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第1話「終着点」

 馬車を降りたのは、三つ前の宿場町だった。


 そこから先は、自分の足で歩いた。誰かに行き先を覚えられたくなかったし、何より——馬車に揺られていると、考えたくないことばかり考えてしまう。歩いていれば、足の裏の痛みが思考を散らしてくれた。


 三日。


 舗装も標識もない山道を三日歩いて、フィナはようやく、その村の入口に立った。


 村は、想像していたよりずっと小さかった。


 山に三方を囲まれた盆地。その底に、湖が一枚の鏡のように広がっている。湖のほとりに、家が十数軒。煙突から細い煙が立ちのぼり、夕暮れの風に溶けていく。犬の鳴き声がして、それきり、静かになった。


 フィナは足を止めた。


 革靴の中で、潰れた肉刺が熱を持っている。肩に食い込んだ荷物の紐が、もう感覚をなくしていた。喉が、貼りつくように乾いていた。


「……本当にここでいいんですか」


 肩の上で、白いうさぎが呆れた声を出した。耳の先だけが、薄紫に染まっている。


「いいの」


「三日も歩いて、たどり着いたのがこれですか。家畜小屋のほうがまだ賑やかですよ」


「ベル」


「事実を言ったまでです」


 フィナは答えなかった。代わりに、もう一歩、足を前に出した。


 ここで止まったら、たぶん二度と動けなくなる。それだけは、体が知っていた。


 ——私はもう、戦うためにテイマーでいるつもりはない。


 誰かを傷つけるために、誰かの道具にするために、魔物と心を繋げるのは、もう終わりにする。


 それだけを決めて、ここまで来た。名前も、過去も、全部置いて。


-----


 村の中に足を踏み入れて、十歩も行かないうちだった。


 どこからか、土埃を蹴立てて何かが突っ込んできた。


「旅人だ——っ!」


 声のほうが先に届いた。次の瞬間、小さな影がフィナの正面でぴたりと止まる。八つか九つくらいの女の子だった。三つ編みがほどけかけて、頬に泥がついている。息を切らしながら、まん丸の目でフィナを見上げてきた。


「どこから来たの? 一人? 歩いてきたの? その荷物、重くない? ねえ、なんで靴がそんなにボロボロなの?」


「えっと……」


 質問の速度に、頭がついていかない。フィナが口を開くたび、次の質問がかぶさってくる。


「あ、肩に乗ってるの何!? うさぎ!? 白い! すっごい白い! ねえ触ってい——」


 女の子の手が、ベルに伸びた、その瞬間。


「……見世物ではありません」


 ベルが、低く、はっきりと言った。


 女の子の手が、空中で止まった。


 時間が、止まった。


 女の子は、ゆっくりとベルを見て、それからフィナを見て、もう一度ベルを見た。口がぱくぱくと動いている。喉から音が出るまでに、たっぷり三秒かかった。


「……し、」


「し?」


「喋ったああああ——っ!!」


 悲鳴のような歓声が、村中に響き渡った。


 窓が開く音がした。誰かが「どうした」と顔を出す。フィナは反射的に肩をすくめ、ベルは「やかましい」と耳を片方倒した。


 でも——フィナの口の端が、自分でも気づかないうちに、ほんの少しだけ持ち上がっていた。


 村に着いて、初めて。笑った、気がした。


-----


 女の子——ミアと名乗った——に手を引かれるまま、フィナは村の一番奥まで連れて行かれた。


 古い家の前に、丸椅子がひとつ。そこに、皺だらけの老人が座っていた。夕陽を顔の半分に受けて、目を細めている。膝の上で、節くれだった手を組んでいた。


「じいちゃん! 旅人さん連れてきた! うさぎが喋るんだよ!」


 老人——ゴランは、ミアの言葉には反応せず、ただフィナを見た。


 その視線が、フィナの全身をゆっくりと撫でた。すり減った革靴。最低限の荷物。育ちのいい指先と、それに不釣り合いな、節約された服。肩の魔物。


 値踏み、ではなかった。もっと静かな、見透かすような目だった。


 フィナの背筋が、無意識に伸びかけて——慌てて、力を抜いた。今のは、令嬢の所作だ。


 ゴランの目が、その一瞬の動きを捉えたのが、わかった。


「旅の方かね」


「……はい。フィナといいます。しばらく、置いていただけませんか」


 ゴランはしばらく黙っていた。煙管に火を入れ、ゆっくりと一服する。煙が、夕暮れの空に立ちのぼって、消えた。


「金は」


「働いて、払います」


「働く、ね」ゴランの目が、わずかに細くなった。「何ができる」


 フィナは一瞬、迷った。


 テイマーだと言うべきか。商売ができると言うべきか。どちらも、口にすれば波風が立つ。だが——隠して住み着くのも、無理がある。


「……魔物を、扱えます」


 ゴランの煙管が、止まった。ミアが「えっ、すごい!」と目を輝かせる。


 ゴランは、しばらくフィナを見つめた。それから、ふっと息を抜くように笑った。


「……ここは、訳ありしか来ん村だ。詮索はせん」


 ただ、それだけだった。


 フィナの肩から、張りつめていた何かが、すっと抜けた。喉の奥が、急に熱くなる。慌てて、頭を下げた。顔を、見られたくなかった。


「……ありがとう、ございます」


「礼はいい。飯と寝床くらい、どうにかする」


 ゴランはそう言って、また煙管をくわえた。視線は、もう湖のほうを向いていた。


-----


 あてがわれた宿は、村外れの古い建物だった。宿屋というより、村の女が空き部屋を貸しているだけの、素朴な場所。


「今は一部屋しか空いてなくてねえ。先客と相部屋でいいかい」


 断る理由もなく、フィナは頷いた。


 部屋に入ると、先客は机に突っ伏すように薬草を広げていた。二十代半ばの女。目の下に、濃い隈。指先が薬草の汁で緑色に染まっている。フィナが入ってきたことにも、気づいていない。


「はあ……今月も無理かあ……」女が、机に額をつけたまま呻いた。「このままじゃ、ばあちゃんの分の薬も切れる……」


 完全な独り言だった。


 ベルがフィナの耳元で、ささやく。「触れない方が無難では? 面倒の匂いがします」


 フィナは、荷物をそっと床に置いた。それから、声をかけた。


「……何か、お困りですか」


 女が、弾かれたように顔を上げた。目が合う。一秒、二秒——女の顔が、みるみる赤くなった。


「うわっ、ご、ごめんなさい! 相部屋の人ですよね、全っ然気づいてなくて、私こんな……!」


 慌てて薬草をかき集めようとして、半分床にぶちまけた。「ああっ」と情けない声を上げる。


 フィナは、しゃがんで一緒に拾った。緑色の、苦い匂いのする葉。乾燥が甘い。保存状態が悪い。手持ちが、よほど少ないのだろう。


「薬師さん、ですか」


「あ、はい。エミっていいます。一応、この村の」女は床の葉を拾いながら、苦笑した。「一応、っていうのは……まともに薬が作れてないからで」


「材料が、足りていない?」


 エミの手が、止まった。


「……森の奥に、いい薬草が群生してる場所があるんです。でも、半年くらい前から、魔物が増えちゃって。一人じゃ、もう奥まで入れなくて」エミは、拾った葉を握りしめた。「だから、手前で採れる分でやりくりしてるんですけど……質が、ぜんぜん」


「魔物が、増えている」


 フィナは、その言葉を、口の中で繰り返した。


 ベルが、肩の上でぴくりと耳を動かしたのが、わかった。


 頭の奥で、何かが、かちりと噛み合う音がした。


 ——魔物が増えた場所は、危険が増えた場所だ。普通は、そう考える。


 でも、見方を変えれば。魔物が増えた場所は、人が手を出せない資源が、手つかずで眠っている場所でもある。


 誰も、そう考えないだけで。


「……あの」エミが、フィナの顔を覗き込んだ。「なんか、急に怖い顔になりましたけど」


「いえ」フィナは、表情を戻した。「少し、考え事を」


-----


 その夜、フィナは窓辺に座って、湖を見ていた。


 月が、水面に落ちている。風が吹くたび、月が砕けて、また集まる。


 肩から降りたベルが、窓枠の上でまるくなった。


「……明日、森に行くつもりですね」


「うん」


「魔物の気配、ここからでも分かります。手前はまだしも、奥はそれなりですよ」


「うん」


「止めても、無駄ですか」


「うん」


「……はあ」ベルは、長いため息をついた。「せめて、私が傍にいるときにしてください。一人で行ったら、五分で詰みます」


 フィナは、小さく笑った。


 ——この子は、いつもそうだ。文句を言いながら、絶対に離れない。


 なぜ、ベルが自分のそばにいるのか。喋る魔物など、聞いたこともない。テイムした覚えもない。気づいたら、隣にいた。それも、あの——一番ひどい夜に。


 考えかけて、フィナはそっと、思考に蓋をした。


 今夜は、やめておく。


 窓の外で、湖がまた、月を砕いた。


「……ベル」


「なんですか」


「ここに、来てよかった」


 ベルは、何も言わなかった。


 ただ、まるめた体を、ほんの少しだけ、フィナの腕のほうに寄せた。


 遠くで、夜鳥が鳴いた。


 明日から、始まる。フィナには、まだその「始まり」が何になるのか、はっきりとは見えていなかった。


 ただ、明日、森に入る。


 それだけは、もう決めていた。


-----


【第一話終了時点 カルム村ステータス】

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

人口 : 32人

村の活気度 : 停滞(星1/5)

テイム魔物 : ベル(相棒・護衛)

所持金 : 残りわずか

村での立場 : 居候(本日加入)

判明した課題 : 森の奥の薬草が魔物で採取不能

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

フィナの当面の目標:この村で、戦わずに生きる


-----


【幕間・回想 その一】王都 十二年前


 六歳の誕生日、玉座の間には、国中の家臣が集められていた。


「見よ! これが余の自慢の娘だ!」


 父である国王は、アルナを高々と抱き上げ、まるで戦利品のように家臣たちへ掲げた。万雷の拍手。祝いの言葉。きらびやかな衣装に包まれたアルナは、その光の渦の中で、ただきょとんとしていた。


 すぐ脇では、長兄が「アルナ、笑って、ほら笑顔」と必死に囁き、次兄が「ああ、なんて可愛いんだ」と目を潤ませ、三兄が「顔色は? 疲れてないか? 水は飲んだか?」と忙しなく顔を覗き込んでくる。


 四方から、愛情が降り注ぐ。


 温かくて、眩しくて——この頃は、まだ、それだけだった。


 部屋のいちばん奥。玉座の隣で、母である王妃だけが、静かに微笑んでいた。


 その瞳の奥に、ほんの少しだけ、誰にも気づかれない影が差していたことを——アルナはまだ、知らない。


-----


続く


-----


あとがき


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


新章として書き直した第一話、いかがでしたか。フィナがなぜ「歩いて」村に来たのか、という細部から、彼女が何を捨ててきたのかが滲んでいたら嬉しいです。


ミアの「喋ったああああ」で笑って、ゴランの「詮索はせん」で少し泣いて、最後の回想の「見よ!余の自慢の娘だ!」で背筋が冷える——そんな緩急を意識して書きました。あの溺愛が、なぜフィナを追い詰めたのか。続きで少しずつ明かしていきます。


そして、ベルがなぜフィナのそばにいるのか。「一番ひどい夜に、気づいたら隣にいた」——この謎は、物語の重要な伏線です。


ここまで読んでくださったあなたに、お願いがあります。


【ブックマーク】まだの方は、今すぐ画面上部のボタンを押してください。たった一秒の操作が、この物語を続ける力になります。更新通知も届くので、次の話を見逃しません。


【評価】星をひとつ置いていただけると、この作品がまだ出会えていない読者のもとへ届きます。面白いと感じてくださったなら、ぜひ。


【感想】「ミアが可愛い」「ベルの謎が気になる」——一言で構いません。いただいた感想は全部読んで、次を書く夜の支えにしています。必ず返します。


それではまた、カルム村でお会いしましょう。

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