くまくん
「僕のこと、忘れちゃったの?」
あたしは夢を見ていた。まったりとした時間が流れて、声の主を思い出そうと努力する。努力?小学校の頃、習字の時間に書いたけれど、全く努力していなかったな。どうでもいい記憶のパズルが頭の中で組み上げられて、崩れていく。どこにも正解はなく、どこにも間違いはない。でも、確実にこの声の主をあたしは知っている。
「やっぱり忘れちゃった?」
寂しげな声。それは冬の雪風より冷たい。
「ねえ、思い出してよ。」
陽気な声。それはサンバのリズムのように暑苦しい。
「僕はくまくんだよ。」
一向に思い出さないあたしに業を煮やした声の主は追い詰められた手品師みたく自分で種をばらす。
でも、くまくんって?
言葉は鍵。カチャリと記憶の扉が開いて、絵本のような世界が現れた。ファンタジックで、妖精が出てきて、あたしに魔法をかけそうだ。
で、くまくんは?
あたしは夢の中の絵本の世界で目を覚ました。いや、まだ寝てるから表現が間違っている。でも、まあ、いいや。あたしの夢だから。冷たい雪風も、サンバのリズムも存在しない。そこにはあたしが小さい頃、よく遊んだ公園があった。スコップを持って、お山を作っているのはくまくんだ。そう、くまくんだ。あたしはくまくんを思い出した。
街一番のデパートが閉店セールだったから、ママがあたしの手を引きずって、颯爽とバーゲンバトルに参戦する。最初は小さいあたしのことを気にしていたが、白熱するバーゲンバトルにママはあたしを忘れた。あたしはママの手を見失って、知らないおばさんのスカートの裾を渡り歩く。いっそ、泣いてしまえば良かった。そうすれば、迷子係のお姉さんが優しく手を握ってくれた。でも、ママの邪魔は出来ないなというわけで、泣くのは我慢した。その代わり、あたしはおもちゃコーナーを散策する。ほとんどは流行りの廃れたおもちゃばかりだった。でも、あたしその時、くまくんと出会ったんだ。
「ママ、スッゴく怒っていたね。」
くまくんは懐かしそうに笑う。くまくんは茶色のモサモサの毛だった。茶色のモサモサの毛はあのデパートにいた頃よりも色褪せている。それはそうだ。あれから何年経ったのだろう。
「毎日、遊んだよね。」
友達がいなかったわけでないが、くまくんと毎日、遊んでいた。おままごとで、ビーズのご飯に、毛糸のスパゲティ。どこにでも在る綺麗な石を机に並べて、くまくんと取り合いっこをした。そして、おもちゃの車を砂場のお山に埋めて、遊んだ。
「ほら、おもちゃの車だ。」
くまくんが掘り出しだのは錆び付いたおもちゃの車。あの日、見つからなくて、大泣きして、ママも、パパも探してくれたけど、見つからなくて、くまくんを抱っこして、泣いて、眠った。自分が埋めて、なくしたくせに。くまくんからおもちゃの車を貰うと、とても冷たいことに気付く。氷みたいだ。それはそうだろう。あの公園の砂場にずっと埋まっていたんだから。おもちゃの車を両の手で包んで、水飲み場で綺麗に洗った。砂も、泥も落ちたけれど、錆は落ちない。ごめんなさい。おもちゃの車をそっと握って、ポケットにしまう。2度となくさないように。
「おててを貸して。」
くまくんはスコップを置いて、指のない、色褪せた手を出した。あたしはそっとくまくんの手に触った。あたしの手もガサガサで、痛々しくて。くまくんの手も雪風にさらされて、冷たくて。あたしはギュ?ッとくまくんの手を握って、さすって暖める。
「ありがとう。」
くまくんは嬉しそうに笑う。
くまくんと遊んだ秘密の話。
ママとパパに内緒の話。
学校の友達にも言えない話。
みんなくまくんが抱きしめてくれた。あたしよりちっちゃいくせに。あの時もだ。デパートでひとりぼっちになった時、あたしは本当は泣きそうだった。でも、泣いたら、泣いてしまえば、もっと悲しくなるから、ずっと我慢していた。
「僕がそばにいるよ。」
泣きそうだったあたしは声を聞いた。優しくて、暖かい声。ママの声じゃない。誰の声?茶色いくまくんの声。モサモサの毛がフカフカのくまくんの手があたしを撫でる。
「僕がそばにいるから、泣かないでいいよ。」
くまくんとあたしが初めて出会った日。くまくんはおもちゃの世界のお話をたくさんしてくれた。ガチャガチャで欲しい物が出ないのはいたずら妖精のせいで、ガチャガチャを回す前に妖精の悲しむ呪文を言うと、当たりが出るんだとか。でも、呪文は教えられないんだって。だって、そんなことをしたら、ガチャガチャの中のいたずら妖精がいなくなってしまうからだって。くまくんのお話しにあたしは目を丸くして、驚いて、喜んだ。そして、バーゲンバトルで勝ち逃げしてきたママがやってきて、くまくんを抱きしめるあたしを抱きしめてくれた。でも、あの時、あたしがくまくんを抱きしめていたんでなくて、くまくんがあたしを抱きしめてくれていたんだと思う。そう、泣き虫なあたしをくまくんはいつも抱きしめてくれていたんだ。
「おっきくなったね。」
「そりゃあ、大人だもん。」
「でも、僕のこと忘れていたでしょ。」
「そんなことないよ。ちょっと思い出すのに時間かかったけどね。」
あたしとくまくんは笑う。
そして、くまくんが、あたしよりちっちゃいくまくんがあたしの頭を撫で撫でして、ギュッと抱きしめてくれる。
「どうしたの?」
「大丈夫だよ。僕がそばにいるから。」
あの時と同じで、くまくんのモサモサの毛がフカフカで。
くまくんの言葉が優しくて、暖かくて。
あたしはこっそり泣いた。くまくんのモサモサの毛に顔をうずめて。
夢から覚めたあたし。
頭に重みを感じるあたし。
頭の上にはあっちゃんが乗っかっていた。
「あっちゃん、どうしたの?」
あたしはそのまんまで聞いた。
「ママが悲しそうだったからギュ?ッとしてたの。あっちゃんも悲しい時、くまくんがギュ?ッとしてくれるから、頑張れるの。」
さっきのことだ。あたしはあっちゃんに八つ当たりをした。すぐにお風呂に入らないあっちゃん。自分でパジャマを着ないあっちゃん。歯磨きを逃げ回るあっちゃん。そして、仕事から帰ってこない旦那。あたしの周りが忙しすぎて、回らなくなって、切なくなった。どんだけ頑張ればいいのよ。ねえ。と、あたしはあっちゃんに怒鳴って、コタツに頭を伏せて、ふて寝のふり。しょうもない母親だ。そう反省したりするが、蓄積した疲労が爆発して、本当に眠ってしまう。あっちゃんはまだ子供なのに。いかん母親だ。自己嫌悪からモンスターが生まれて、成長していく。このままじゃ本当にいかん母親になってしまう。そう思った時、あっちゃんとくまくんがギュ?ッとしてくれた。あたしの中に生まれたモンスターはちっちゃくなっていく。救われた気分だ。あっちゃんとくまくんに。うん、くまくん?あっちゃんはあっちゃんのくまくんを抱いている。昔のあたしと同じように。きっとひとりぼっちで悲しい時、くまくんがあっちゃんを抱きしめてくれているのだろう。あたしと同じように。
「くまくん、大事にしなよ。」
「うん。」
あっちゃんは大きく頷く。
くまくんも何故か頷く。
「ママにもくまくんがいるといいね。」
「いるよぉ、ママにもくまくんが。」
「えええぇ?っ!」
あっちゃんは目を丸くして、驚いて。ママのくまくんとガチャガチャのいたずら妖精のお話しをすると、もっと驚いて、喜んで、くまくんに会いたくて、今度のお休みの日、おばあちゃん家にママのくまくんに会いにいく約束をした。
「なあに、こんな時間に?」
「今度の休み、そっちに行くから。」
「なによ。急に。」
「あたしのくまくん、まだあるかな?」
「はあ、まだあんた、くまくんいるの?」
「いる時もあんのよ。まあ、今度の休み行くから。よろしく。」
きっと今のあたしにはくまくんが必要だ。
【おしまい】