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名もなき街の何でも屋 ~ネオン都市のストレイシープ~  作者: 薄氷薄明


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10/19

「進行する空白と、崩れゆく前提」

 名もなき街の夜は、もはや一つの異常に留まっていなかった。

 それは点ではなく、面となって街を侵食し始めていた。


 役場通り。違法な紹介状を売り捌いていたスカウトの男が、言葉の途中でふっと掻き消えた。交渉相手だった浮浪者は、宙に浮いたままの金貨が石畳に落ちる音を聞いても、ただ首を傾げてそれを拾い、何事もなかったかのように歩き出した。


 歓楽街の地下にあるカジノ。熱狂の渦中、ルーレットに全財産を賭けていた男が消えた。テーブルには山積みのチップだけが残された。


 裏通りの安宿。泥のように眠っていた娼婦が、ベッドの軋む音だけを残して消滅した。


 すべてが"生活の途中"だった。


 燃え尽きる寸前の煙草、配られたままのカード、脱ぎ散らかされた靴。

 物質の痕跡だけがそこに取り残され、それらを所有していた人間の存在そのものが、因果ごと世界からくり抜かれていく。

 そして何より恐ろしいのは、残された者の大半が、その空白に"何の違和感も抱いていない"ことだった。




「……くそっ、また消えた!」


 拠点のバーで、エイヴが珍しく声を荒げ、インクの染みた羽ペンを机に叩きつけた。

 分厚い革張りの帳簿。そのページから、文字が次々と薄れ、白紙へと還っていく。


「追いつかないわ。書き留めた端から、存在の証明(物質)が消去されていく。こんなの、帳簿の意味がない」


 エイヴの苛立ちは、この街の現実(物質層)の管理者としての敗北を意味していた。


「僕の方も、もう限界だね」


 アーロが、両手で目を強く押さえながら低く呻いた。


「ノイズだらけだ。街中のあちこちに"意味の空白"が生まれて、それが干渉し合っている。誰がいて、誰がいなかったのか、概念の輪郭がぐちゃぐちゃだよ」


「あー……気持ち悪りぃ」


 ソファに横たわるハリーが、自分の腕を苛立たしげに掻きむしった。

 普段なら力を持て余して暴れる彼が、今は明確な"不快感"に顔を歪めている。


「大気中の魔力(流動)が、あっちこっちに吸い込まれて消えやがる。力が湧くとか湧かねえとかじゃねえ、息をしてるだけで肺の中身を抜かれてるみたいだ」


 物質、概念、流動。

 この世界を構成する三層すべてが、街全体で同時に悲鳴を上げている。局地的な異常ではない。街そのものが、内側から崩壊の足音を響かせていた。


 クインは無言で、特殊銃のシリンダーを布で拭いていた。

 撃つべき対象がない以上、彼にできることは何もない。ただ、静かにその時を待つだけだ。




 その頃、カジノの熱狂の中で、一つの異変が起きていた。


「おい、ちょっと待て」


 カードを配っていたディーラーの腕を、一人の客が掴んだ。


「ここで張ってた奴はどこ行った?」


 客は、隣の空席と、そこに積まれた大量のチップを指さした。


「……誰のことだ? そこには最初から誰も座っていなかったが」


 ディーラーが怪訝な顔で答える。


「ふざけるな。さっきまで俺と話してたんだ。ツキが回ってきたって、笑ってたじゃねえか! なあ、お前らも見てただろ!」


 客が周囲に同意を求める。だが、他の客たちは一様に不気味なものを見る目を向けた。


「知らねえよ、そんな奴」


「いや、いた! 確かにいたんだよ!」


 男の叫びが、カジノの空気を凍らせる。

 この街には"他人の事情を詮索しない"という暗黙のルールがある。隣で誰が死のうが、誰が消えようが、見て見ぬふりをするのが生き残る術だ。

 だが、そのルールが機能しなくなっている。

 無意識の底に沈殿する"自分が消えるかもしれない"という本能的な恐怖が、街の鉄則を内側から食い破り始めていた。




 拠点の裏路地。

 冷たい雨を避けるように、シドは建物の陰に立っていた。

 彼が一人で動こうとした矢先、闇の中から音もなく一つの影が滲み出た。

 細身の騎士、イオネルだ。


「発生速度が、予測の三倍を超えている」


 イオネルは挨拶も前置きも省き、任務の報告だけを告げた。


「……観測段階は終了したと?」


 シドが低く問う。


「ああ。街の自己修復能力を完全に上回った。本国へは報告済みだ」


 イオネルは、雨に濡れる路地裏を無感情に見つめる。


「介入が早まる。準備をしておけ」


 それだけを言い残し、イオネルの姿は再び闇へと溶けた。

 シドは小さく息を吐き、静かに拠点へと踵を返した。


 


 カラン、とベルが鳴る。

 シドがバーに戻ると、クインが布で拭いていた銃を机に置いた。


 クインの声に熱はない。ただの事実確認だった。


「いつ来る?」


 クインの短い問いに、シドは足取りを止めずに答えた。


「……わかりません。ですが、そう遠くないうちに」


「お前たちで、止められるのか?」


「……」


 シドは沈黙した。断定はしない。だが、目を逸らして逃げることもしなかった。


「この街はどうなる」


「それは、上の判断です」


 シドの返答は、どこまでも組織の一員としてのものだった。彼には権限がなく、決定を下すのは外側の巨大な力だ。


 クインは「そうか」とだけ呟き、再び銃を手にした。

 外の軍隊が来る。だが、自分たちがどう動くべきか、その選択肢はまだ与えられていない。


(……面倒だな)


 クインたちはまだ、嵐の前の静けさの中にいる。




 夜が深まる。

 街の輪郭が、いよいよ決定的に狂い始めていた。


 路地裏の片隅。

 昨夜、二人の男が安酒を飲んでいた木箱の上。

 片方の男の存在が完全に消去され、記憶からも抜け落ちたはずのその場所に。

 空になったグラスが、"三つ"置かれていた。


 あるいは、歓楽街の壁。

 消えたはずの娼婦の名前が、顧客の記憶からも帳簿からも消え去ったというのに。

 レンガの壁には、彼女が口紅で書いた『私はここにいた』という赤い文字だけが、歪んだ意味を持って残り続けている。


 ただ人が消える"消失"の段階は終わった。

 ついに、残された痕跡と世界の辻褄が合わなくなり始めている。

 世界が、消去の速度に耐えきれず、不気味な"歪み"を生み出し始めたのだ。


 この名もなき街は、もう、内側だけでは完結しない。

 崩壊はすでに、誰の手にも負えない段階へと突入していた。

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