の文字で取引先の笑いを誘い、これからも契約に支障もなく、うまく切り抜けた。鹿田と言えば、【馬】という文字を駅のトイレで泣きながら洗い落としている。
「どうして教えてくれなかったっすか。」最後に取引先に笑顔で突っ込まれ、鏡を見せられ、気がついた。【馬】の字を書いた記憶もない。
「絶対、昨日の飲み屋でやられたんだ。」そう何度も繰り返す。トイレから出てきた鹿田の額は擦りすぎて、真っ赤になり、まだうっすらと字が残っている。
「もう、今日は直帰っすから。」そんな捨て台詞とともに改札を駆け抜けていった。きっと昨日の飲み屋にいちゃもんをつけに行くんだろう。俺は少し笑った。
直帰した鹿田のことも含めて、今日の報告書を完成させて、俺は定時で上がり、寄り道もせず、まっすぐ家に帰る。一人暮らしのマンションの鍵を開け、誰もいないから、まず風呂に入り、冷蔵庫にあったものとビールを適当にテーブルに並べて、想像してみた。【馬】鹿田という現象が再現性あるのならば、他にも同じことができるはずだ。
手始めにカツラ疑惑のある社長の額に【このハゲ】と。左右の髪の毛でハゲ部分を完璧にガードする上司に【このハゲ】と。完全に諦めて無駄な努力をしない男気ある上司に【このハゲ】と。いや、【このハゲ】しかない。もっと面白いことを想像しよう。ビールが意識を加速させて、想像力が暴走する。この国を背負う総理大臣に【このハゲ】と。証拠隠滅工作ばかりする各省庁の大臣に【このハゲ】と。自分の保身ばかり考えて国民のことを考えない国会議員に【このハゲ】と。いかん。ハゲしかいないのか。この国には。だから、ダメなんだ。この国は。いつの間にかテーブル上に乱立ししたビールの空き缶が不細工なドミノみたく音を立てて倒れていく。飲み過ぎて、ハゲしか思い浮かばない。この世界のハゲどもに【このハゲ】と。洗い流しても落とせないくらい【このハゲ】と。
二日酔いで頭が脈打っている。万力で締め付けられるような痛みをロキソニンで無理矢理押さえつける。電車の小刻みな振動が積み重なって、空っぽの胃を逆流させる。それでも、仕事に行かなくてはと体に鞭打って、電車に飛び乗った。いつもならこの時間、電車は満員であるはずが、何故だか空いていた。席にも座ることができ、体を電車の振動に合わせて、体にかかるGをごまかしてやり過ごす。本当に空いていてよかったと心から奇跡に感謝した。ロキソニンがじわりじわりと頭の感覚を麻痺させて、徐々に二日酔いが溶けていく。でも、なんでこんなに電車が空いていて、やたら女子率が高いんだろう。違和感を抱えたまま電車の揺れに身を任していた。
「玉木さん、大変っす。」会社でおはようよりも先に鹿田が駆け寄ってくる。
「誰も来てないっす。」どういうわけか電車と同じように出勤している社員の絶対数が少ない。そして、電車と同じく女子率が絶対的に高い。少ない男子は鹿田も含めてフサフサだ。
まさかな。この世界のハゲどもに洗い流しても落とせないくらい【このハゲ】と昨日酔っ払って想像した。社長も上司も総理大臣も国会議員もみんなハゲだったのか。額に浮かぶ【このハゲ】のせいで家から出られないのか。まさかのハゲだらけの世界。ある意味、ハーレムか。フサフサだらけの男子の世界。テレビをつけて、ワイドショーで確認すると、カツラ疑惑のあるタレントはすべていなくなっていた。そう、これは俺の能力なんだ。他人の額に文字を刻むことができる。なんて下らない能力だ。世の中で有効活用する方法が全く思い付かない。それでも、俺は優越感を感じて、小さく笑う。すると、フサフサの女子とフサフサの男子もクスクスと笑う。
「たーまきさん。」鹿田が俺の額を笑顔で指差し、スマホで写真を撮る。その写真にはあろうことか【このハゲ】と力強いタッチで文字が刻まれた俺の額が映っていた。
家に引き込もって、鏡を見ながら考える。何センチ後退したらハゲと言われるのか。どれだけ髪の毛が抜けたら、ハゲと思われるのか。そもそもハゲの定義とは何だ。俺もハゲだったんだ。突きつけられたハゲという現実と洗い流しても落とせない【このハゲ】という文字にもう二度とこの能力は使わない。そう誓った。そして、この世界からハゲが消えた。