傾いていく話
「そうそう、しばらくフィールドワークに出かけることになったんだ。ひと月位の予定だけど、教授次第なとこもあるから延びるかも。暫く俺がいなくて寂しい思いさせちゃうけど、いつだってイーリカのこと思ってるから!」
ナンパでしつこい男な院生シェイン・ゾルは、庶民的に雑多に盛り付けられた若鶏の香草焼きを、高級料理かのように驚くほど優雅に食べながら言った。
「そう。平和な日常が戻ってくるみたいで嬉しいわ」
頼んだ本日の魚のソテーを良くも悪くも普通に食べながら、素っ気なく返したイーリカに、シェインは表情を不満そうに変えた。
「つれないね。イーリカが待っててくれてるって思えたら、ひと月の野郎だらけのむさ苦しい時間も苦じゃなくなるのに。一言、待ってるって言ってよ」
「思ってもないのに言うはずないでしょ」
間髪を入れずに、溜息交じりに彼女は言葉返す。そして、一拍おいてから気分を変えるように息を吸った。
「ところで、どこに行くの?」
シェインの所属する研究室は応用結界学。教授が学生を率いてひと月の調査に出るのだ。最新の結界か、はたまた解析の進んでいない遺物と化した古い結界か。
連綿と受け継がれる魔法の世界であっても、その全てが現在に行きついているわけではない。過去の偉人達の中には未だ理解を超える者も多く、ロストテクノロジーともオーバーテクノロジーとも呼べる魔法技術が多々存在する。
中でも、結界関連はそういった類のものが多く、最たる例としては、古くから存在する、魔王の君臨する魔国との境の結界の礎が解析不能な過去の遺物によるものだと言われているのだ。
好奇心と期待がない交ぜになったイーリカの表情に、シェインは悔しそうに顔をゆがめ、手にしていたカトラリーを置いてから、極小さくこぶしで机を叩いた。
「結界への関心に負けたっ……!」
頭をたれ、打ち震えるように嘆いてみせてから、
すっと顔を上げて溜息を一つこぼしてからシェインは改めて口を開いた。
「マウリッツだよ。マウリッツにあるベルベデーレ監視塔。ここからだと、馬車で半日ってとこかな?
前からちょっとずつ調査してるらしいんだけど、特定の条件で空間を捻じ曲げるような結界が張ってあるんだ」
「へぇ、面白い結界なのね。でも、言ってよかったの?」
機密情報と言えなくもないことに、僅かに首を傾げたイーリカに、シェインはあっさりと首を縦に振った。
「別に、前から知られてるとこだし、ある程度発表もされてるからね。勿論詳しい術式とかは言えないし、言わないから」
念のためと言わんばかりに足された後半の言葉に、イーリカは若干むっとしながらも頷いた。それがわからないほど、彼女は馬鹿ではない。
「ちょっとずつの調査で進展するものなの?」
理解していることを示すために、あえて話題を逸らして会話を繋げる。意図を理解してか少しバツの悪そうな顔をしてから、シェインは口を開いた。
「王宮魔法使いが派遣されて詰めてるらしくって、普段研究室ではその解析手伝ったりもしてるかな。たまに現物見に行って解析があらぬ方向行ってないか確認する、みたいな感じ」
「王宮魔法使い! え、その監視塔結構重要なとこなんだ!!」
途端喜色を示したイーリカに、シェインはぽかんと口を開き間抜け面を晒した。
「え、基準それなの?」
「当たり前じゃない!」
いわゆる三流のゼレイム魔法学院では、王宮勤めといえば高嶺の職場だ。乱暴にざっくりといえば、魔力が高く、頭がよく、技術がある人間しか就けず、ゼレイムの卒業生で言えば、ごく一握りがなれるかなれないか、そんな憧れの存在なのである。
そんな存在が派遣されて常駐している場所だ。これまでに聞いたことがなくても重要度が伺い知れるというもの。
興奮気味の彼女に、シェインは若干引くように椅子に座ったまま身を後ろへ反らした。
「常駐派遣だろ? ……そんな御大層な連中じゃないだろうに」
独り言のようにつぶやかれた言葉に、イーリカはきっと眦を上げる。
「それは王宮勤めになってから言っていいセリフよ!」
強い語気に、シェインはただただ、はい、と返事するしか他なかった。
そんな会話をした五日後の夕方、明日から行ってくるね、と中の上のくせに捨てられる犬みたいな寂し気な顔を見せるシェインと対照的に、至極嬉しそうな晴れ晴れとした顔で行ってらっしゃい! と言葉をかけるイーリカの姿があった。
そしてイーリカは束の間の平和を手に入れたわけである。
晴れ晴れと送り出した日の週末。
久々の優雅な一人時間に、イーリカはここぞとばかりに自分の行きたいところに行き、ゆっくり本を読みながらお茶をするという優雅な時間を過ごし、夜は少し奮発して、行きつけのお店の、ご褒美時にしか頼まない品々を頼んだ。
寮の親しい人達に、ご機嫌すぎて気味が悪いとまで言われたが、寛大な心で許した。
翌、二週目の週末。
最近ご無沙汰だった友人達と、全力で女性好みのお店を巡る旅を楽しんだ。
シェインといると、あ、これ素敵。と思ったもので買わなかったもの、を後から渡されるというドッキリがあるため、心行くまで買いもしないものを眺めることが出来て煩わしく思わずに済んだ。
三週目。
週末、特に用事がないため、イーリカは図書館にこもって勉強した。
お決まりの対面六人掛けの席に着き、構想中の術式に関連しそうな図書を積み上げ、本と睨めっこしながら書き取りをする。
理解できないことに対して、他の本をひっくり返して散々悩んでも結局答えが出ず、思わず顔を上げた。
目の前の空席に、一瞬時間が止まったような錯覚に陥って、息をのむ。
何となく気まずく視線を泳がしてから、再度考えてに没頭した。
図書館内の奥まった、あまり人の手に取らないような古典文学の棚近くの席。ここは、いつだって他の人は来ない席だ。
四週目。
なに一つ変わりない穏やかな日々を過ごしている中で、イーリカは廊下に目が向いてしまっていた。
そこには同じ四年生の学生や授業の始まりや終わりに移動する教師たち、たまに何かの言伝か移動のためか他学年が行き来している姿しか無い。
学生は制服姿、教師は授業時間は一律耐魔法のローブを羽織ることになっている。研究室外では好きな服を好きなように着る院生の姿を見ることなど、無い。
週末、部屋の掃除をした後は勉強もやる気になれず、とっておきのお茶をいつもより殊更丁寧に淹れ、気分を変えるために出窓に机と椅子を持ってきて、暖かな日差しの下買っておいたお菓子を摘む。
両方とも、お気に入りの品のはずなのに、何故か酷く味気なかった。
五週目。
週末、先週の落ち着かないような、陰鬱な気持ちがなく、何となく浮きだつような気持ちでイーリカは、ここぞとばかりに買い物に出かけた。店では普段は目に付かないような雑貨がーー髪が艶やかになるというオイルと、爪の手入れに使うオイルが目に入った。
その身のいずれかに青を持つ魔法使いは、殊の外その色を大切にする。最も色の出やすい部位は瞳ではあるが、髪や、多少珍しくはあるが爪に出ることもあり、魔法学院のあるこの街にはそういった手入れの品は珍しくない。
大半の魔法使いと同じく瞳にくその色が出たイーリカは、これまで気にしたことなど無かったが、身を飾ることが嫌いなわけではない。
勉強ばかりだし、たまには。それに、魔法使いでなくとも手入れは普通だ。
買う理由を内心でつぶやいてから、イーリカはその品々を買った。
寮の部屋に戻ってから早速使い、何故か手元にある、以前気になって結局値段の都合で買わずにいた髪飾りを、思い切って付けてみる。イーリカの髪は長く無く、またそれほど凝ったことはできないために、顔横で留めただけではあったが、普段しないことをしたことで思わず口元が弧を描く。
そのままの気分で夕食のために外出しようと部屋を出て階段に差し掛かったところで、先輩に出くわした。どうやら、何人かで簡単な食事を作るらしい。誘われて、少し悩む。イーリカの出身の町も、この街も外食が一般的であるため、食事を作るということにほとんど興味がないのだ。だが、たまには良いかもしれないと、頷くと珍しい出来事に先輩は目を瞬かせてから、穏やかに微笑んだ。そして、食事が終わったら然程長くない髪でもできる簡単な髪結いの方法を教えてくれるという話になった。
六週二日目。
結界学の授業を取っている級友から、今日の予定だった教授の帰還が遅くなるため、休講が延長することを教えられた。イーリカは基礎結界学の授業を取っているので、担当は異なっており、授業も通常通り開催されている。何故自分に、という問いに、級友は曖昧に笑っただけだった。
教えてもらった髪形と髪飾りが合わないのか、その日は一日頭が重たく感じられた。
六週三日目。
結界学は今日も休講らしい。来週から再開予定だということがイーリカの耳に入る。
昨日と違う髪形も、どうやらあまり合わないようだった。
六週四日目。
折角教えてもらった髪形も合わず、結局はいつも通りになるのかと少し気分が落ち込む一日となった。
寮への帰り道、ふと散歩がてら遠回りをしての帰宅を思い立ち、普段は立ち入らないような、少し金持ちの学生が住むような一角を通る。
イーリカの入る寮は、女子学生専用のため周りの環境も悪くはないが、やはり庶民派である。ここは、道の整備の度合いが違う。同じく寮と思しき建物であっても、装飾が細かい。窓の間隔から言って、部屋も広めの作りであることが伺い知れる。疎らに歩いている人々も、イーリカと同じ制服を着ていても、何だか上等な人に見えた。
こういうところに住めるのはどんな家の人なんだろうか。同じ学生であっても住む世界の差を感じる。
散歩なんてするんじゃなかったと、鞄を握る右手が強張った。整えた爪が手の平に当たって痛みを覚える。
驚くほど距離の近い彼の存在を、初めて遠いと感じた。
「イーリカ?!」
硬い表情のまま重く歩を進める中、突然の自分の名前を呼ぶ声に、驚いて立ち止まる。周囲を見渡せば、後ろから誰かが小走りに近づいてくる姿が見えた。
シェインだ。
「どうしたの? え、も、もしかして俺に会いに来た?!」
目の前に立って、驚きと喜びとがない交ぜになったように口元が緩む彼の姿に、握りしめていた手が解けた。
「な、なんでシェインがここにいるの?」
急に血流量が上がっているような感覚に、体が熱い。
「なんでって、俺ここら辺に住んでるし……。前言ったよね……?」
「……知らない」
ためらう様に頭を振ったイーリカに、シェインは小さくそっか、と言葉を漏らした。
「でも、嬉しい。帰ってきてすぐイーリカの顔見れるなんて思わなかった」
そう、言われてシェインを見れば、いつもより服装や肩に背負う荷物が汚れているし、何となく疲れているような顔色だ。
「来週じゃ、なかったの?」
恐る恐るといった風に、イーリカはそう聞いた。
「教授と古参組はね。俺は先に帰って来た組なんだ」
応用結界学教室は、総勢で十三人。比較的最近院生になったシェインは、当然新人に当たる。
「そっか……」
再度、口の中で小さく反芻した。唇の端が持ち上がりそうになって、イーリカは顔をそっと背けた。
「今回のフィールドワーク、結構面白かったよ。イーリカの好きそうな話もあるんだ」
ちらりと目を向ければ、笑みを浮かべるシェインの姿がある。
「あのさ、たくさん話をしたいんだ」
疲れた顔をしている。
けれど、それ以上嬉しそうな、幸せそうな色が見える。
「ねえ、お茶……いや、家に食事用意されてるはずだし、一緒に食べない?」
イーリカの空いている左手をシェインは取った。
疲れと、笑顔。そして、その中に少しだけ緊張が見える。余りにも大胆すぎる彼が緊張するなんて、初めて会った時には思いもよらなかった。
そんな表情を見つけられるようになっていたことに、イーリカは少しの驚きを感じながら、緩む口元を引き結ぶ。そして、そっと取られた手を握り返した。
「家で、おかえりって、言っていい?」
笑みを浮かべるイーリカに、シェインは驚いた表情をしてから、何か眩しそうに眼を細めた。
「もちろん」
引かれた手に、逆らうことなく彼女は歩き出した。
足取りは、軽い。