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名もなき街の何でも屋 ~ネオン都市のストレイシープ~  作者: 薄氷薄明


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8/19

「存在の消失と、不可侵のルール」

 名もなき街の夜には、決して静まらない場所がある。

 歓楽街の奥にそびえる「会館」の前。そこは、行き場のない欲望が最も濃く渦巻く場所だ。夜になれば、甘い声を上げる客引き、違法な薬物を売り捌く売人、そして値踏みをするスカウトたちがひしめき合い、怒号と嬌声が絶えることはない。


 だが、今夜。

 会館前の広場は、死んだように静まり返っていた。


 ネオンの光は、いつも通り毒々しく明滅している。

 奥の店は扉が開きっぱなしで、営業中の札が揺れている。

 だが、誰もいない。


「……気持ち悪りぃな」


 ハリーが周囲を見渡し、舌打ちをした。

 広場には、人が"いなくなった"というよりも、不自然に"抜け落ちている"気配が充満していた。

 石畳に落ちた吸い殻からは、まだ細く煙が上がっている。手すりに置かれた安酒のグラスには、溶けきっていない氷がカランと音を立てた。


「さっきまで、確実にここに数十人の人間がいたはずよ」


 エイヴが帳簿を抱えたまま、足元の吸い殻を靴底で踏み消した。


 その時、広場の奥から千鳥足の男が歩いてきた。

 見覚えのある、この界隈の常連客だ。


「おい」


 クインが声をかける。男は焦点の定まらない目で振り返った。


「ここの客引きたちはどこへ行った。何か騒ぎでもあったか」


「……はあ? 客引き?」


 男は怪訝な顔で首を傾げた。


「何言ってんだ。こんな時間に、ここに立ってる奴なんかいるわけねえだろ。最初から誰もいねえよ」


 男はそのまま、千鳥足で暗がりへと消えていった。


 クインは無言で、落ちているグラスを見下ろした。

 現実に人がいた痕跡(物質)はある。だが、他者の記憶(意味)からは完全に消去されている。


「……ただの消失じゃない」


 アーロが、震える声で広場の空間を観測する。


「彼らは逃げたわけでも、殺されたわけでもない。この街の認識そのものから、"最初からいなかったこと"にされているんだ」


 その直後だった。

 広場の中央、大気が粘りつくように歪んだ。

 数日前の夜に見たのと同じ、漆黒の泥が這い出てくる。


「魔物か……!」


 シドがペティナイフを手にするが、その動きが一瞬止まった。

 這い出てきた異形は、全身がひどくブレていた。漆黒の泥の中に、消えたはずの客引きの腕や、売人の顔の輪郭が、ノイズのように浮かんでは消えている。


「テメェらが喰ったのか!」


 ハリーが怒号と共に踏み込み、魔力(流動)を込めた拳を叩きつける。

 だが、拳は異形の右半分を軽々と粉砕したものの、左半分には触れることすらできず、逆に魔力を吸い取られて弾き飛ばされた。


「チッ、なんだこいつ! 殴れる場所と殴れねえ場所が混ざってやがる!」


「どけ」


 クインが特殊銃を構え、引き金を引く。

 放たれた事象の刃が、異形の核を穿つ。――だが、魔物は半分だけ崩れ落ち、残りの半分はそのままの形を保って再生を始めた。

 完全に無効化された第5話とは違う。一部だけは通じるが、極めて不安定だ。


「……順番が、途中まで進んでいるんだ」


 アーロが叫んだ。


「あの魔物はまだ"成立"していない。消された人間たちの存在を材料にして、今まさに魔物という概念を"作っている途中"なんだ!」


 未成立の存在。

 クインが次弾を装填しようとした、その瞬間だった。


 頭上の建物の屋根から、二つの影が音もなく音に降り立った。

 灰色の外套に身を包んだ、顔のない二人組。

 彼らは言葉を一切発しなかった。ただ、ハリーと同じように圧倒的な踏み込みで魔物の"殴れない部分"を強制的に殴りつけ、もう一人はクインの銃撃よりも早く、不可視の刃で魔物の"核になる予定だった空間"を正確に切断した。


 シドが数日前に見せたのと同じだ。

 成立前の条件を理解し、強制的に成立させてから、破壊する。

 まったく同じ手順。一切の無駄がない、洗練され尽くした"処理"。


 魔物が灰となって崩れ落ちるのと同時に、二つの影は一度だけシドの方へと顔を向け、そして再び無言のまま、夜の闇へと溶けるように消え去った。


「……今のは、なんだ」


 ハリーが呆然と立ち尽くす。

 シドはペティナイフを握りしめたまま、沈黙していた。




 拠点のバーに戻ると、エイヴが真っ青な顔でカウンターに帳簿を広げていた。


「……消えてる」


「何がだ」


「文字が、インクが、消えていくのよ……!」


 エイヴの震える指の先。彼女が絶対の信頼を置く「物質層の記録」から、会館前にいたはずの売人の名前、客引きとの契約内容、その借金の額が、まるで最初から書かれていなかったかのように、パラパラと白紙に戻っていく。

 残されたのは、現場で拾い上げた安物のライターと、誰かの指輪だけ。


「人が死んだんじゃない。世界から『存在が削り取られている』のよ……!」


 重苦しい静寂が、バーを支配した。

 愛の暴走でも、絶望でもない。これは自然発生する世界の歪みではない。

 明確な意図を持った"何者か"が、人為的にこの街の人間を削り、魔物の材料にしている。異常の正体は、間違いなく"人間側"にあった。



 シドは答えない。ただ、静かにクインの視線を受け止めている。

 クインは、カウンターで銃のシリンダーを拭いていた手を止めた。


 静かに布を置き、少し離れた場所に立つシドへと向き直る。

 一歩、近づく。


「……お前が何者かは、関係ない」


 声に抑揚はない。

 ただ事実だけを置くような、平坦な響きだった。


「ここでは、詮索しない」


 ネオンの残光が窓越しに差し込み、二人の間に淡く滲む。


「それが前提だ」


 ほんのわずかな沈黙。

 クインは視線を逸らさないまま、続ける。


「だが、今回は違う」


 もう一歩、距離を詰める。


「前提が壊れている」


 その言葉だけが、静かに落ちた。


 誰も口を挟まない。

 ハリーも、エイヴも、アーロも、ただ息を潜めている。


 クインは一度だけ、短く瞬きをした。


「確認する。……お前は、知っているな」


 沈黙。


 シドは答えない。

 否定も肯定もせず、ただ真っ直ぐにクインの視線を受け止めている。


 その沈黙が、何よりも明確な応答だった。


 クインは、わずかに視線を落とした。


「……そうか」


 それ以上は、何も言わなかった。


 息を呑むような沈黙。

 ハリーもエイヴも、アーロすらも動かない。

 シドは、クインから目を逸らさなかった。否定の言葉は口にしない。ただ、肯定もせずに、真っ直ぐにクインを見つめ返している。


「……答える気はない、か」


 クインはそれ以上追及しなかった。

 ただ、その沈黙こそが、シドが"何かを隠している"という決定的な証明であった。


 外では、雨が降り始めていた。

 存在を削り取られた街の空白を、埋めるように。


 名もなき街の崩壊は、すでに引き返せない段階へと突入していた。

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