「存在の消失と、不可侵のルール」
名もなき街の夜には、決して静まらない場所がある。
歓楽街の奥にそびえる「会館」の前。そこは、行き場のない欲望が最も濃く渦巻く場所だ。夜になれば、甘い声を上げる客引き、違法な薬物を売り捌く売人、そして値踏みをするスカウトたちがひしめき合い、怒号と嬌声が絶えることはない。
だが、今夜。
会館前の広場は、死んだように静まり返っていた。
ネオンの光は、いつも通り毒々しく明滅している。
奥の店は扉が開きっぱなしで、営業中の札が揺れている。
だが、誰もいない。
「……気持ち悪りぃな」
ハリーが周囲を見渡し、舌打ちをした。
広場には、人が"いなくなった"というよりも、不自然に"抜け落ちている"気配が充満していた。
石畳に落ちた吸い殻からは、まだ細く煙が上がっている。手すりに置かれた安酒のグラスには、溶けきっていない氷がカランと音を立てた。
「さっきまで、確実にここに数十人の人間がいたはずよ」
エイヴが帳簿を抱えたまま、足元の吸い殻を靴底で踏み消した。
その時、広場の奥から千鳥足の男が歩いてきた。
見覚えのある、この界隈の常連客だ。
「おい」
クインが声をかける。男は焦点の定まらない目で振り返った。
「ここの客引きたちはどこへ行った。何か騒ぎでもあったか」
「……はあ? 客引き?」
男は怪訝な顔で首を傾げた。
「何言ってんだ。こんな時間に、ここに立ってる奴なんかいるわけねえだろ。最初から誰もいねえよ」
男はそのまま、千鳥足で暗がりへと消えていった。
クインは無言で、落ちているグラスを見下ろした。
現実に人がいた痕跡(物質)はある。だが、他者の記憶(意味)からは完全に消去されている。
「……ただの消失じゃない」
アーロが、震える声で広場の空間を観測する。
「彼らは逃げたわけでも、殺されたわけでもない。この街の認識そのものから、"最初からいなかったこと"にされているんだ」
その直後だった。
広場の中央、大気が粘りつくように歪んだ。
数日前の夜に見たのと同じ、漆黒の泥が這い出てくる。
「魔物か……!」
シドがペティナイフを手にするが、その動きが一瞬止まった。
這い出てきた異形は、全身がひどくブレていた。漆黒の泥の中に、消えたはずの客引きの腕や、売人の顔の輪郭が、ノイズのように浮かんでは消えている。
「テメェらが喰ったのか!」
ハリーが怒号と共に踏み込み、魔力(流動)を込めた拳を叩きつける。
だが、拳は異形の右半分を軽々と粉砕したものの、左半分には触れることすらできず、逆に魔力を吸い取られて弾き飛ばされた。
「チッ、なんだこいつ! 殴れる場所と殴れねえ場所が混ざってやがる!」
「どけ」
クインが特殊銃を構え、引き金を引く。
放たれた事象の刃が、異形の核を穿つ。――だが、魔物は半分だけ崩れ落ち、残りの半分はそのままの形を保って再生を始めた。
完全に無効化された第5話とは違う。一部だけは通じるが、極めて不安定だ。
「……順番が、途中まで進んでいるんだ」
アーロが叫んだ。
「あの魔物はまだ"成立"していない。消された人間たちの存在を材料にして、今まさに魔物という概念を"作っている途中"なんだ!」
未成立の存在。
クインが次弾を装填しようとした、その瞬間だった。
頭上の建物の屋根から、二つの影が音もなく音に降り立った。
灰色の外套に身を包んだ、顔のない二人組。
彼らは言葉を一切発しなかった。ただ、ハリーと同じように圧倒的な踏み込みで魔物の"殴れない部分"を強制的に殴りつけ、もう一人はクインの銃撃よりも早く、不可視の刃で魔物の"核になる予定だった空間"を正確に切断した。
シドが数日前に見せたのと同じだ。
成立前の条件を理解し、強制的に成立させてから、破壊する。
まったく同じ手順。一切の無駄がない、洗練され尽くした"処理"。
魔物が灰となって崩れ落ちるのと同時に、二つの影は一度だけシドの方へと顔を向け、そして再び無言のまま、夜の闇へと溶けるように消え去った。
「……今のは、なんだ」
ハリーが呆然と立ち尽くす。
シドはペティナイフを握りしめたまま、沈黙していた。
拠点のバーに戻ると、エイヴが真っ青な顔でカウンターに帳簿を広げていた。
「……消えてる」
「何がだ」
「文字が、インクが、消えていくのよ……!」
エイヴの震える指の先。彼女が絶対の信頼を置く「物質層の記録」から、会館前にいたはずの売人の名前、客引きとの契約内容、その借金の額が、まるで最初から書かれていなかったかのように、パラパラと白紙に戻っていく。
残されたのは、現場で拾い上げた安物のライターと、誰かの指輪だけ。
「人が死んだんじゃない。世界から『存在が削り取られている』のよ……!」
重苦しい静寂が、バーを支配した。
愛の暴走でも、絶望でもない。これは自然発生する世界の歪みではない。
明確な意図を持った"何者か"が、人為的にこの街の人間を削り、魔物の材料にしている。異常の正体は、間違いなく"人間側"にあった。
シドは答えない。ただ、静かにクインの視線を受け止めている。
クインは、カウンターで銃のシリンダーを拭いていた手を止めた。
静かに布を置き、少し離れた場所に立つシドへと向き直る。
一歩、近づく。
「……お前が何者かは、関係ない」
声に抑揚はない。
ただ事実だけを置くような、平坦な響きだった。
「ここでは、詮索しない」
ネオンの残光が窓越しに差し込み、二人の間に淡く滲む。
「それが前提だ」
ほんのわずかな沈黙。
クインは視線を逸らさないまま、続ける。
「だが、今回は違う」
もう一歩、距離を詰める。
「前提が壊れている」
その言葉だけが、静かに落ちた。
誰も口を挟まない。
ハリーも、エイヴも、アーロも、ただ息を潜めている。
クインは一度だけ、短く瞬きをした。
「確認する。……お前は、知っているな」
沈黙。
シドは答えない。
否定も肯定もせず、ただ真っ直ぐにクインの視線を受け止めている。
その沈黙が、何よりも明確な応答だった。
クインは、わずかに視線を落とした。
「……そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
息を呑むような沈黙。
ハリーもエイヴも、アーロすらも動かない。
シドは、クインから目を逸らさなかった。否定の言葉は口にしない。ただ、肯定もせずに、真っ直ぐにクインを見つめ返している。
「……答える気はない、か」
クインはそれ以上追及しなかった。
ただ、その沈黙こそが、シドが"何かを隠している"という決定的な証明であった。
外では、雨が降り始めていた。
存在を削り取られた街の空白を、埋めるように。
名もなき街の崩壊は、すでに引き返せない段階へと突入していた。




