四
その日は柔らかな日差しと爽やかな風が快く、自転車で風を切るには気分の良い日だった。
山側に位置する大学近辺には閑静な住宅街が広がるが、下宿生や地域の住民が足繁く通う商店街もあり、適度に落ち着いた雰囲気である。そこを通り抜けて海側に坂を下っていくにつれ、往来は徐々に賑やかさを増していき、通りに面するお店もターゲット層を明確に提示した内容のものが増えていく。近くに有名な観光スポットがあり、そこを目当てに訪れる人も少なくない。自分のような下宿生にとって海側はただ羽を伸ばすだけの場所ではなく、ずっと心の中で煌めいている憧れの場所だった。
「相変わらず人が多いわね」
自転車を押しながら会長が呟く。そのまま乗っていくには坂が急だった為、ブレーキを適度に効かせながら私たちは綺麗に並べられた石畳の上をのんびりと歩いていた。
「土曜日ですし、こういうものなんじゃないでしょうか」
「平日も大して変わらないわよ。でも、この時間にこの人の多さは誤算だったわ。この様子だとどこも満員でしょうから、先に現地を確認してからお昼にしない?」
「そうですね。先に見に行きましょう」
観光スポットの存在と様々な交通機関のハブとなることから、坂を下った突き当たりにある駅は規模が大きく周辺にはビジネス街が広がっている。しかしターミナル駅としてその名を馳せているが、自転車で五分も走れば途端に小規模ながらも生活感溢れる住宅街に出会うのである。そこに足を踏み入れるのは初めてだったが、普段目にしている山側の街並みを彷彿とさせるものがあった。
目的の事故現場はその街並みの中に位置する交差点の一つだった。
「公園が近いわね。遊んでいる最中に飛び出してしまったのかしら」
「そうかもしれないですね」
亡くなった子どもはまだ三歳ほどだった。記事によると車の速度は法定速度以内で接触もしていなかったが、飛び出した子どもの脚は充分過ぎるほど早く、現れた車に驚いた拍子に勢いを残したまま躓いてしまい、頭を公園前の車止めに強く打ってしまったのだった。その後について調べてみると、ドライブレコーダーに記録されていた映像と複数人いた目撃者によってドライバーには一切の過失は認められず、ただただ不運な事故として処理されたことが別の記事に書かれていることが分かったのだった。
「何だかやるせないわね。亡くなった子ども自身も気の毒だけど、安全運転を遵守していたドライバーや期せずして事故の目撃者となってしまった人たちも心に深い傷を負ったはずよ」
「こうも不幸な偶然が重なるなんて、不条理としか言いようがないです」
「そうね」
二人して沈痛な面持ちを浮かべていたのだろうか、この辺りの住民と思しき女性が訝しげにこちらを見つめていたので私はその場を後にしようとしたが、会長はその女性の元に近付き二言三言言葉を交わすと、何か問いかけ始めた。しばらく女性と話し込むとお辞儀をしてからこっちに戻って来た。
「結構待たせてしまったわね、ごめんなさい。ちょっとそこの公園で休んでいきましょう」
「別に良いですけど、一体何を聞いていたんですか?」
「事故のことよ。何か知っているかと思ってね。それにしても、いくら頼まれ事とはいえあれこれと尋ねて回るのは良い気がしないものね」
眉をひそめながら会長は言う。オカルト研究会が幽霊関連の話を扱わない理由はそこにあるのだろう。非現実的で筋の通らないものばかりに彩られた会を率いながらも、その内面は驚くほどに理性的で情の通った視点に拠っていたのである。
「公園に着いたら気分転換に移ろい雪伝説について聞いて回りましょう。海側に住む人たちにとって山の伝説はどのような意味を持っているのかを知るのも良い機会だわ」
しかしながら調査当初に立てた目測は大幅な修正を余儀なくされた。移ろい雪伝説について知っている人は皆無だったのである。思いがけない結果に肩を落とす私を見やる会長の表情には、しかし確信に近いものが見えた。
「移ろい雪伝説は余りにも突拍子の無い内容だから、伝説として語り継がれてなくても不思議じゃないわ。こういう話は文献にその姿を残すのみということが往々にしてあるんだから、そんなに気を落とす必要はないわよ。さあ、お昼ご飯にしましょう」
駅近くまで戻って来た私たちは、駐輪場近くにあった雰囲気のある小洒落たカフェで昼食を摂ることにした。昼食と言っても世間で言うところのお昼時と外れていたため、繁忙期特有のごみごみとした喧騒に邪魔されることなく、落ち着いて流れる一時を楽しむことができた。
「それにしても遥さんの家ってどの辺りなんですかね?名刺に書いてあった仕事先の住所はこの辺りのはずなんですけど」
「こっちに戻って来たって言ってたくらいだから、この辺りには間違いないでしょうね」
「良いなあ。海は見えるし、仕事場も駅も近いし、お洒落なお店は多いし。こんなところに私も住みたいです」
「どれほど条件が良くても、そこに良い思い出が無ければ一刻も早く立ち去りたくなる場所になるわ。悲しいことだけどね」
「確かにそうかもしれないですけど。ああ、そういえば会長もこの辺りの方なんですよね?やっぱり住みやすいですか?」
「当たり前じゃない……って言いたいところだけど、意外とスーパーが少ないからちょっと不便ではあるわね。物価が高めなのも困りものだし。これなら少々時間がかかっても実家から通う方が良かったっていうのが正直なところよ」
「そっかあ。住むならやっぱり山側の方が良いんですね」
「まあ、住めば都だから」
「そういうものなんですか」
「そういうものよ」
会長は軽く伸びをするとサンドイッチに手を伸ばした。その様子を眺めながら私はずっと気になっていたことを口にした。
「どうして噂って生まれるんですかね」
「え?」
口元にサンドイッチを運ぼうとしていたその手を止めて、会長が興味深げにこちらを見やった。
「いや、今回の件もそうですけど、本来は誰かが亡くなっているわけじゃないですか。それなのに、いつの間にか事実とは関係の無さそうな話が一人歩きして噂になるのがどうも納得できなくて」
サンドイッチを持つ手はそのままに、会長は穏やかに微笑んだ。
「和葉。あなたは本当に心根の優しい子ね。でもね、みんながみんなそういうわけじゃない。むしろ大半の人は自分の興味本位のままに動くものよ。気になるから噂を集めるし、気にして欲しいから噂を広める。そこに死者に対する敬意なんて存在しない。だからこそ、事実無根の話が生まれ、広まっていくのよ」
言い終えてから、会長は少し悲しげな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「でも今回の件については、事情が少し違う気がするわ」
「え?どういうことですか」
「数多い噂の中にはファミレスの子どもの幽霊のような、あからさまな作り話みたいに悪意に満ちたものもあるけれど、そもそもの始まりはもっと人間味あふれるものだと思うの」
「人間味ですか」
「ええ。そして恐らくだけど、それはある意味で悪意に満ちた作り話の何倍も恐ろしい影響を与えてしまうものだと思うわ」
「一体何なんですか、それって」
「憐れみよ」
思わず会長の表情をまじまじと見てしまった。
「それってつまり……。」
「子どもがいたということは、当然その子の親もいたはずよ。不幸な事故によって子どもを亡くした親にかける言葉が果たして見つかるかしら?」
「見つからないと思います」
「でも、周りとしても放っておけない。放ってはおけないけど、かと言って直接声をかけることもできない。そんな時に人はどうするかと言うとね、周りの人たち同士で憐れみをかけるのよ」
――偶然が重なったんですって?
――本当にお気の毒よね。
――これから大きくなっていくって時だったのにね。
当事者を知る者たちが相手のことを思いながらも、身勝手に言葉を交わすそんな光景が思わず目に浮かんできて、私は自分が今苦虫を噛み潰したような表情をしていることに感覚的に思い至った。
「この憐れみに満ちたひそひそ話が部外者の中で共有されるだけならまだ良いかもしれない。けれど、もしそのことを当事者が知ってしまったらどうなるかしら。想像は付くけど、本当の意味では想像できない。直面した人にしか分からないことよ」
サンドイッチをそっと一口かじると、会長は窓の外に目を向けた。
「もしかすると、その心は壊れてしまうかもしれないわね」
「壊れてしまう……」
「人の心を簡単に壊してしまう程の恐ろしい威力に無意識のうちに気付いていたからこそ、それをかき消すかのように様々なパターンの話が生まれたんじゃないかしら」
今になって思い返せば、会長がその時に見せた物憂げな表情は、彼女が既に遥さんが依頼した子どもの幽霊の怪談の真相に辿り着いていたことを物語っていたのだろう。だが、当時の私はそのことに思い至ることもなく、今回の調査によって明らかになった怪談に纏わる人間の負の部分にただ打ちのめされるばかりだった。
「あら、もうこんな時間」
思い出したかのように時計に目を向けると、会長は残っていたサンドイッチを一気に頬張った。
「時間が経つのって早いですね」
言いながら私も食べかけのホットドッグを口にした。
「大抵のことは分かったし、今日はここまでにしましょうか。続きは来週の水曜日あたりにでもしましょう」
「分かりました」
会計を済ませて店の外に出ると、暖かく柔らかな日差しが私たちを包んだ。その眩さに少し目を細めながら会長は自転車のハンドルを市街地の方へ向けた。
「あれ、会長の家ってそっちでした?」
「違うわ」
「え、じゃあ用事ですか?」
「そんなとこよ。さっきまで忘れていたんだけど、あなたの顔を見ていたら思い出したの」
いたずらっぽく笑いながら、じゃあね、と軽く一声かけると会長は自転車を走らせた。何とも素っ気ない別れ際に少し釈然としないものを感じつつ、自身もずっと気になっていたことを確かめに、図書館に向けて自転車を走らせた。




