「選択の欠損と、強制される結果」
この名もなき街では、もう「選ぶ」という行為に意味がなくなっていた。
昼と夜の境界は、完全に曖昧に溶け落ちている。
太陽は確かに空の天頂にある。だが、建物の隙間に落ちる影は濃く、異様なまでに重い。まるで夜の残骸が地面に沈殿しているかのように、石畳に張り付いて離れない。
壁面に這う極彩色のネオンの光も、完全に消え切ることはなく、白日の下で幽鬼のように薄く瞬き続けていた。
それが、当たり前のように続いていた。
異常は、すでに“日常”の顔をして街を覆い尽くしている。
拠点のバーの扉が開く。
カラン、と鳴ったベルの音だけが、やけに乾いて響いた。
「……頼む、話を聞いてくれ」
入ってきた男は、叫びもせず、取り乱してもいなかった。
だがその顔には、極度の疲労と、理解の及ばない恐怖が静かに張り付いている。精神の限界まで消耗した人間の顔だった。
「要点だけ」
エイヴは分厚い帳簿から視線を上げず、インクの染みた羽ペンを止めずに言った。
男は一度、自分の手のひらを見つめた。
そこには何もない。だが、その“何もないこと”を確かめるように、ゆっくりと指を閉じる。
「俺は、何もしていないんだ」
わずかな間。
「なのに、“やったこと”になっている」
その言葉に、シドの視線がわずかに揺れた。
クインはカウンターの奥で、特殊銃のシリンダーを拭く作業を続けている。手は止めない。
「……具体的には?」
エイヴが淡々と問う。
「飯を頼んだ覚えがない。でも、食い逃げしたことになってる」
「証人は」
「いるらしい。俺が食って、金を払わずに出ていったって」
男は首を振る。
「でも俺は、そもそもその店に入ってすらいない」
ハリーがソファの上で身体を起こす。
「ただの言いがかりじゃねえのか。ぶん殴ってやろうか」
「違う」
男は即答した。
「店主も、周りの客も、全員が本気で言ってる。嘘をついている顔じゃなかった」
アーロが、窓の外の脈打つネオンを見たまま小さく呟く。
「……他は?」
男は喉を鳴らし、乾いた声で続ける。
「誰とも会ってないのに、裏切ったって言われた。仕事仲間の情報を流したって」
シドが眉を寄せる。
「証拠はあるのか」
「ある、って言うんだよ」
男は力なく笑った。
「やり取りの記録が残ってるって。でも俺は、そんなこと一度も――」
言葉が途切れる。
そして、最後の一つを吐き出す。
「昨日の夜、俺は……誰も殺してない」
静寂が、バーに落ちた。
「でも、俺がやったことになってる」
誰も、すぐには口を開かなかった。
一番街の裏路地。
昼であるにも関わらず、光は薄く、どこか濁っている。
現場とされる場所には、すでに人だかりができていた。石畳には、まだ乾ききらない赤黒い血痕が広がっている。
だが、死体はない。
「ほら、こいつだ」
誰かが、依頼人の男を指さした。
その声に疑いはなかった。ただ、冷酷な確信だけがあった。
「違う、俺は――」
男が口を開くが、即座に遮られる。
「見たんだよ。お前がやったところを」
「いつだ!」
「……それは」
言葉が詰まる。だが、群衆の確信は揺るがない。彼らの瞳には、男が殺したという「事実」だけが焼き付いているようだった。
エイヴが周囲を見渡す。
「死体は」
「死体屋が運んだ。遺族が手配したんだとよ」
「誰が最初に見つけたの」
誰も答えない。
アーロが、静かに目を細める。
「……変だね」
「何がだ」
ハリーが低く言う。
「意味がない」
短い断定だった。
「殺意も、衝動も、恐怖も、この空間には何も残ってない。ただ“殺したことになっている”って結果だけが浮いてる」
シドが問う。
「魔術ではないのか。誰かが記憶を書き換えたとか」
「違う。操作の痕跡がない」
アーロは首を振る。
「そもそも、もっと手前だ」
「手前?」
「“選択”がないんだよ」
その言葉に、クインの足が止まった。
人だかりから離れ、誰もいない通りへ出る。
ネオンは昼の中で微かに脈打ち、影は足元に重く沈んでいる。
「記録は?」
クインが短く問う。
エイヴは帳簿を開いたまま、ひどく不快そうに眉をひそめた。
「ないわね。接点も、因果も、関係も。全部が空白よ」
「だが結果はある」
「ええ」
アーロが静かに続ける。
「昨日と同じだ。対価が消えたんじゃない」
「……何が言いたい」
ハリーが苛立ちを隠せずに噛みつく。
「原因そのものが消えてる」
沈黙。
「選んでないんだよ」
アーロは言う。「食事も、裏切りも、殺人も。全部、“選択”が存在していない」
「じゃあなんで結果だけ残るんだよ」
「わからない。でも――」
アーロは、昼間の空に見えるはずのない星の瞬きを見上げる。
「この街は、もう“順序”を守ってない」
クインは無言で、コートから無骨な特殊銃を引き抜いた。
シリンダーを回す。周囲の魔力(流動)が吸い上げられ、空気が微かに軋む。
いつも通り、探る。
歪みの起点。切断すべき、意味の結び目。
――だが。
「……ない」
クインは小さく呟く。
「起点がない」
撃つべき対象が存在しない。
これは異常の発生ではなく、“因果の欠損”だからだ。
指が引き金にかかったまま、止まる。磨き上げた技術が、再び虚空を彷徨う。
「撃つものがない」
クインは、ゆっくりと銃を下ろした。
男は、血痕の前に立ち尽くしていた。
周囲の視線は冷たい。だがそれは疑いではない。揺るぎない確信だ。
「なあ……」
男が虚空に向けて呟く。
「俺は、いつそれを選んだんだよ……?」
誰も答えない。
法のないこの街に、衛兵など存在しない。裁きを下すのはいつだって本人か、遺族か、依頼された代理人だ。
被害者の遺族に雇われたであろう屈強な男たちが二人、無言で近づき、男の腕を掴む。
「違う、俺は――」
抵抗は弱かった。足掻くことに意味がないと、彼の魂が理解してしまっているからだ。
「俺は、選んでない……」
男は石畳を引きずられていく。連行されれば、待っているのは確実な死だ。
誰も止めない。それが正しいと、群衆の全員が知っているかのように。
シドが一歩、前に出た。
騎士としての矜持。あるいは、別の何か。彼の手が剣の柄へとかかる。
だが。
「……まだ、早い」
誰にも聞こえない声で小さく呟き、シドは足を止めた。
拠点へ戻る道。
誰も口を開かなかった。
街は、何事もなかったかのように動いている。
人は歩き、金は流れ、ネオンは脈打つ。
だが、その全てがひどく空虚だった。
クインは、重たくなった銃をコートの奥深くに仕舞い込んだ。
何も言わなかった。
街の誰も、疑問を持たなかった。
対価が消え、選択が消え、それでも名もなき街は動き続けている。
この街では、もう“選ばなくても結果は出る”。




